タンタンが、大学生の時の話です。
タンタンは、某大学に5年間通っていました。
いろいろありましたが、まあ、一言で言うと、その頃、ワタクシ壊れていたので、体調が悪く、ダブったんです。
そして、そのうちの4年間は、神話や文様、盗賊が専門の先生のゼミに登録。
その先生は、「21世紀は神話の時代」とおっしゃったり、いろいろな文様が載った本をお宝のようにニマニマ笑いながら眺めている方で。。。変わっている人だよなぁ~~と思っていたのですが。
今、アナタ、何の仕事しているの??人のこと、いえんぞ(笑)という状態ですね。まさか、こんな仕事をする展開になるとは。
その先生は、「けっこうねー、あとで考えると大学で学んだことの影響って受けているもんなんだよねぇ~」とおっしゃっていましたが、確かにそのとおりですね(笑)。この辺りの話はまた今度。
いつだか調べて、退官するときは最後の講義に遊びに行こうかな。
さて
今回、書きたいのは、その先生ではなく、1年間だけお世話になった、藤村瞬一先生のお話です。藤村瞬一先生は、国政政治学、とりわけドイツのヒトラーの研究をされている方で、藤村先生が退官する前の年、つまりは教授としての最後の一年間、お世話になりました。ヒトラーの「わが闘争」(英語版)をみなで読みながら進めていくゼミでした。
・・・出席日数ギリギリ、もしかしたらそれを上回るぐらい休んでいたかもしれない私でしたが、最後の年ということで、ありがたく「A」の評価をいただきました、、、スイマセン。
彼は、ものすごく、なんというか、学問なのにウェットな表現になってしまいますが、ヒトラーに愛情を持っていた方でした。
藤村先生は、被爆者(確か長崎)で、(確か)ちょうど私がお世話になっている年に、やはり同じ被爆者である、著名な政治学者が逝去され(←名前、忘れちゃっています、新聞で顔写真見たの覚えているのになあ)、「自分が被爆した最後の政治学者になった」とおっしゃっていました。
私は、一応(←という意識の低さで申し訳ないのですが)、藤村先生がされた「国際政治学(もしかしたら、『国際』ってつかずただの『政治学』だったかも)」の最後の講義に出席しました。
そのとき、先生は、「最後の授業なので、今日はずっと立ったままでやります」とおっしゃり、いろいろとお話をされました。(そのときはなんとも思っていなかったのだけれど、あのとき、マラソンランナーのような真剣さで、棒立ちでマイクを持って話し続けた先生の姿は今でもよく覚えています)
今日はこんな内容を話します、みたいなレジメを配ってくれて、そうしたら、その中に、???というか、具体的なことが書いてない部分があったんです。
そして、その部分を話すときになって先生が語りはじめたこと。それは、ご自分が被爆されたときの話でした。先生は、(確か)原爆が落ちたとき、たまたま板(壁・ドア)のかげにいて、助かったそうです。その後の話、してくれました。
って、こんなに、長い文章を書いておいて、みなさんに読ませておいて、
私、今、その後の話、書けないんです。
書けないというか、書く気にならないというか
よくわからないけれど とにかく、書きません。
その後の話、壮絶でした。
先生が、最後の授業だからということで初めて話してくれた話だったのか、何度か話したことがある話なのかわからないけれど、すごい話でした。
そのときは、正直なところ
「(確かに壮絶だけれど)ふぅ~~~ん」
みたいに思っていたのですが
今になってもよく覚えているというか
むしろ今の方が覚えているというか
とにかく 私の中に 深く 刻まれています。
その話を学生にした先生の人間力もとてつもなく甚大。
その経験をして政治学者になり、ヒトラーに愛を注ぐというのも、とてつもないこと。
ここ1、2週間であった数人の方にこの話をしたら
「だからこそ(被爆してその経験をしたからこそ)なんじゃない」って全員が言いました。そのとおりだと頭では思います。
けれど そういう台詞を言えないくらい
割りきれないくらい 私は 派手に
ドカーーーンと ハートに 刻まれているらしいです。
最後に、派手に、ご自分の生き様で、学生に ものすごいものを
残していきました。少なくとも、私は、相当、残されました。
当時、タンタンは、とことん、体調が悪くて「楽な先生でよかった!」ぐらいの認識しかないダメダメな学生で。先生が「もう今年で退官だから、参考になりそうな本をあげるから教授室においで」っておっしゃってくれても、アポを取って伺う気力がないくらいボロボロだったけれど。藤村先生からいただいた二次情報は、タンタンの今の生き様に大きな影響を与えている気がします。
情報には
自分で経験した一次情報
経験された方から学んだ二次情報
書物や映像から学んだ三次情報
があって。
学者は、フィールドワーク以外は、圧倒的に三次情報が多くて。
教授という職業は、それを学生にさらに噛み砕いて
伝えてくれているのだと思う。
けれど、二次情報はやっぱりすごい。
そして、彼の二次情報がタンタンに深く刻まれたのは
先生の深い三次情報ゆえでもあると思う。
なんか、ひとりの政治学者の生き様
がっつり見せていただいたと思っています。
人間の一期一会はどれもかけがいのないもの。
そして あのタイミングでの あの出逢い
どうもありがとうございました。
の気持ちがいっぱいです。
「今まで忙しくて書けなかったけれど退官したら本を書きたい」と楽しみそうにおっしゃっていた藤村先生。ネット検索してみたら
2005年11月、「ヒトラーの青年時代」
という本を出版されていました。
おめでとうございます。
「ヒトラーの青年時代」 藤村 瞬一 (著) 、刀水書房 (2005/11)
(↑こういうの載せる順序のルールみたいのあるんですよね。おバカなタンタンはすっかり忘れているので、適当で許してください。。。)
近いうちに、アマゾンで注文します。
藤村先生は、うれしいことに、ご存命のようです(おそらく)。
遠い未来に先生が逝去されて何年も経って
そのときに もしかしたら どこかに 書くかも。
その頃、ブログ、続けているんかなあ、わからないな。
ただ、誰かに情報を伝えたいとき、受け取ってもらえるかどうかわからないけれど。
けど。
より多くの方に伝え、その方たちにまた何かに繋げていってほしいと願うとき。
自分が世界に注目してもらえるキーパーソンであればどんなにいいだろう、と思います。実際は、そうなってもいないのに、いや、それはどうか勘弁してください!と思っているのですが(笑)。というかこの妄想そのものも図々しいですよね、こんなヤツでスイマセン。
この話。
結局のところ肝心な部分を書くつもりはないので、書こうかどうかずっと迷っていました。
書きたいと思いつつ
読む人も肝心な部分が書いていないからつまらないだろうなあ だとか
タンタン忙しいんだよね、一番のシーンを書けないのにものすごい文章量になるだろうから、面倒だよ、だとか
思っていました。
そんなとき。
8月9日(日)、父方の祖父の四十九日。
儀式は11時からだったのですが、会場に向かう途中で(・・多分、家を出る前から)黒ストッキングを伝線させていたタンタンは、母の強い勧めで、駅ビルで黒ストッキングを買って履き替えました。
・・・時間ギリギリだったので、タンタンとしては、「どうでもいいよ、ストッキングなんて」と思ったのだけれど母には譲れないポイントだったようでした。・・・というか、十分、間に合うと思っていたらしいです(・・・不思議、スピリチュアルのいうところのシンクロがといかそういうのじゃなくて、母様の思考回路が。。。。そういう人なんです)。
はい、タンタンがストッキングを伝線させたりしなければ
そもそも、余裕を持って家を出ればよかっただけの話なんですけれどね。
それで、ストッキングを履き替えて、会場までタクシーに乗ったら、すでに11時ちょっと前。
タクシーの中では
ラジオで
長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典が中継されていて
タクシーが出てまもなく
長崎に原爆が投下された時刻
11時02分を迎えました。
黙祷が始まり
タンタンもタクシーの中で恥ずかしかったから特に目をつぶらなかったけれど、なんとなく思いを馳せました。
黙祷終了後
ラジオのアナウンスが
それぞれの人がそれぞれのやり方で黙祷を捧げました
と言っていて、そうだよね、そのスタンスだよね、と思った。
そのあと、田上富久市長(長崎)の長崎平和宣言を聞きました。
今、私たち人間の前にはふたつの道があります。
ひとつは、「核兵器のない世界」への道であり
もうひとつは、64年前の広島と長崎の破壊を
くりかえす滅亡の道です。
今年4月、チェコのプラハで~
だから、なんとなく、書いてみました。
必要としてくれる方の元へ情報が届いていますように
黙祷。
合掌。
世界が平和になりますように。