Welcome to TANN'S_blog(中島富男)

好き勝手なことを言ってるだけです。パンの記事は全て移設しました:http://pane.piazza.link

日本仏教に関すること2件 その1

2014-07-19 21:45:10 | 少し理屈ぽいこと
天台宗と真言宗、いわゆる、密教については、学生時代に関心を持ちました。

比叡山にも高野山にも行く機会を得ていないのですが、

密教に関する、今の私の考え方は、平安期の大和朝廷の貴族階級にとっての、明治期貴族のキリスト教文化みたいなものと理解しています。
つまり、外来文化への憧れの対象です。

なので、密教の教義による、日本の四国遍路は、日本人の文明に対する理解の低さの現れと捉えています。

また、多くの日本人は、密教と修験道を混同しているようにも感じられる。

密教とは、中国で発展した仏教の教義の一つである。

修験道は、日本の自然崇拝の一つであり、山野を修行の場として駆け巡るのであるが、これは、平安期に日本固有のものとして発展した、宗教と言うか、鍛錬というか、悩んでしまうが、密教ではありません。私は、修験道とは、現代なら、マラソンランナーが感じると言う、ランニングハイによるエクスタシーを得るものなのではないかと、勝手に考えています。

一方、東洋の神秘である禅については、二つの面を考える必要があると思っています。

一つは、私の日本史の記憶が間違っていなければ、禅は、応仁の乱後の、室町時代公武政権の、武士階級に広がったと言う点です。室町幕府とは、南北朝による日本の疲弊期を過ぎて、安定を取り戻した、公家と武家の合体政権です。

公家には、既に密教と浄土宗と言う極楽への道が有った訳ですが、坂東その他地域から京に集まった武家には、浄土宗を含む既存仏教の教義は、難解であったでしょう。しかし、農民に浸透していた、一向宗や日蓮宗のように、特定の念仏により、成仏すると言うことも、戦を死に場とする、武士階級には、与することは出来なかった。すると、禅宗の、座禅と言う手段を通して、戦場の記憶と京の平穏との間の心の平衡を、武家らしく得ることができたのでは無いかと言うことです。

二つめは、現代のような、脳科学や精神医療がなかった時代において、現代の、気分障害などのために行われる、カウンセリングや、セラピーなとが、禅と言う、『手法』には、あるのではないかと言うことです。

キリスト教徒の欧米の方たちが、『座禅』や、インド巡礼などに神秘主義的な関心を持たれるのは、恐らく、脳と言う、生物の一つの臓器の機能に対して、心臓や胃腸などの臓器とは、異なる、いわゆる『パワー』が潜んでいるのではないかと考え、それは、キリスト教徒の義務である、神への祈りだけでは、得ることが出来ないと言う、疑問を持たれるからではないかと推察しています。

私は、脳とは、神経細胞が、1箇所に集まった臓器としてしか認識していませんので、いわゆる、『パワー』なるものは、存在し得ないと考えています。よって、『座禅と言う、普段と異なる環境に脳の神経細胞を曝す』ことには関心はありますが、座禅を通して、仏教徒の最高の段階である『悟り』には、至ることはあり得ないと考えています。

あくまで、現代のカウンセリングやセラピーとして機能である、脳の神経細胞の平衡を取り戻す手法であると言う考えです。

禅に関する考え方は、前提にした、日本史の記憶が間違っていると、全くの誤解となります。

因みに、私の家内の父の葬儀は、浄土真宗により、私の父の葬儀は、浄土宗により行われ、二つの宗派の葬儀における読経を聴き比べる機会を得ましたが、

浄土真宗の読経は、言葉が、平易であり、浄土宗の読経は、古語が多く難解と言う感想を持ちました。

浄土宗の導師殿に、率直に、その感想を質問しましまたら、確かに、浄土宗の読経には、梵語のままの言葉が少なくないと言う、お答えを頂いた次第。

読経には、日本の時代が、未だに残っています。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿