
普済寺は岩国市錦見1丁目7‐30にある。私が寺に立ち寄った時には山門の改修工事が進行中だった。


巖國山普濟寺と塋域の由来を目で追う。裏山から石材を切り出し運んだ歴史などにも言及している。左下の地図に砂走側という文字があるのを私は見逃さなかった。
巖國山普濟寺と塋域の由来
普濟寺は金光公(吉川広家)が森脇飛弾守春方に賜った所で山下に無量寿寺という古刹があった。いまの普濟寺は、その大寺の再興と伝える。
当時は七堂伽藍を備えていたが、荒廃し住職は洲鶴和尚であった。
寺の用材は飛弾守春方の用材に転用されたと思われる。
吉川広家公が飛弾守春方に与えた覚書の内に「無量寿寺寺跡悉相渡候条寺再興勝手次第之事」という一条がある。
飛弾守春方は、慶長六年二月(一六〇一)その地に小庵を建立開基となる。
元和年間(一六一五頃)巖國山普濟寺と寺号を申請、また藩祖に請うて藩士の墓地とした。春方は隋浪公(吉川元春)父子に從って婁々奇功をあらわし岩國城本丸の城代となり老後剃髪して玄角と名乗る。十一男あって山中での最大石は、その兄弟自ら之を運んだもので普濟寺で最も大きい。

当寺は岩国南八十八霊場の第十八番にあたる。本尊は薬師如来(十一面観音菩薩)。河上徹太郎(河上家は元士族で肇とは親戚筋)の菩提寺でもある。



巖國山普濟寺と塋域の由来を目で追う。裏山から石材を切り出し運んだ歴史などにも言及している。左下の地図に砂走側という文字があるのを私は見逃さなかった。
巖國山普濟寺と塋域の由来
普濟寺は金光公(吉川広家)が森脇飛弾守春方に賜った所で山下に無量寿寺という古刹があった。いまの普濟寺は、その大寺の再興と伝える。
当時は七堂伽藍を備えていたが、荒廃し住職は洲鶴和尚であった。
寺の用材は飛弾守春方の用材に転用されたと思われる。
吉川広家公が飛弾守春方に与えた覚書の内に「無量寿寺寺跡悉相渡候条寺再興勝手次第之事」という一条がある。
飛弾守春方は、慶長六年二月(一六〇一)その地に小庵を建立開基となる。
元和年間(一六一五頃)巖國山普濟寺と寺号を申請、また藩祖に請うて藩士の墓地とした。春方は隋浪公(吉川元春)父子に從って婁々奇功をあらわし岩國城本丸の城代となり老後剃髪して玄角と名乗る。十一男あって山中での最大石は、その兄弟自ら之を運んだもので普濟寺で最も大きい。

当寺は岩国南八十八霊場の第十八番にあたる。本尊は薬師如来(十一面観音菩薩)。河上徹太郎(河上家は元士族で肇とは親戚筋)の菩提寺でもある。

