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寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

岡山市中区小橋町1丁目・内田百閒記念碑園

2015年01月19日 | 
上部が福山市の河口堰に似た新堰管理橋の東詰付近から住所は岡山市中区小橋町1丁目に変わる。東詰から旭川に沿って北(相生橋方面)に向かうと右手に内田百記閒念碑園がある。

碑園全景

石組み

奥の石組みに何やら文字が彫られているようなので近づいて確認したところ、内田の作った句「春風や 川浪高く 道をひたし」である。

句

一文

また句の隣は名エッセイ「古里を思う(後楽園)」の書き出しの部分だ。参考までに、その後に続く文を引用しておこう。内田は戦前(明治期)の岡山の様子を愛情を込めて丁寧に描いている。

…尤も後楽園と町内の家並との間には田圃があって、家じゅうでお花見をした時後楽園の裏門まで俥に乗って行った記憶がある。それ位離れているのだから、後楽園でなく焼き場か監獄署であったら、あすこは古京の町内だとは考えないかも知れない。
 後楽園の裏門と古京の家並との間に、片側には大根畑、片側には麦畑や葱畑があった。今では家が建ち列んでいる様な話である。その辺り一帯をこうえん裏と云った。学校に行き出して少し字を覚えてから、こうえん裏というのは公園裏の事だろうと自分の解釈できめていたが、ずっと後になってそれは間違いである事に気がついた。後楽園をこうえんと云うのは古い呼び方であって後園であり、公園のつもりではなかった様である。子供の時の記憶では大人や年寄りはだれも後楽園などと云うよそ行きの呼び方をしなかった。みんな御後園とよび、御後園の鶴と云った。私などもはっきり後楽園と云う呼び方になったのは中学へ行き出してからであって、それ迄は近所の友達と毎日の様に裏門の横からもぐり込んで遊びに行くのに、後楽園へ行こうなどと云った覚えはない。すぐ口につくのは「ごこうえん」いう語呂である。…

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