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寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

元安河畔の広島県物産陳列館(現・原爆ドーム)

2009年08月06日 | 日記

私の手元に広島県物産陳列館(現在の原爆ドーム)の絵はがきが一枚だけある。この建物は大正10(1921)年に広島県商品陳列館と改称されるのでそれ以前に撮影されたことになる。わずか6年しか用いられなかった名称が記された絵はがきは結構貴重なのかもしれぬ。

在りし日の広島県産業奨励館

被爆前の色彩を再現した広島県産業奨励館の絵はがき(1998年MCC製作)を見てドームが輝いているのがお分かりになるだろう。迂闊な私はこのことを最近まであまり気に留めていなかった。薄野太郎さんの【続々がんす横丁】を読んで「なるほど!」と手を叩いたのである。建物の歴史と構造については彼が詳細に書き残しているので、その一部をご覧いただくことにしよう。

 猿楽町(注1)で忘れられないのは原爆ドームの産業奨励館である。この建物はかつて物産陳列館(注2)、商品陳列館といわれた時代もあって、…大正三年(注3)一月元安河畔に広島県物産陳列館の工事を起こした。この年の夏の夜には、この敷地に納涼場ができて子供相撲なども盛んに行なわれ、著者も黒モスの帯を褌にして四本柱になぞらえた青ザサの下で相撲をとったことを覚えている。

 その後、三階建のこの建物は一年後に完工して大正四年四月五日広島県共進会の第一会場として誕生し、その年の八月五日から広島県商品陳列所(原文ママ)と看板をかかげ、そののち産業奨励館(注4)となり、昭和十九年五月限りにこの名称も消えて、もっぱら県土木関係そのほかの事務所に当てられ、翌二十年八月六日あの原子爆弾にされされた。

 建築設計が外国人(注5)であったことを証明づけるものに、珍しいラセン階段がある。いまは原爆に焼けただれた赤サビのシュウ態をさらしているが、当時はこの一階事務所前から三階に通じたラセン階段は白ペンキで塗られた特異なものであった。そしてラセン階段を包んだ鋼鉄製の塔は外国に見られる古城の形に似たもので、紫色の袴をはいた娘たちの専用であった。

 また、りっぱな洋風水洗便所や電気自動パイプオルガンがあった小集会場、二階正面の貴賓室の設計など、創設当時すでに関西第一の洋風建築物として人気を集めた。広島で最初の洋式水洗便所があったのを知る人が少ないのは、初代の豊島鋭郎館長が来賓の外国人に限ってしか使用を許可しなかったせいでもあろう。

 この建物で印象深いのはもちろん鉄骨のままさらされているドームである。銅板張りで昭和十年以後はかなり緑青におおわれて、美しい姿態を見せていた。内側の円形の天井壁は全部が白い石膏で、ドームの内側の周囲は太い木製のランカンがつけられていたが、これを一周することは一般には禁止されていた。
 
 二、三階にはりっぱなガラス張りの陳列台が並べられて商品展示会がくりかえされたが、一階は大体倉庫で県の費用で全国各地から購入された参考品でうずめられていた。庭園にあった六本柱の噴水塔には大理石製のギリシャ神話劇のマスクが飾られて、その口からふきだす水の風景は、ロートレックの絵の中にも見かけるような平和さがあったと思う。

明治35年生まれの広島市民による回想はどんな新聞記事やテレビの特集番組よりも価値がある。戦前の広島市の文化を研究する者にとっては必読書であろう。

注1:現・広島市中区大手町1丁目
注2:冒頭の画像(戦前の絵はがき)を参照のこと
注3:1914年
注4:昭和8(1933)年に改称
注5:チェコ人建築家のヤン・レッツェル

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