見出し画像

寮管理人の呟き

旧西国街道の一部だった己斐橋(後編)

己斐橋(車両専用)のすぐ下流(南側)には己斐橋歩道橋(歩行者と自転車用)が併設されていた。前者は高度経済成長期の昭和40年(1970)に、そして後者は平成6年(1994)に完成した。

歩道橋2

歩道橋と車両橋

『西国街道を行く 街道ぶらり旅 安芸・備後路 / 中国地域づくり交流会 西国街道ぶらり旅の会(2010年)』
 福島川が埋め立てられ、福島橋も姿を消してしまった。代わりに大きく拡張され太田川放水路に変わった。今はゆったりと水を流す放水路で、長さ二百八十メートルの車道の横に歩道橋も併設された己斐橋を渡って行く。
 江戸時代、己斐橋の下手、川の中央に中州があった。土地の人は「中ノ島」と呼び、草花や野菜の他、綿や藍などの栽培をしていたといわれる。明治に入り、個人でこの島を買収して己斐側の新開地の上に島の土を運んで、土地造成が行われ中州は消滅した。
 享保十三年(一七二八)の「広島町新開絵図」には、己斐橋の下流に新設された新己斐橋(市電の通っている橋)の辺りに中州が描かれている。

対岸

私は土手道から対岸の御仕置場跡(旧山手川の河原)を見つめながら西国街道沿い近くに配置された広島藩の西の役人村について思いを馳せていたのだった。

絵図
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「旅」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事