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寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

福山市鞆町後地の寺を巡る(その1)

2011年12月26日 | 
鞆町後地は寺が密集する地域である。ささやき橋を(西へ)渡った所が鞆で最古の歴史を持つ臨済宗・静観寺で大同元年(806)の建立と伝わる。門前には山中鹿之助の首塚がある。

 …山中鹿之助幸盛は、主家、尼子家再興に一生を捧げ、戦国時代の武士の鑑みとして今も尚、大衆に親しまれている悲運の武将である。その鹿之助は天正六年(一五七八)の七月某日に、備中甲部川(岡山県)の阿井の渡しで、河原の石に腰をかけ渡船を待っていた後から、河村新右衛門という護送の武士に、不意打ちをかけられ、卑怯なり!!と叫んで鹿之助は川の中に飛び込み、刀の柄に手をかけ、ハツタ!!と睨んだ。河村ははその猛威にうたれ岸から辷り落ちた。その隙に福間彦右衛門が後からムンヅと組みついた。
 鹿之助は少しも撓まず、福間の上帯を取って河の中へ投げ込んだ。しかし不意を衝く五、六人の刀槍の襲撃のため傷つきついに首を刎ねられてしまった。これが驍将(勇将)山中鹿之助の最期の場面であった。
 鹿之助の首は首桶に塩漬にされ、安国寺恵瓊が警護の一団を宰領(とりしまる)して将軍足利義昭の流寓るぐう(京都から逃げた仮住居)の館、鞆の仮公所に持参し、毛利輝元、隆景を加えた三人の検視に供えたのであった。
 毛利家に久しく敵対した尼子家の忠臣、山中鹿之助の首はかくして鞆の路傍に梟されること三ケ月、心ある者がそれを気の毒がり、毛利家に願出て路傍に埋め、一個の墓標を立てた。それが今日建ててある自然石であるといわれる。

『鞆今昔物語 / 表精(昭和四九年)』

臨済宗・静観寺門前にある山中鹿之助の首塚

私は墓に手を合わせて通称:寺町通りを南へ進んだ。そして右手に大法華堂の石柱を見つけ日蓮宗・法宣寺の境内に入った。

日蓮宗・法宣寺

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