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寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

本川橋を渡り「中島勧商場跡」に向かう

2009年09月23日 | 

私は本川橋(かつては猫屋橋といった)を渡り中島町(旧中島本町)に入った。「続がんす横丁」の「腐っても鯛の中島本町」には重要な記述が多いので参考までに引用しておこう。

 …中島本町は、明治、大正、昭和三代にかけて、広島の盛り場のメッカといわれたものである。三代にわたってこの盛り場の思い出にはいろいろあるが、三代といってもすでに大正の終わりごろには中島界わいもさびれていた。そして原爆後は、かつての盛り場の中心地であったあたりは平和公園の中に吸い込まれてしまった。

 中島本町は東西の繁華街へ通じる中心の地点で、昔は目抜き通りの一等地としてならした…しかし、この界わいはいわばお坊ちゃん育ちのお人よしがたたって急テンポの時代の波にあっけなく見捨てられて、せっかくの一等地もがた落ちになった。それでもはなやかな時代の惰性で、慈仙寺鼻と天神町寄りの一画にはカフェー七軒、料理屋五軒、一ぱいのみ屋が十一軒、映画常設館二軒と、繁華街らしいスクラムを組んでお茶をニゴしていたという。大正中期の話である。

 ここでもっともみじめだったのは、かつての中島勧商場がまるであばら屋のような姿をされしていたことで、これらの土地が例外なしに担保流れで銀行の所有地になっていたという。そのかみの大商店の没落を裏書きしていちまつの哀愁を感じさせたものである。…

 しかし、集散場とか勧商場とかいわれた時代までさかのぼると、中島界わいは広島人にはこの上もない心あたたまる歓楽境であった。広島の盛り場の第一は明治十五年三月にできた中島集散場で、まさに広島最初の歓楽街であった。最初の店舗は十七戸で、敷地は千三百坪(約四千三百平方メートル)と記録されている。第二が前にも書いた横町の商工倶楽部の三十戸で明治二十二年五月、そして三番目にできたのが明治二十五年四月同じ中島本町にデビューした中島勧商場で十二軒、さらに十年後の明治三十五年六月には中島本町に第二集散場として五軒の店ができた。

 中島集散場のあとを追うように、十年後にできあがったのが中島勧商場である。すなわち、慈仙寺鼻の入口にあって、集散場と南北相対した存在であった。

 明治二十五年四月の開設で、勧商場にあった商店は二十戸もあって、場内の広さは二百五十坪(約八百二十五平方メートル)で、その中央には寄席の鶴の席があった。

 鶴の席といえば、舞台の上部に長さ六メートルぐらいの押し絵の鶴が飾ってあったのも忘れられない。この寄席は、集散場にあった胡子座のあとを追って明治四十五年に活動写真館に転向して、喜楽館という名の活動写真常設館になった。

平和公園内に建つ「中島勧商場跡」の石碑

勧商場(勧工場)とは主に雑貨や荒物を扱う店の集合体になる。現在の百貨店やデパートの前身と思っていただきたい。勧商場の歴史は、明治時代に一世を風靡したが年号が変わる頃には閑古鳥が鳴いていた「浅草十二階(凌雲閣)」とよく似ている。

「中島勧商場跡」を示す石碑の前で時計を見ると午後1時を過ぎていた。腹が鳴るのも当然だ。近くで昼食をとることにした。


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