先日、所用のために院庄(岡山県)へ出かけました。
倉吉市からは、中国山地の人形峠を越えて岡山県に入ります。
何時もは、人形トンネルを通って岡山に入るのですが、この度は、峠の秋の様子が見たくて、トンネル開通前の旧道を通ることにしました。
<
峠の頂上(倉吉駅より26km)近くに、当時、日本中で話題になった、ウラン鉱発見の地があります。
その頃、ウラン鉱を発掘していたこの地で、現在は動力炉・核燃料開発事業団/人形峠事業所が事業を行っています。
事業の1つとして、人形峠展示館が設けられ、
「・・・、動燃・人形峠事業所は、
日本のウランに関する技術開発センターとして、
重要な役割を担うまでになりました。
・・・・・・・・・」(資料より)
事業所の仕事が紹介されています。
峠を下りると鏡野町の足踏み洗濯で有名な奥津温泉に出ます。
温泉道の駅では、秋のイベントが行われていました。
豆挟みゲーム (90秒間に皿に移す豆の数を競う)
朝、開場したばかりでまだ人出が少なく、豆挟みゲームに呼び止められて挑戦しました。
90秒間で最低の32個でした。老妻は51個で2位、優勝者は60個で2キロの新米をもらいました。
会場には多くのテントが張られ、アユやマスの塩焼き、焼きイカ、鶏肉の串焼き、搗き立ての餅、果物、農作物などの店ができていました。
道の駅を出て約10分で、奥津湖(苫田ダムサイト)に着きました。
苫田ダムは、多目的ダムで昭和32年(1957)に構想が発表され、
水没(504世帯)地区のダム阻止運動によって着工が遅れ、
漸く、平成6年に同意が得られ、平成17年3月に機能するようになったそうです。
長期にわたる交渉の経過は度々NHKテレビで放映されていました。
奥津湖の周囲は14kmで、長さ225m、高さ74mのダムでせきとめられています。
ダムの上を通って対岸の道を進むと、また、ダムが現れました。
このダムは鞍部ダムと言います。
ダムサイトを走り終えて院の庄へ向かいました。
途中所々に新しい住宅が目につきます。
これらの住宅は、水没によって住み慣れた土地から移り住んでいる人の住まいだそうです。
約10分で院の庄に着き、午前中に仕事を終えて、ダムサイドで昼食を食べて、3時前に帰宅しました。
平成50年に大阪に住むようになってから数年間は、毎月のように水没地区を走る国道を通って田舎に帰っていました。
学校や役場の建物が見えなくなり、年を追って住宅が少なくなっていく村の姿を見てすごくさびしさを感じていました。
多くの方々の決断が、みんなの今日の生活を支えていいることを忘れてはならないと思います。
倉吉市からは、中国山地の人形峠を越えて岡山県に入ります。
何時もは、人形トンネルを通って岡山に入るのですが、この度は、峠の秋の様子が見たくて、トンネル開通前の旧道を通ることにしました。
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峠の頂上(倉吉駅より26km)近くに、当時、日本中で話題になった、ウラン鉱発見の地があります。
その頃、ウラン鉱を発掘していたこの地で、現在は動力炉・核燃料開発事業団/人形峠事業所が事業を行っています。
事業の1つとして、人形峠展示館が設けられ、
「・・・、動燃・人形峠事業所は、
日本のウランに関する技術開発センターとして、
重要な役割を担うまでになりました。
・・・・・・・・・」(資料より)
事業所の仕事が紹介されています。
峠を下りると鏡野町の足踏み洗濯で有名な奥津温泉に出ます。
温泉道の駅では、秋のイベントが行われていました。
豆挟みゲーム (90秒間に皿に移す豆の数を競う)
朝、開場したばかりでまだ人出が少なく、豆挟みゲームに呼び止められて挑戦しました。
90秒間で最低の32個でした。老妻は51個で2位、優勝者は60個で2キロの新米をもらいました。
会場には多くのテントが張られ、アユやマスの塩焼き、焼きイカ、鶏肉の串焼き、搗き立ての餅、果物、農作物などの店ができていました。
道の駅を出て約10分で、奥津湖(苫田ダムサイト)に着きました。
苫田ダムは、多目的ダムで昭和32年(1957)に構想が発表され、
水没(504世帯)地区のダム阻止運動によって着工が遅れ、
漸く、平成6年に同意が得られ、平成17年3月に機能するようになったそうです。
長期にわたる交渉の経過は度々NHKテレビで放映されていました。
奥津湖の周囲は14kmで、長さ225m、高さ74mのダムでせきとめられています。
ダムの上を通って対岸の道を進むと、また、ダムが現れました。
このダムは鞍部ダムと言います。
ダムサイトを走り終えて院の庄へ向かいました。
途中所々に新しい住宅が目につきます。
これらの住宅は、水没によって住み慣れた土地から移り住んでいる人の住まいだそうです。
約10分で院の庄に着き、午前中に仕事を終えて、ダムサイドで昼食を食べて、3時前に帰宅しました。
平成50年に大阪に住むようになってから数年間は、毎月のように水没地区を走る国道を通って田舎に帰っていました。
学校や役場の建物が見えなくなり、年を追って住宅が少なくなっていく村の姿を見てすごくさびしさを感じていました。
多くの方々の決断が、みんなの今日の生活を支えていいることを忘れてはならないと思います。