皆さんの毎日も師走でお忙しい日々を送られていると思います。
寒さが増してきました。
寒い年末の気忙しい中、どうかお体ご自愛くださいね。
ところで、私も、バタバタ忙しい毎日を送ってます。
仕事も経理上は少しずつ年末へ向けて片付けてますが、住所録の整理が追い付かず必死です。
医院の年賀状なので半端な数ではないし、喪中も間違えては失礼だし、本当に緊張しながらの確認作業・・・・・・毎日ぐったりしてます
そんな急ぎたい時に限って、スタッフのチーフ的存在のスタッフから
「今年1年間の全員の有給消化数を教えて欲しいんだけど。」とか、突発的に忙しい時に限って依頼されるので、
「ハ~イ」と笑顔で返答するものの、内心は「どうしよう・・・・・・」なんて、バタバタしてしまう
そんな毎日ですから気持ちに余裕がなくて・・・・・・。
普段は16時までの勤務だけど、12月は17時半から18時まで仕事をしてくるので、帰宅すると休む暇なく夕食の準備に取り掛かるので、
20時~21時の夕食になって、夕食を食べ終わると、どっと疲れが出て、PCの前に向かえず、コメントの返信も更新も滞ってしまう毎日です。
とりあえず、今日のお休みは、仲良しのママ友とのランチで誘われ、たった今まで我が家でお茶してました。
気忙しい毎日の中、そんな時間が唯一心から楽しめて、疲れが癒される時間です。
その時のランチ報告は今夜あたり書きますね~。
勤務先の奥様から可愛い贈り物を頂きました
白い親子のドラゴン
お茶目なとぼけた顔立ちがとてもひょうきんで面白いですよねっ
ズームすると、こんなお顔立ち
ちょっと、おとぼけ顔がクスッっと笑っちゃう
信楽焼のドラゴンです
私ともう一人の医療事務の方がして頂きました
きっと、勘がいい方なら、これがどういう意味かお解りかも~
ここ年末にきて、とても悲しいお知らせを知りました。
高校時代の友達杏ちゃんちのお祖母ちゃんが104歳の大往生でご逝去され、今日14日水曜日が告別式でした。
お祖母ちゃんには1度お会いしたことがありますが、笑顔が可愛いらしいお祖母ちゃんでした。
1年前から、怪我をしたり、具合が悪くなり手術したり、入退院が続き、とても元気だったお祖母ちゃんが最期の1年間は、痛い想いばかりして本当に可哀そうでした。
杏ちゃんはじめ、ご家族の皆さんのご苦労を想うととても切なくなりました。
お祖母ちゃんの事なので、あまり気を遣うと申し訳ないので、プリザーブドフラワー電報申し込み送りました。
104年の人生、どんな人生だったんでしょうか?
104年というと、1世紀分を生きてこられ、変動する時代の変化をずっと見守って来たひとりだったと思います。
心からお祖母ちゃんの104年の人生を讃え、黄泉の国でも笑顔で楽しい時間を過ごして欲しいと思います。
私の人生・・・・・・残された時間はどのくらいか想像もつきませんが、たった一度きりの人生、
泣いたり怒ったりする人生よりも、笑顔で楽しい時間を過ごして、私の人生を閉じたいって思ってます。
いずれ死んでしまうなら、どうしてこの世に生を受けるのか・・・・・・
小さい頃、人が死んだらどういう事になるのかと考えたら、哀しくなって夜、眠れなくなったことが何度かありました。
そして、自分の両親やきょうだいがもしも死んでしまったら・・・自分が死んだら・・・と考えたら、
怖くて切なくて眠れなかったことを思い出しました。
小学校低学年の時だったと、今でもその夜の何日間を覚えてます。
哀しくて悲しくて、泣いていた幼い私がそこにいました。
幸いにも私の両親は未だ元気で居てくれるのですが、いずれそういう日がくるのかと思うと、もしも私が先に死んでしまうことがあると
親不孝だと、再度感じた今日この頃です。
ここからは追記してしまって長くなるので、読みたくない方はスルーして下さい。
重い内容なので・・・・・・
ここにはなかなか書きたくても書けませんでしたが、長男の1つ上に女の子が居ました。
いたはずです、本当なら。
私に男の子しか生まれなかったのは、もしかしたらその娘が、
「私が居たことを忘れないでね」
って、そういう想いから、私には男の子しか生まれてこなかったんだと思ってます。
そして、あの娘が元気な3人の男の子たちに生まれ変わってきてくれていると信じています。
私にとっては、この三人の息子たちが本当に大切です。
そして、私は抱いてあげられなかったけど、心から娘になるはずだったあの子を大切に想ってます。
初めての我が子(女の子)を切迫流産で入院しながらも大切にお腹の中で育てて予定日を迎えました。
その10ヶ月の予定日に破水して、
通院していた病院へ産みに行って、初めてで不安だったけど、病院の院長(私の担当医)や看護師さんに任していたら
勿論安心だと想い、家族全員生まれてくる初めての子&初めての孫を楽しみに、迎える準備も万全で入院しました。
でも、赤ちゃんは生きたまま、私の腕の中にはきませんでした。
そして、誰も私にだけは抱かせてくれませんでした。
私が10ヶ月大切に育てたのに・・・・・・
私がママなのに・・・・・・
私に抱かせてしまうと、死んでしまった我が子を私は絶対に放さず抱いたまま過ごすという事が解っているからこそ、
抱かせられなかったと両親に言われました。
確かに、私は絶対に抱きしめたらそのまま渡さなかったと思います。
ただ、とても色白で顔が整った可愛らしい女の子だったということだけ、主人や両親から聞きました。
「美人薄命と言う言葉の意味が解るほど、本当に可愛らしい女の子でとても可愛かった」と泣いてました。
そして、院長や病院側は
「あれだけ順調に育っていたのに、お腹の中で赤ちゃんが自殺したとしか考えられない。」
と病院側は説明したそうです
家族全員、殴ってやりたい気持ちになったそうです。
しかも「原因が解らないから、解剖させて欲しい。」
と言ったそうです。
「こんな小さな体を、切り刻むなんて、させられない。」
と、家族は言い返したそうです。
今なら、病院や担当医を訴えることが可能ですが、あの頃の時代は医者の方が権力があり、
裁判をしても勝てない時代でした。
「自殺したとしか考えられない。」と説明され、泣き寝入りでした。
今ではPCがある時代なので、すぐに何でもわかりますが、あの頃は医学書を頼るしかなくて、
いろいろ調べました。
でも、事実はすぐにわかりました。
破水したら24時間以内に生ませないと、赤ちゃんが子宮口を頭で塞いでいるため、
脳を圧迫されて、死産するか脳性小児まひの様な障害を持って生まれると書いてありました
私はほぼ3日間、自然分娩が一番いいからとほぼ3日間破水したまま生ませてもらえなかったからです。
微弱陣痛でしたが、最大8センチまで子宮口が開いた時もあったんです。
その時に、どうして生ませてくれなかったのか・・・・・・
破水してからもなかなか陣痛がこなくて、自然分娩が一番いいと言われ、私は、いつ「帝王切開にしましょう」と言われてもいいように、
怖かったけど心を決めてたんです。
が微弱陣痛のままほぼ3日間生ませて貰えず、結局、夜中の看護師さんの見回りで
「赤ちゃんの心音が聞こえない。」と、告げられ、
赤ちゃんが心配で心配で怖くて震える中、真夜中の病室から連れ出され、超音波で再確認して、
「赤ちゃんはお腹の中で死んでしまったから、早く出してあげないと可哀そう」だと血相変えた看護師に言われ、
私は泣きながら分娩台へと導かれ、恐怖と哀しみの中、赤ちゃんを生まされました。
赤ちゃんは死んでしまったから、生まれようという力はありません。
私の力だけで、頭に血が上るほどの悲しみと絶望の中ひとり号泣しながら、生まされました。
その時、初めてお尻に陣痛促進剤なのか、注射を打たれたんです。
「もっと早く打ってくれてたら・・・・・・」
その時我が子を亡くしてから、生きていく希望もなくなり、
そして、無情にも、私のおっぱいが張って、どんどん母乳が出てくるんです・・・・・・
出でくる母乳を薬を服用して止めるんです・・・・・・
せれが切なくて、飲ませてあげたくて・・・・・・
「死にたい、死にたい、あの子のところへ行く」
「あんな小さな赤ちゃんを、ひとり冷たい土の中に入れておくなんて、私は出来ない」
と泣きわめきちらし、わがままを言って毎日毎日両親を困らせ、友達にも誰にも会いたくないと
泣いてばかりの廃人のような、そして殺人犯のような、部屋にこもったまま泣いてばかりの生活が始まりました。
そこから抜け出すまで、とても長かったです。
このまま書いていると、皆さん気分が落ち込むと思うので、今日はこの辺でやめます。
人の死について考えると、どうしてもあの頃の自分や、生きること、死ぬことの意味を考えてしまいます。
最愛の人との別れ・・・・・・
誰でも経験する人との別れの日。
人生を全うした方の死と、志半ばでの死と、自分の意思とは無関係に殺されてしまうような理不尽な死と、暗闇の中で明かりを見ずの死・・・・・
たとえ短い人生でも、与えられた人生を全うして迎えられる最期の時だったなら、幸せです。
皆さんの人生もそんな人生でありますように
本当はもっともっと書きたいけれど、長くなったのでやめておきますm(__)m
交通事故や健康には、お互い気をつけたいですねm(__)m