不肖Tamayan.com駄弁録

「英雄は自分のできる事をした人だ。凡人はできる事をせずに、できもしない事を望む。」byロマン・ロラン

担当教官

2006年03月12日 05時52分38秒 | 徒然駄弁―自分編
 私は、今まで多くの後輩達の担当教官を努めてきた。同様に、私自身、多くの担当教官から教えを受けてきた。その中で、「師」と仰ぐ人が、6人いる。かつてのバイト先に三人、大学に二人、そして趣味であるダイビングの世界に一人いる。
 昨日、梅田で、ダイビングの担当教官と再会した。数ヶ月前から約束していたのだが、お互いの都合が会わず、昨日まで延びてしまった。ただ、今回の再会は、少々複雑な心境で臨んだ。何故なら、数ヶ月前に、師は「元」担当教官になってしまったからだ。師は、諸事情によりダイビング・インストラクターの職を辞し、今は全くダイビングに関係ない仕事に就いている。
 梅田の居酒屋で、色々シケた話をする。辞職の理由、他の受講生の近況、母親そっくりの話し方をするようになった長女の話、双子出生の話、などなど。そして、やはり昔話に花が咲く。昔話をしながら、私自身も、回想に耽る。
 以前書いたように、私は、大学に入ったらダイビングを始めるつもりだった。運のいいことに、所属していた基礎演習クラスのオリターに、ダイビングをしている人がいた。最初のクラス合宿でその事実を知った時、迷わず話を聞きに行った。話はとんとん拍子に進み、気が付けば件のオリターさん共々、ショップの中にいた。その時、私の担当に就いたのが、師である。
 当時、師は、まだインストラクターになったばかりだった。学科講習のみで、海洋講習指導を許されていなかった。それ故、最初の海洋講習は、違う教官が就いた。二回目の海洋講習から、我が師が担当することになった。以来、大半の講習やファンダイブを師と潜っている。
 師と共に、海の素晴らしさを学んできた。例えば、プロコースに入って間もない頃、白浜(和歌山)で講習中に、ジンベイザメに遭遇した。白浜では、数万分の一の遭遇率である。地元のガイドさんですら、「ここでガイドを始めてもう十五年になるが、一度も目撃例がない」、と言っていた。それ故、未だに誰も信じてくれない。それでも、あの時ほど、高い金を払ってダイビングを始めて良かったと思ったことは、ない。
 しかし、同時に、海の厳しさも叩き込まれてきた。師は、私に対しては、特に厳しかった。レスキューの実地試験で合格ラインに達せず、疲労困憊の私に、師は、「どうした?しんどいんか?逃げるの?」と冷たく言い放った。プロコースの修了検定は、講習で利用し慣れている白浜ではなく、初めて潜る宮古島で実施させた。一度も潜った経験がない初めての海で、エントリー(入水)直前、ポイント周辺の海図を渡された。たった一分ほどの地元ガイドさんの説明と十数秒しか見せてもらえなかった海図だけを頼りに、後輩の受講生のガイドをさせられた。あの時感じた吐き気は、未だに忘れられない(船酔いではない)。全ての講習で、師は、私だけレベルを上げていた。
 かように厳しい師を尊敬するのは、その誉め方であろうか。師が私を誉めるのは、稀である。だが、誉めるタイミングと誉め方は、あまりにも的確だった。宮古島での修了検定が終わった時、師は言った。「今回ばかりは、さすがに俺も厳し過ぎると思った。それでも不平不満を言わず、逃げずにやり遂げてくれて、俺は嬉しかった。」、と。こういう肝心な時に返す言葉を持たない自分の貧相なボキャブラリーを、呪ったものである。
 そんなこんなで話をしていると、話題は、やはり海に移る。海を離れてかなり経った師。そして、普段山に囲まれ、海のない生活を送る私。やはり、考えることは同じである。
 海に、帰りたい。そして、約束する。お互い落ち着いたら、潜りに行こうな、と。
 師と別れた後、思った。形式上は「元」担当教官でも、今でも師が私の担当教官である。これからも、それは変わらない。
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