たま多摩自由

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「うちのオジーはしょうがないヮさー」

2008-10-12 07:55:32 | Weblog
「うちのオジーはしょうがないヮさー」           多摩狐
朝のTVドラマ「美しい(チュラ)海」での沖縄のオバーの「うちのオジーはしょうがないヮさー」発言は「シッカリもののオバー」を際立たせることには効果的だったが、ともするとグウタラ親父への失望表現として定着してしまった感がある。
 元々の用語用例によると、沖縄のチュラ親父達、言うならば「熾烈な沖縄地上戦と永い占領時代にあって被征服民族として生き延びた」働き者で、敬愛すべき男達への「感謝」と「ねぎらい」の言葉であった筈。歴史は時として言語の真の意味を歪曲する事の一例だ。 
多摩ニュータウン特有の集合住宅におけるデモクラシイー、とりわけコミニティーの形成にあたっては、保育やPTAでの出会いを期に逞しい女性群が育てられその功績は大きい。
地縁も血縁もない、抽選に当たったに過ぎない云うならばあてがいぶちの環境にあって、子供を介した日常生活と会話をベースに、形成された生活者視点と言うことだ。
ここで鍛えられた女性群は仕事にかまけている男達を尻目に強く逞しく育っていった。
そして、行きがけの駄賃と言うのは言い過ぎかもしれないが、「うちのオジーはしょうがないヮさー」を、「グーたらオジーはしょうもないない」と付け加える事で。なにかと口煩いオヤジへの鬱憤晴らしにしてしまった。と。思い過ごしかな。
ウッカリすると女系家族にあっては、間違い無しにのけ者となってしまう。
其処ではどんなに粋がってみても「犬の遠吠え」に過ぎない。隠居の身にあっては無残と言うべきか。
オジー諸君!。無駄な抵抗は止めよう。難しい事は賢いオバーや嫁に任せておけばいい。
高級機能つきの炊飯器、洗濯機、掃除機、などは元々難しく出来ている。オジーには所詮無理だ。「三種の神器時代の簡便な機能はトックに終焉した。
オジーには他に大事なことが一杯ある。惚けてなんかいられない筈。
文化、芸術、にポジティブに生きよう。焦らずユックリと。其処には歓喜し感動できるスリルにさえ満ちた隠れ家が一杯ある。
ご隠居の独身貴族は特にモテル。子供は鼻から相手にしないに限る。放りだされるか、たらい回しされるのがオチ。他者に縋り付くのは恥と心得よ。
既成の価値観からの脱却と自己改革、革新から。         了

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