たま多摩自由

たまには玉の輝きを覗いてください。

老旬に乾杯

2008-08-03 16:28:15 | つれづれなるままに
老 旬 に 乾 杯              南野狐
 古い友人から葉書が舞い込んだ。
 “長い間の楽しいメールの交信に感謝します。今後“メールなし、ファックスなし、ケータイなしのシンプルライフ(オールドライフ)に戻ります。生涯建替えも完了しました悪しからず”と。
 この男、幼少の頃から秀才の誉れが高く何時もリーダーであった。何をやるにも先手をとっていたようだ。多分人生を早く走りすぎる傾向があるようだ。勿論、持続的にだが。
多分、このシンプル宣言は燎原の火のように昔の仲間達に拡がるだろう。人は誰でも怠惰な誘惑にはかなわない先天的弱みがある。
 この男、小学生の時はきっと士官学校から陸大にでもいくものと思っていたが、世の中そんなに甘くなかった。60年位前の8月、焼け野が原に平和主義。こともあろうに民主主義のご時勢となった。時代に裏切られたのか判らない。人間万事塞翁が馬とはいうものの。
 昨日までの帝国主義が一変し、ジープに乗った進駐軍が我が物顔に町じゅうを駆け抜けた。遊郭に停めたジープのトランクにはラッキーストライクとガムが一杯詰まっていた。
 空腹に目だけが異様に鋭くなった野犬の群れにとっては垂涎の餌食だった。
 神の啓示に酔い痴れたように掻っ攫った。一個だけ残して。肥後の“いっちょ残し”だ。
 この頃、敗戦でくたばった親父連はバラ売りの煙草に整列していた。威張り散らしていたオッサン達の憐れな屈辱の姿。なかには関東軍高給職業軍人さんもいた。
 そんな時代。子供たちは逞しくラッキーストライクを燻らしながら「喫煙隊」を編成し山野を歩き回った。紫煙を吐き散らしながら。怪気炎をあげながら。親たちの今の若者はと罵られながら。
 教科書は墨で塗りつぶしたので勉強する中身がなかった。しかし世の中も闇市の中から徐々に文化が胎動し始めた。
そんな時だからこそ文字に餓えた子供たちが民主主義を器用に受け容れ理解する事が出来た。
 時代は何時も公平に展開してくれるように思える。吾々の高校時代は受験戦争なんて全くなく文集の発行、新聞の発刊、絵画展、演劇、芝居ありとあらゆる課外活動に熱中し励む事が許された。
大学時代だって反戦の集会や幻燈会に走り回れる余裕があったし。その多くがデモシカ先生や社員に成れたし教員組合や労組のリーダーとして時代を睥睨し続けることだって出来た。歌声喫茶で刹那的プラトニックラブが成就した果報者もいた。後世の歴史家は「高度成長の立役者群」だと言うにかもしれない
 勿論、インターネットにも捲けずに飛びつき、情報の坩堝の中で権力側に立つ輩も、反権力の旗を掲げ続ける奴も誰憚かる事のなかったオジー群団だ。
俺は、残りの人生を豊かに、折角の情報社会のツールで楽しくやっていきたい。
老旬に乾杯。                              了                   

筍(竹の子)生活

2008-05-25 09:54:11 | つれづれなるままに
「筍 生 活(たけのこ)」      南の狐
 雨後の筍(たけのこ)とはよく言ったものだ。
雨の日には人が竹林に入らない所為もあろうが、難なく獲物にありつける。
 雨の休日明けと言ったら、こたえられない。
 ここぞと思える盛り上がった感じの地面を探ると思いのほかの硬さを感じる。これこそ筍の当たりで、登山靴にさえ厳しく感じる。
味から言うと孟宗竹は大きいほどおいしい。歯ごたえを感じるコリコリした感触は、翌日の快便の証につながる。
 期待以上の獲物にありついたときは、料理が一仕事だ。
一枚ずつ皮を剥いでいく。一枚、一枚、丁寧に剥いていく。そして白い柔肌のような中身からはツーンと筍の香がする。
何故か60年も前の戦後の食糧難の時代を思い出す。
 職業軍人だった我が家の戦後の家計は母の細腕と、箪笥にしまった着物を一枚、一枚売っては食いつないだ。底を突くまでいくらも掛からなかったろう。
 子供三人には母親の行商と、お宝は勿論の事、あらゆる物を売り捌くことだけが生活のすべてだった。
 食べるものも、着るものもなかった時代だ。本家から借り受けた畠に麦、薩摩芋、南瓜、じゃが芋、里芋、南京豆、玉蜀黍をはじめ我が家の自給自足の食料だった、二反分程は作ったろうか。
 我が家の戦争に対する憎悪はこの食糧難の経験からのものであり、理屈や条理の世界ではなく本物だ。
戦争体験は高齢者なら、誰でも語れる。それも生々しく。駆け出しの革新派が他国での戦争に反対し、聞きかじりの戦争の悲惨さをどんなに訴え様が、何か空々しい響きでしか感じられないのは何故だろうか。
 私らの世代は戦争への拒否反応についてだけは理屈抜きに共有し共感できる。
 母が「筍生活たい」と戦後の苦しい中にあって、明るく振舞っていた健気さを筍を剥くたびに思い出す。
 筍の美味しさは、戦争の苦い実体験さえ赦し、郷愁の世界に導いてくれるものがある。
一枚、一枚と。   (了)写真は南関大津山神社



白山神社と土公神

2008-04-09 12:28:03 | つれづれなるままに
   白山神社の“土公神"
“白山神社”はグリーンライブセンターの東側に隣接する。
”神社案内書“によると「三匹獅子舞用具ほかの、江戸時代末期から昭和初期の民俗資料が納められている。」とある。また、神社の上段には“土公神"が祀られている。「年貢の厳しい時代にあっても、土に生きる当時の農民が土の偉大なる恵みに感謝し、土を愛する心のよりどころに聖なる祈りと願いをこめて建てた(”落合名所図絵=峰岸松三著“)」とある。
 また、神社の近くには“東福寺”、“吉祥院”があり、それぞれ手入れの行き届いた、樹木と大きな鐘楼・野仏が両寺とも、ところ狭しと鎮座する。
 青木葉通りをさらに一本杉方面に向かうと、開発前の「青木葉の辻」(現青木葉公園前)がある。つい半世紀前までは小字“宝野”を経由し、天道松から唐木田方面へ。
辻を東南に進むと現存する文化財“平久保(ビリクボ)の椎の大樹”、まるで小山のような、ずっしりとした雄姿を見ながら、一本杉から小野路へと行くことができる。
 ニュータウン大型開発によって、昔日の面影を一変したとはいえ、地名は旧小字名であった豊ヶ丘、長久保、鶴ヶ峰、亀ヶ谷、青木葉、宝野など今も名残が留められている。
昭和初年の調査では110戸の集落によって構成されていたが、いま、豊ヶ丘、落合だけの所帯数でも実に9,572所帯という。
ムジナ、山ウサギ、タヌキ、キツネ、テン、イタチ、ムササビが谷戸に棲み、めじろ、山ガラ、ウグイス、キジ、タカ、ムクドリなどともに豊かないのちを、かっては共生していたようだ。
今は滅多にお目にかかれない。生き物たちは、み―んな小野路、や図師、小山田に避難してしまった。
 いま、「終の棲家」と勝手に決め込んだ1人として、余りに身勝手過ぎないか。
「愚者は経験を尊び、賢者は歴史に学ぶ」というが罪悪感に苛まれるのは、私だけだろうか。
はたして、白山神社の土公神はどんな審判を下すだろうか。            南の狐
  

ponnpoko狸か狐

2007-03-04 19:43:36 | つれづれなるままに
 尊敬してやまなかった先輩も円楽引退と期を一にして引退した。
 義母が微かな声で『壽さんまたね!』と言って笑って。今日も別れた。
 世の中温泉ブームでやれ研修会じゃ、やれ海外旅行じゃト。
 ヤーメタ。

荒神様

2006-09-04 14:20:13 | つれづれなるままに
古民家の竃
 幼い頃「荒神様の祟りは怖いぞ」。と脅され今もって確かめようもなく過ごしてきたが、一本杉公園の古民家の竃に荒神様が祀られているのを観ながらしばし郷愁に駆られた。
 公共施設でありながら荒神信仰を赦せることは如何なものかの違和感はあるが。
 多分、触らぬ神に祟りなしと言ったおおらかな民族性かもしれない。
 折から、グリーンボランティアの活動日でもあったが、彼らの活動に当たっては山の神に対する神事から出発した。
案外、人の持つ弱さ、非日常性への素朴な憧れからかもしれない。


蛍と桔梗

2006-06-14 09:51:16 | つれづれなるままに
   蛍と桔梗        
 桔梗は秋の七草とばかり信じていたが、蛍の出る小野路の山間で発見した時は驚いた。
 確かめもせずに、梅雨時に咲く桔梗を季節はずれと感じるほうが、おかしいのかもしれない。
事実、我が家のプランタンの桔梗も毎年、麦秋に咲いている。
 なんだ、麦秋は春だよなと。妙な勘違いに気がついた。
 さて蛍と桔梗との二つの話を整理しよう、多摩ニュータウンの隣接地に蛍が飛び交う事すら素晴らしい出来事であるので、まずは順序だてて蛍の話から紹介することとしよう。
 ことは、ごく少数のかつ “クローズ”のメーリングリスト上で蛍「見学」の投稿があった事に始まる。
 案内役は恵泉女子大の環境学専攻の学生さんだったが、彼女の説によると、蛍は見物するものではなく見学して欲しいとのことであった。
 つまり蛍は、汚染されていない環境にしか見られない、次の世代に誇らしく語れる環境の天使だからだそうだ。
 たしかに、闇夜の中での求愛の乱舞は、幻想的だし時代絵巻そのもののようだ。まさに音も立てずに身を焦がすような、発光エネルギーをどのように蓄えるメカニズムを持っているのか。
 私にとっての蛍は郷愁そのものといっていい。50年も前、郷里肥後山鹿の菊池川の清流から紹介してみよう。
 阿蘇の外輪山に水源を発する菊池川は火の国の北部に広がる肥沃の穀倉地帯を潤している。この川は豊な自然の恩恵を営々と、誰にも公平に与え続けている。私の産湯もこの川であり、父祖伝来の聖なる川でもある。
 梅雨時になると、この川の両岸で蛍の源平合戦が繰り広げられた。
 何の不連続線の一致か、コンダクターでもいるのか定かでないが、両岸の何万匹とも思える蛍が交互に見事に点滅する。蛍光の饗宴だ。
 そっちの水は辛いぞ、こっちの水は甘いぞ。と
 そんな田舎でさえ食べる物も、着る者もなかった頃の話だ。それが朝鮮動乱が始まり高度成長の頃から、この蛍がいなくなった。一匹も。 
 その蛍が東京近郊で見れた。此処の自然の湧き水がこの天使を呼び込んでくれたのか。此のところの環境への関心の高まりのの所為か隠れ蛍情報を含めかなり賑やかになってはきたが。
 さて、この蛍のことを調べようかと昼間歩いてみて、発見したのが休耕田一杯の雑草の中の桔梗だった。
 紫色の気品に溢れるこの花は目立つ。何で休耕田にと思っては見るが、蛍にしろ山野草にしろ自然回帰と言う事でいいじゃないか。荒らしまくった人間が素直になってくると自然が強く逞しく蘇っている。
 かって、多摩川も乞田川も蛍が一杯だったと聞く。僅か半世紀前まで。
 便利さやスピードをのみ競い合う都市生活のなかで、すっかり忘れてしまっていた一番大事なものを。見事に思い出させてくれた蛍と桔梗に感謝したい。懺悔とともに。

横山の道

2006-06-02 09:48:30 | つれづれなるままに
 高齢になってからの時間の経ち方は無常だし残酷とも言える。
着用しもしないのに衣替えだけはシッカリとやってくれる。
多分、いざと言う時に備える自己防衛本能からかも知れない。
 其処には働き盛りの頃の想い出が一杯詰め込まれており、想い出に浸れる時でもある。
 こんな時多摩の自然は貴重な安らぎの場所でもある。
   -写真は道祖神ー

大津山神社

2006-05-02 16:14:21 | つれづれなるままに
 熊本県と福岡県の県境の南関という町がある。
 ここの「南関紀聞」の記すところによると”藤原鎌足の流れをくむ日野権中納言藤原資名が息「資基」が大津山城を築き「河内守資基」と名乗り肥後の国衆の一家に任じられた”
 小高いいかにも戦国時代の山城は大津山阿蘇神社として賑っている。
 

お彼岸

2006-03-27 14:08:45 | つれづれなるままに
         お 彼 岸
 公園墓地の朝まだきは何時も霧が立ち込めている。
そんなに高いとは思えない高尾城址から滑るように落ちてくる風は縦横、行儀良く並んだ墓石の間を、丁寧に遍く平等に気配りさながら四季の香りを配達して回る。
 八王子の北外れにある多摩御陵の裏手に都営霊園は拡がっている。
この霊園に生後三ヶ月で亡くした長男と両親を納めている。
 この墓地にくるようになった当初は彼岸の中日にお参りに行って、あまりの人ごみに懲りてからというもの、抜け駆けのような後ろめたさはあったが早朝の暗いうちに家を出る習慣が身についた。
 朝露にぬれた芝生を歩きながら長男が生きていれば間違いなく酒の相手をしてくれていただろうし、きっと外国に行かしてくれと梃子摺らせたに違いないと、為しえなかった手前の繰言のみがほろ苦い願望となって次から次えと思い出されてくる。
 いやいや息子は隔世遺伝としてならきっと理系に違いない。親父譲りの秀才だったろう。
 これも古女房と嫁いだ娘二人の女ばかりに囲まれた我が家の実体は、まさに敵の勢力まっただ中の繰言。
 そういえばこの霊園には孤軍奮闘する男の悲哀をなごませてくれる包容力がある。
 余り仲の良くなかった両親が同じ穴の中でどんな痴話げんかに明け暮れているだろうかと覗いてみたくさえなる。
 同郷であった父母の結婚は家を中心とする村長の采配する命令に従ったままの結婚であった。封建時代の熊本の因習に従っただけの話だった。
 村長の権威と両家の思惑とが調整された婚姻であった。若い本人同士の意思なんて入り込む余地は全くなかった。帝国陸軍将校の結婚は陸軍省の認可を必要としたし家族だけ決める事さえ許されなかった。
 墓地はこんなとり止めもない想いに耽るには格好の場所でもある。
 毎年、お彼岸、お盆、そして年末になるとお墓の掃除にやってくる。
 何故か決まって思い出すのが、土葬の風習の残っていた頃の深い墓穴と
野辺送りの葬儀の風景だ。本家から桶に入れられた伯父を担ぎ出し、荒縄でバランスをとりながら深く深く収めた光景だ。
 この墓前では親父と息子の二人の男が加わる。賑やかに酒を酌み交わし、天下国家を論じ高歌し酔郷にさまよう事が出来る場所でもある。男の、そうオノコの天下となる世界であり、幸せ一杯の大草原でもある。
 今年も大事な従弟や友人を多く亡くした。きっとあの世とやらでは皆仲良く遊んでいるに違いない。賑やかな事だろう。

一本杉公園球場

2006-02-25 19:26:52 | つれづれなるままに
一本杉公園球場 
 江夏豊の野性味溢れたファイティングスピリットはただただ大勢に順応したがる私への激励と叱咤のメッセージとなって思い出される。
江夏と縁のある多摩市民にとってはなおのことに思える。
一本杉公園で彼の姿を見た市民には野球に余り関心を持たない人々を含め思い入れひとしおの感がする。
 紹介するまでもないが巨人阪神戦で江夏・田淵のバッテリーが猛虎そのものに王・長島巨人に噛付いたかっこよさ良さは万人の認めるところだ。ただ私はトラキチではない。
 この江夏豊が日本球界からのリストラ通告を意にも介せず、下腹のつき出た身体で大リーグミルウオ-キ・ブルワーズに挑戦した。結果なんてものはどうでも良い。
 そんな勇姿を見れた「一本杉球場」が私の毎日のウォーキングコースだ。
蛇足ながら紹介するとあれほどのビックの引退式が開かれた、昭和65年1月19日は寒い寒い日だったが、誰も使ってくれる人のいない空いている、この球場で行なわれた、それも月曜日だった。
 その年の、翌20日の朝日の縮刷版を調べてみたが“江夏は地元少年野球チームのセー ブ役として阪神28のユニホーム姿でマウンドへ。山本浩、落合、岡本、江藤らと”最後の対決“試合後約16,000人の観衆を前に「胸を張ってアメリカに行ってきます」と挨拶した。”(原文のまま)とある。私もその挨拶に涙した一人だ。
そして、話題にも上らない事だが、今もその日付けの江夏豊の名前入りの軟式ピッチングマシンが地元少年野球チームに寄贈されたことを知る人は少ない。
極々自然に使われている。目立たずひっそりと。
そこが、いかにも江夏らしいと思う。
 また、この球場入り口に川上哲冶の植樹記念碑があるが、“1日だけの引退式を企画呼び掛け人の一人となった赤バットの川上が少年野球の指導をしていた球場だった。
 しめ縄の似合いそうな記念碑だ。
 そんな一本杉公園は南野にある。
 球場を見下ろすようにスダジイの巨木が堂々たる年輪を重ねている。
春先になると咲き誇る桜並木となる。球場を下ると石庭がある。心の休まる落ち着いた雰囲気は岩清水を模して造られた水の音とともにこの公園を清浄にしてくれる。
 そして枯れ山水に沿ってトンネルをくぐると多摩市の旧民家2軒が紅白黄の手入れの行き届いた梅園に囲まれている池の見える一本杉公園に導かれる。
 この池には昨年までは三組の鴨と何故か一匹になってしまったシングル鴨がやって来ていたが、今年は市役所が清掃した所為で1日だけ姿を見せただけですぐ居なくなってしまった。
 私に似てお節介の嫌いな鳥のようだ。
この民家の崖下には炭焼き小屋がある。時々わが友人主催の炭焼きコンサートが開かれる。
 南野はこんな風情に包まれている。
 その友人にお前の音が煩くて鴨がいなくなったと抗議をしたが。結果は友をなくした。
 自然が隣り合わせの町田市小野路一帯を含めて小鳥や昆虫が飛び交う、そんな南野だ。
 暖かくなると蝶が舞い、小鳥が我が物顔に囀る。梅雨になり田植えが終る頃になると蛍が幻想の世界を醸しだしてくれる.、暑くなるとノーブルな顔をした蛇が舌を出しながら挨拶してくれる。詩情溢れる南野だ。
 一本杉公園の南門を抜け横山道を更に下ると雑木林の木漏れ日に浮き出た赤土の土手を縫うように鎌倉古道が走っている。
 土方才蔵が日野から小野路の道場(現小島資料館)に剣術指南のため通った道はこの路に違いない。
 こんな自然に囲まれながら、美味しい空気を吸いながらずっとずっと歩き続けていきたい。