たま多摩自由

たまには玉の輝きを覗いてください。

神学論争

2006-06-24 18:49:31 | Weblog
     神学論争
多摩市の市民グループは2,000ともそれ以上とも言われている。
思うに郷党意識からの地縁や血縁が少なく、敢えて言うと「抽選縁」の気侭さからと自由さが、この大都市近郊のニュータウン住民意識が形成されているようだ。
 私の場合だけに過ぎないだろうが、多くの市民が郷里のもつ煩わしさから解放され、半分都会気分の気楽さを大事に、そう、それこそ後生大事に味わっている方が多いように思える。
 こんな背景の中にあっても人はごくごく自然にコムニティーを求めたがる。勿論独立独歩、孤高に生きる人もいるだろうし、それなりにその人の精神は素晴しく崇高だ。
 定年退職後の気侭さから、地方政治や自治に関心を持つ人の集まりにごく野次馬気分での関りだったに過ぎない筈なのに決まって反省したり後悔したりの場合が多い。
 何故か、そんな会合の出発に当っての総論と言うか序論に過ぎないのに、侃侃諤諤な議論は大変なものが多い。
 やれ組織だ、規約だ、やれ理念だとか、コンセプトだとか、スローガンを決める事の議論では、時間潰しには事欠かないのが通例だ。
 多分ヘゲモニー争いとまではいかないまでも、大いに自己実現のために奮闘し議論されることが多いように感じられる。
 肝心の次回以降のスケジュールの検討さえ疎かに感じられることがある。
 欲求不満は年齢には関係なさそうだ。閑な老人に限って「仕切りやさん」願望が強すぎる。
 慶賀の極みだ。願はくば血圧を高くしない程度で。
 独りが良い。何の束縛も受けずに自由に、残りの人生を。
    写真は大津山阿蘇神社拝殿

蛍と桔梗

2006-06-14 09:51:16 | つれづれなるままに
   蛍と桔梗        
 桔梗は秋の七草とばかり信じていたが、蛍の出る小野路の山間で発見した時は驚いた。
 確かめもせずに、梅雨時に咲く桔梗を季節はずれと感じるほうが、おかしいのかもしれない。
事実、我が家のプランタンの桔梗も毎年、麦秋に咲いている。
 なんだ、麦秋は春だよなと。妙な勘違いに気がついた。
 さて蛍と桔梗との二つの話を整理しよう、多摩ニュータウンの隣接地に蛍が飛び交う事すら素晴らしい出来事であるので、まずは順序だてて蛍の話から紹介することとしよう。
 ことは、ごく少数のかつ “クローズ”のメーリングリスト上で蛍「見学」の投稿があった事に始まる。
 案内役は恵泉女子大の環境学専攻の学生さんだったが、彼女の説によると、蛍は見物するものではなく見学して欲しいとのことであった。
 つまり蛍は、汚染されていない環境にしか見られない、次の世代に誇らしく語れる環境の天使だからだそうだ。
 たしかに、闇夜の中での求愛の乱舞は、幻想的だし時代絵巻そのもののようだ。まさに音も立てずに身を焦がすような、発光エネルギーをどのように蓄えるメカニズムを持っているのか。
 私にとっての蛍は郷愁そのものといっていい。50年も前、郷里肥後山鹿の菊池川の清流から紹介してみよう。
 阿蘇の外輪山に水源を発する菊池川は火の国の北部に広がる肥沃の穀倉地帯を潤している。この川は豊な自然の恩恵を営々と、誰にも公平に与え続けている。私の産湯もこの川であり、父祖伝来の聖なる川でもある。
 梅雨時になると、この川の両岸で蛍の源平合戦が繰り広げられた。
 何の不連続線の一致か、コンダクターでもいるのか定かでないが、両岸の何万匹とも思える蛍が交互に見事に点滅する。蛍光の饗宴だ。
 そっちの水は辛いぞ、こっちの水は甘いぞ。と
 そんな田舎でさえ食べる物も、着る者もなかった頃の話だ。それが朝鮮動乱が始まり高度成長の頃から、この蛍がいなくなった。一匹も。 
 その蛍が東京近郊で見れた。此処の自然の湧き水がこの天使を呼び込んでくれたのか。此のところの環境への関心の高まりのの所為か隠れ蛍情報を含めかなり賑やかになってはきたが。
 さて、この蛍のことを調べようかと昼間歩いてみて、発見したのが休耕田一杯の雑草の中の桔梗だった。
 紫色の気品に溢れるこの花は目立つ。何で休耕田にと思っては見るが、蛍にしろ山野草にしろ自然回帰と言う事でいいじゃないか。荒らしまくった人間が素直になってくると自然が強く逞しく蘇っている。
 かって、多摩川も乞田川も蛍が一杯だったと聞く。僅か半世紀前まで。
 便利さやスピードをのみ競い合う都市生活のなかで、すっかり忘れてしまっていた一番大事なものを。見事に思い出させてくれた蛍と桔梗に感謝したい。懺悔とともに。

旧制鹿本中学

2006-06-07 19:56:52 | Weblog
 旧制鹿本中学は熊本市の現済々高の鹿本分校として出発した。
市町村合併によって山鹿市に繰りこまれることなり、地名が無くなった。
 110年の歴史をもつ男子校として数多の卒業生を送り出してきたが。
 女子校だった旧山鹿高女(106年の歴史)と合併した頃までは男子の勢いが残っており、校名も(新制)鹿本高校と称することが罷りとおっていたが。今や70過ぎのジジーのみとなり「オナゴ」の軍門に下る事となった次第。
 所詮は時の流れ。
 しかし、校歌の「後ろに忽つたる不動岩、不屈不撓の黙示あり・・」は酒席でのヤケッパチの九州男児の狎れの果てとなるに違いない。
 写真は菊鹿平野から八保が岳、不動岩を望む。

横山の道

2006-06-02 09:48:30 | つれづれなるままに
 高齢になってからの時間の経ち方は無常だし残酷とも言える。
着用しもしないのに衣替えだけはシッカリとやってくれる。
多分、いざと言う時に備える自己防衛本能からかも知れない。
 其処には働き盛りの頃の想い出が一杯詰め込まれており、想い出に浸れる時でもある。
 こんな時多摩の自然は貴重な安らぎの場所でもある。
   -写真は道祖神ー