たま多摩自由

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セントラルパーク(中央公園)見られる公

2009-06-11 18:03:21 | Weblog
セントラルパーク多摩に見られる「公」     南野狐
多摩センター駅前のパルテノン大通りを登ると中央公園が広がっている。ヨーロッパの主要都市には必ず標準装備されている「セントラルパーク」がここにある。まさに市民が自由に憩える贅を尽くした公園がこの街の生い立ちを証明しているかのようだ。
公園は市民が寝ころがろうが、駆けっこしようが、大声を出そうが誰はばかることもない自由な活動が満喫できる。学び思索し遊べる格好の場所である。
世界各国の都市のシンボルは公園に見られる。文化・歴史・自然・動物愛護ばかりでなゲーテの公園の思想を俟つまでもない。哲学・思索が年輪を重ねている。カッパがいるかどうか、隊列を組んだ合鴨の行進、カップルの似合う鳥、お洒落なカワセミ、それに暦史の賢さを教えてくれる記念碑や古民家が添えられていると万全。
土地の生んだ偉人・賢人を偲ぶよすがは先進、開発途上を問わず各地で民俗の伝承が誇り高く展開されている。
公園の「公」はまさに「民そのもの」である。この「公」を官が支配したら台無しだ。「民が支配する公」でなければならない(「ソーシャルガバナンス」新しい市民社会の形成―官から民への分権=神野直彦氏)ゲーテは封建領主や貴族が独占していた美しい庭園を、すべての社会の構成員に開放しようと、「公園の思想」を主張した(出典宇沢弘文氏)。と。
多摩中央公園からグリーンボランティアの手で管理されている「緑の川」を北上すると、どんぐり山を経て一本杉公園にいたる。桜前線の高度化に符合するように。
「公」は多摩NPOセンターに限らず「公設備・民設・民営」こそが正統性を主張できると考えるが如何。
重要なことは「民の支配する公が」私物化さされたり、有力な口利き政治家によって補助金対象の管理事業よって金儲けの対象にならないための「法整備」が絶対条件である。        
「公」とはすべての社会の構成員、つまり「統治される者」である民に開放された領域である、というよりも、「民主主義」つまり、「民」が支配している領域でなければならない、もし「公」の領域が「官」に支配されているのであれば「民」が支配する「公」に改める必要がある、「官」から「民」へではなく「官」から「公」へのはずである、実際、「官から民へ」あるいは「民でできることは民で」を合言葉に、「公」を「私」化することが進行している、経済システムも社会システムも、さらには政治システムも崩壊していくのも、「公」を「私」化してしまっているからである、「公」を「私」化するのではなく、「官」を「公」にすることこそ求められている。  了