たま多摩自由

たまには玉の輝きを覗いてください。

ダビンチコード

2006-05-31 19:12:42 | 私の意見
 久し振りに映画を楽しんだ。
 ミニシアターとは言え青春時代の宿や袋の格安の名画館よりはるかにゴージャスだし快適な劇場である。
 封切のダビンチコードを愉しめるとあってワクワクして行ったが、TVに較べストーリーが全く違う。
 最後の晩餐の原画をローマで見た時のあの感激に何か水を掛けられた。
 しかし大画面と音響の迫力にはカンシャしなければ。
 ミニシアターの選別も自己選択・自己決定・自己責任と言うことだろうか。
 写真は山鹿温泉

山鹿温泉

2006-05-27 16:58:06 | Weblog
 故郷は遠くに在りて想うもの。
例年、七夕の日に中学時代の同窓会が山鹿温泉で開かれる。
 このところ最近の記憶が無くなり、その分旧い頃の事が鮮明になってきた。
 特に中学・高校の想い出には胸の鼓動さえ感じる苦い想いでがある。
特に育ち盛りの悪餓鬼時代スイカ畠に這入ったことや甘薯(方言ではカンシャ)を鞄一杯に詰め込んだ事、今は無くなったが山鹿温泉鉄道のポイントを動かし列車を違う線路に誘導し大変に厳しく咎められた。想い出は尽きない。
 桜湯とか紅葉湯・松の湯のコミュニティーが懐かしい。
高齢者も子供も一緒に共同大浴場に毎日集いあったものだ。
 そして語り合った。
 (写真は山鹿灯篭)

山鹿温泉八千代座

2006-05-23 07:12:28 | 私の意見
 肥後の国の山鹿温泉が発見されたのは景行天皇の熊襲征伐の時代と言われている。なんでも傷付いた鹿が湯浴みをしていた。と伝えられている。
 写真は山鹿市「八千代座」。

是々非々

2006-05-22 10:51:45 | 私の意見
 今やTVの政治番組と称するワイドショウによってお茶の間政治評論家が口角泡を飛ばす風景に接する。
 その中でも最も鼻持ちならないのは「批判精神自己陶酔症候群」の特に高齢者。
 所詮は論拠の無い、自己陶酔に酔い痴れているから酒でも入ろうものならもう大変。
 そんな輩が「是々非々」という隠れ蓑に使う常套語。
 これを称して「霏霏ジジー」。
写真は肥後の銘酒「千代の園」酒蔵。山鹿市下町。

連休明けの長雨

2006-05-20 06:56:16 | Weblog
 5月の連休中は快晴に恵まれた所為で大いに疲れたが、休み明けと同時に雨また雨。ついには九州は入梅かと言われる始末。
 おかげで庭先が綺麗になった。
 ガーデニングで近くのスーパーも花盛りとなった。
 ヨーロッパの飾り窓を思い出す。
写真は山鹿温泉桜湯

たけのこ生活

2006-05-08 16:27:41 | 私の意見
「筍 生 活」
 雨後の筍とはよく言ったものだ。
雨の日に人が入らない所為もあろうが、難なく獲物にありつける。
 筍は踏みつけると思いのほか硬さを感じる。ゴム長にそれとわかる感じがする。
孟宗竹のそれも大きいほどおいしい。
 期待以上の獲物にありついたときは、料理が一仕事だ。
一枚ずつ皮を剥いでいく。一枚、一枚、丁寧に剥いていく。そして白い柔肌のような中身からはツーンと筍の香がする。
何故か60年も前の戦後の食糧難の時代を思い出す。
 職業軍人だった我が家の戦後の家計は母の細腕と、箪笥にしまった着物を一枚、一枚売っては食いつないだ。
 子供三人には母親の行商と売り食いだけが生活のすべてだった。
 食べるものも、着るものもなかった時代だ。母の実家から借りた畠に麦、薩摩芋、南瓜をはじめ自給自足の食料を二反部程は作ったろうか。
 戦争に対する憎悪はこの食糧難の経験からのもので本物だ。
駆け出しの革新派が他国での戦争反対と戦争の悲惨さを訴え様が、何か空々しい響きでしか感じられないのは何故だろうか。
 私らの世代、戦争への拒否反応は理屈抜きに共有できる。
 母が「筍生活たい」と苦しい中にも明るく振舞っていた健気さを筍を剥くたびに思い出す。
 賢者は歴史に学ぶ、愚者は経験に学ぶと言うが、こと戦争への実体験は余りにも強烈なものがある。
 写真は肥後の国・山鹿市
 




かぐや姫

2006-05-06 17:33:56 | Weblog
かぐや姫
 竹取の翁ヨロシク、市境界を越して隣の竹薮に筍狩りに出かけた。
 これまでK大学裏の竹薮とか、T大学グランド裏とかで収穫した事があるが、何故か幼き日の想い出に浸ることが出来るィベントでもある。
 絶壁に近い竹薮では体力の衰えを実感。
 欲張りジジーの限界を痛感。 しかし気分爽快。
 若い頃、単に「男の意地っ張り」だけで折角の友を失くした。哀れみと、懐かしみとをもって思い出す。反省。残りの人生、無理は止そう。信じあいながら。 写真は山鹿灯篭

大津山神社

2006-05-02 16:14:21 | つれづれなるままに
 熊本県と福岡県の県境の南関という町がある。
 ここの「南関紀聞」の記すところによると”藤原鎌足の流れをくむ日野権中納言藤原資名が息「資基」が大津山城を築き「河内守資基」と名乗り肥後の国衆の一家に任じられた”
 小高いいかにも戦国時代の山城は大津山阿蘇神社として賑っている。