たま多摩自由

たまには玉の輝きを覗いてください。

たけのこ生活

2006-05-08 16:27:41 | 私の意見
「筍 生 活」
 雨後の筍とはよく言ったものだ。
雨の日に人が入らない所為もあろうが、難なく獲物にありつける。
 筍は踏みつけると思いのほか硬さを感じる。ゴム長にそれとわかる感じがする。
孟宗竹のそれも大きいほどおいしい。
 期待以上の獲物にありついたときは、料理が一仕事だ。
一枚ずつ皮を剥いでいく。一枚、一枚、丁寧に剥いていく。そして白い柔肌のような中身からはツーンと筍の香がする。
何故か60年も前の戦後の食糧難の時代を思い出す。
 職業軍人だった我が家の戦後の家計は母の細腕と、箪笥にしまった着物を一枚、一枚売っては食いつないだ。
 子供三人には母親の行商と売り食いだけが生活のすべてだった。
 食べるものも、着るものもなかった時代だ。母の実家から借りた畠に麦、薩摩芋、南瓜をはじめ自給自足の食料を二反部程は作ったろうか。
 戦争に対する憎悪はこの食糧難の経験からのもので本物だ。
駆け出しの革新派が他国での戦争反対と戦争の悲惨さを訴え様が、何か空々しい響きでしか感じられないのは何故だろうか。
 私らの世代、戦争への拒否反応は理屈抜きに共有できる。
 母が「筍生活たい」と苦しい中にも明るく振舞っていた健気さを筍を剥くたびに思い出す。
 賢者は歴史に学ぶ、愚者は経験に学ぶと言うが、こと戦争への実体験は余りにも強烈なものがある。
 写真は肥後の国・山鹿市
 




人間の尊厳と自由について話せないほど忙しくない

2006-04-30 06:27:24 | 私の意見
 歴代アメリカ大統領の演説や会話は余程の参謀がいるのかホロリとさせられる。 拉致という国家犯罪に対する国家の主張を見事に表現した言葉だ。
 もし、多摩市の首長なら「地域住民の街づくりの意欲と声を聴けないほど忙しくない」となるに違いない。
 街づくりに当たっては、まさに住民の自治が試される場である。住民が夫々の「やれるところ」を皆でカバーしながら担っていく。
 それには大前提として「情報の共有と目標の共有」が肝要だ。
 

マンション建設反対

2006-04-19 20:07:08 | 私の意見
南野3丁目から真東に一本杉公園と横山の道を望む事ができる。
 クヌギ林から朝日が昇るそんな風景に恵まれた南野だった。だからこそ20年前はこの町に子供達が一杯いた。子育てに恵まれた町だった。今、高齢化が進み子供の姿は珍しい。
 ここに高層マンションが建つというので全戸「マンション建設反対」の立て看板
が並んでいる。
 何故こんなところに。!建て主は大手である。地域住民の声を聴けない経営者感覚を疑う。こんな時代に。

指定管理者制度か委託制度か

2006-04-12 15:52:25 | 私の意見
 公共サービスと経費
 「スカイマークエヤラインズ」や「JAL」が整備不良のまま飛行させていた事が判明した。
 その上、国会国土交通委員会の場でSkyの社長が「鹿児島便を撤廃したことについて、私企業が採算を度外視してまで運行する事は出来ない」と強弁した。私なら「貴社の公共事業の受託にあたっての倫理観と企業の社会的責任を」こそ問い詰めたい。
 ついこの前のJR西日本における超過密ダイヤが「経費削減至上主義」ということで多くの人命が失われたことを思い出すべきではなかろうか。
「官から民へ」の小泉劇場のキャッチフレーヅに酔い痴れた、表面的な「効率化・競争原理のみに突っ走った報い」と言うのは言いすぎだろうか。
 指定管理者制度による行政権の譲渡が安易に実施される事に大きな疑問を感じる。
 かといって、指定管理者制度を補う制度としての委託制度では、環境省の委託契約の93%が天下りの巣窟となっている関係法人との随意契約であったことは何を意味するか。
 国土交通省の無謀な競争主義制度に無理があったと見える。が片方では環境省が委託制度の悪用をした、随意契約はモット糾弾されるべきである。官僚の保身はズルスギル。何れの場面でも国民不在であり許せない。監督責任は担当大臣にあることは明白。
 要は、官僚が支配機構として存在する限り国民無視の制度が立法され制度化されていくことに変わりは無い。
 また、安上がりという美名での公共事業の民営化に当たっては「熊本市の最低賃金制」を含め、「安全・安心の制度的担保」を徹底的に市民レベルで追求すべきではなかろうか。

多摩中央公園

2006-04-07 19:10:05 | 私の意見
 多摩中央公園は真中に大きな池を配置し、水辺に流れ込むように拡がる芝生が水面に映る仕掛けとなっている。
 まさにセントラルパークに相応しいゆとりある緑の空間である。
また、周りを木立に囲まれたこの芝生は若者の愛の交歓の格好の場ともなる。
 愛に疲れたら、富沢家でお茶を点てるも良し、グリーンセンターで観葉植物の見学も良かろう。
 心に安らぎを点してくれる公園だ。
 

衆愚政策「官から民へ」

2006-04-05 20:13:48 | 私の意見
 「官から民へ」の響きの良さに惑わされ、世は挙げて競争社会・格差社会に突入した。
 この問題点は本来、官が果たすべき責任の所在を総括しないまま、効果的、効率的に対応するという美名に踊らされた無責任の帰結に感じられてならない。
 特に、何でもかんでも「指定管理者制度の導入」にあたって。
 若者は「本質を見定めるセンスを持っている」と信じていたのに。
 二言めには「守旧派」のレッテルを貼られる惧れがある。が。
 半世紀も前の政治手法「世論操作」が自治体政治でリカバリーされるとは。
 こんな世界はゴメン蒙りたい。

山桜と一本杉橋

2006-04-03 13:45:41 | 私の意見
 多摩市のシンボル植物は山桜となっている。鳥は山鳩。
ソメイヨシノの派手さは無いが素朴でシットリした山桜は花と葉が同時に開花し芽吹くところに、落ちつきをさえ感じさせてくれる。
 また、尾根幹線を跨ぐつり橋状の「一本杉橋」はデザインが良い。
 南野の「鶴の橋」とともに市民の格好の被写体となっている。
 この尾根幹線のマイナスは騒音だし、緑を遮断してしていることだ。
 一昨夜の市長選の立会い演説会で、ここに「何だかバイク?の遊び場を作ろう」なんて馬鹿馬鹿しいアイディアらしき事を、シャーシャーと披露した人がいたが、いま少し考えてから行動し、発言して欲しい。環境問題を述べるなら一貫した理念なり、論理を構成すべきではないだろうか。
 ここには遮断された動植物が行き来できる「緑の通り道」、「昆虫の休憩所」をこそ造る場所ではないだろうか。

スローライフ

2006-03-26 07:56:46 | 私の意見
 ”公から民へ””民のことは民で””行政改革”の美名に酔いしれて指定管理管理者制度が確たる議論もなしに推し進められている。
 元々、経費節減を絶対視する無責任な市民活動家が無原則に吼えまくるのを聞くと、「大丈夫かな」と心配になる。
 安上がりの安易さは、経験則とか、文化とか教育とかには土台、異質なものではないだろうか。
 公共サービスに最も要請される質・確度・品格は歴史に学ぶ以外に無い。市場原理とは相容れない。
 覆水盆に返らず。スローライフは多くの場合、亀に似て歴史の勝利者となる。
 
 

老いてこそ市民

2006-03-08 19:55:10 | 私の意見
 血気盛んだった若い時代、「お年寄りは引っ込んでて呉れ」!。
身の程も弁えず年長の上司に、先輩に、所詮は「蟷螂の斧」とは知りながら闘いを挑んだ青二才の頃を懐かしく、思い出す。
 今やまったく逆の立場になった。「クソジジー」と。
 平日の午前中だというのに福祉センターの風呂に浸りながら「これも現役諸君の税金で維持されてる」と思いながら若干の後ろめたさを感じる。
 折りしも。図書室で「老いてこそ市民」と叫ぶ小田実を探しあてた。
 小田実といえば私達の若かりし頃の60・70年代のオピニオンリーダーであった。鶴見俊輔、開高健等と並んだ「べ平連」の呼び掛け人だ。
 彼は言う“市民がデモ行進一つせずに問題が解決されるとしたら、それは「官的解決」であるし「企業的解決」である”。言い換えると人任せの解決は“「主権在民的」ないしは「市民社会的」解決ではない”。と、小田実の近著「戦争か平和か」を見出した。
 定年退職した当初、私が信条としたことは「政治とか文化だとかと全く縁の無い世界」で老後を安穏にタダひたすら趣味に生きることであった。
 そのあらわれが外国旅行であったし、市民活動としてのサークル活動であった。
高校の時以来の絵筆を持ってみたり、記録としてのエッセイに取り組んだり、健康第一とウォーキングに精を出したりしたのがその証拠だ。
 しかし、これでは何かが不足している。
 何故、政治と訣別したがるのか、直面しようとしなくなったのか。
 何か釈然としない感じをずーッと心の片隅に懐いていた。
 こんな中での「老いてこそ市民」の名セリフは「老いたからこそできる納得づく」の名言と感じ入った。何か感動をさえ覚えた。
 小田実は言う。「議論や名刺交換などといったセレモニーは必要ない」、ともかく「デモに参加しよう」それからだ。という彼の説に久々に共鳴した。
 折りしも、街づくり運動とかで、青年会議所の若者の代表が「世代交代」をしきりに説く事に反発したくなった。
 「チョット待てよ」「ソンナニ簡単に言うなよ」「高齢化時代の多摩市において市の財産は全市民の知恵とアイディアじゃなかったのか」。
 特に貴重なキャリアと洞察力、とりわけ人脈を活かせないのか」と。
 引用だが、サムエル・ウルマンの詩「青春」に「青春とは」人生のある期間ではなく、心のもち方を言う。青春とは怯懦を退ける勇気、安易を振り捨てる冒険心を意味する。ときには、20歳の青年よりも60歳の人に青春がある。まして70年を退き込ます手は無いぜ。
 高齢者よ理想を喪う時初めて老いる。と。
 そうだ、生きてる限りは尊厳と自由と責任を持って胸を張って生きていこう。
 日々是革新の旗を掲げて。
 老旬を汚さぬ為に。歩き続けよう。
 但し、「行不由径」(=行くに小道に由らず)に。

団塊の皆さんへ

2006-02-26 10:52:51 | 私の意見
     団塊の皆さんへ
長い間の勤めを終え、様々なしがらみや義理から解放されたとき、人は自由の有難さに畏怖し感謝する。
私もご他聞にもれず定年退職当時は心底やっと自由を手に入れたと開放感に浸った事を想い出す。
過ぎ去った思い出に浸り、これからの人生を否応無しに考えることとなった。
おおかたの者が、若気の恋や、親しい人との別れや遭遇以外に、それ程深刻に人生観や死生観と向き合うこともなく、生活や仕事に追いまくられる四十年位の勤めからの解放感は寂しくもあり不安でもあった。
夫婦の間でも大した感激も無く、それどころか生きてさえいれば何事も自由にどうぞという冷めたものだった。
こんな時一念発起して趣味として絵や写真、詩、文章に精を出す人が多い。
そんな時、小生もご多分に漏れず、ちょっと気取ってパソコンに手を出した。
どうせこんな事なら勤めている頃からやっておれば良かったと悔やみながらも。
 
 パソコンと言うやつは何故か時間の観念が無くなるのと、目がチカチカする。
 そんな時、健康にもと考え近所を歩きまわることとした。
郊外にあるこの団地は、緑を生かした都市計画によって見事な構成となっている。
 公園と次の公園は遊歩道で結ばれ様々な街路樹や草花で人に安らぎと息吹を感じさせてくれる。
 こんな手近にこんな気配りがなされている等とは露知らなかった。