「監督 河瀨直美」のクレジットが消えスクリーンが暗く沈む刹那、朝斗くんの小さな声が映画館を幸せの涙に変えた。この一言でわたくしたち大人はどれ程心を揺さぶられ、そして恩寵をうけさせてもらえただろう。こんなにも優しいラストメッセージを暫く聞いたことがない。永く辛い過去を経験してきた広島のおかあちゃんには神の福音以上の一言だったろう。
これまで沢山の映画を観てきたけど、照明がついて場内が明るくなってから泣かされた作品は初めてだ。涙が溢れて席を立てないのも、良い歳したオジサンとしては恥ずかしい限りだが仕方がない。ラストクレジットが始まると同時に出て行った観客がいたけど、あいつはこの映画の半分しか理解できていないと断言しよう。
原作は以前読んでいたので、物語は知っていた。
特別養子縁組。そういう制度があり、そうした親子がいることは知識として持っている。でも、コロナに感染した知り合いが周囲にいないのと同じくらい見えない存在でもある。わたくし事で恐縮ではあるが、三人の健康な子供に恵まれたため子を持つ苦労と言おうか、そのためのハードルを意識したことがない。だから養子(昔は里子って言ってたな)を望んでまで家族を形成することの重さを計り知れないでいるのが正直な気持ち。友達にも知り合いにも子を持たない夫婦は結構いるけど、本音(要らないのか、欲しいけど授からないのか)を突き詰めて聞いたこともないし、聞いても何のアドバイスもできそうにない。自らの経験談として子育てを語ることはできるけど、子を持つ喜びを他人に押し付けるほどの説得力を持てるとは思えない。
この話は深い。下手にドラマ化しちゃいけないお話だ。
だからこそ、河瀨直美凄い!演出だけじゃなく脚本と撮影まで監督が手を加えているからこんな傑作が生まれたんだ。夫婦が子を持とうと決心するまでの心の揺らぎを、丁寧にしっかり伝えるところが素晴らしい。朝斗くんが優しく聡明な子に育っているのは、この二人に出逢えたからだとみんな納得できる。対局にいる手放さなきゃならない子をお腹に抱え、(ちびたん)と呼びかける幼いお母さんを無責任に糾弾する事もできない。
ドキュメンタリーからスタートした河瀨監督だからこその挿話が、フィクションであるこの物語に強烈な楔を打ち付け、単に見世物じゃない真実味を加えた。原作も当然綿密な取材の上に書かれているだろうからリアルだけど、映像は文字で表せない真実をあからさまに見せつける。特別養子縁組家族との面談シーンは小説では絶対作れない。
度々挿入される木々を渡る風の音にどんな感情を見出すかは観る人それぞれだ。そこには監督の感情も見えない。自分で考えろってことだ。
唯一残念に感じたのは、若き広島のお母ちゃんを追い返した朝人くんママが、警察から事情を聴いて橋の上で佇む広島のお母ちゃんを探すくだりを随分あっけなく描いたこと。そこに行きつくまで丁寧な描かれ方をしていたから、あれ?もう?って感じちゃった。あそこは一つ二つエピソードを足しても良かったと思う。
カンヌで褒められた「萌の朱雀」や「殯の森」は退屈で所々寝ちゃったりしたけど、樹木希林主演の「あん」はそれまでの独りよがり(こんな難しい事考えてんだよ的な)作風から一転したストレートな感動作だった。今回の作品はそれまでの監督らしい作風とドラマチックな劇映画の面白さがうまく融合した成功例だと思う。これからもこのような作品を作り続けてほしい。
役者についても。
永作博美と井浦新の夫婦はお隣に住んでる善良で平均的な人たちだ。引きの演技というのだろうか、上手い役者にしかできない円熟味ある芝居だった。永作博美は「八日目の蝉」でも血のつながりがない子を愛おしむ母親を演じていたし、ご自身も二児の母親であることから自然体の名演技だった。
子を手放す若き母親を演じた蒔田彩珠はこの作品で将来を勝ち取ったと言っても良い。是枝監督のお気に入りなので、今後大きい役で一層の認知度をあげることだろう。そういえばNHK傑作ドラマ「透明なゆりかご」でも赤ちゃんを捨ててしまう高校生を演じていたな。主役の清原果耶と来春の朝ドラで姉妹を演じるらしいので楽しみだ。ホント、NHKの若手役者を見極める力には恐れ入る。
初めてその演技に魅入られたのが、ベビーバトンという仲介組織の代表を演じた浅田美代子。屋根の上で♪赤い風船♬を歌ってたことぐらいしか興味は無かったし、なんで役者の真似事なんかしているんだろうと見下していた。びっくりした。最初、本物のソーシャルワーカーかと思った。そのくらい自然体でおばちゃんくさかった。監督の演出もあるだろうけど、良い役者なんだと認識を改めた。
(会いたかった)そう言ってもらえる人生って捨てたもんじゃないよね。