たかしの啄木歌碑礼賛

啄木の歌碑並びにぶらり旅等を掲載いたします

大泉院境内の歌碑

2012-06-07 | 啄木歌碑
先日東京中野で用事があり、駅を降りてアーケード商店街を通ったらイーハトーブいわて物語ー盛岡・八幡平へーの案内がいたるところに掲げられておりました。全国的に岩手を取り上げていただき、ありがたく思っております。「イーハトーブ」とは、宮沢賢治が故郷である岩手県を理想郷として名付けたもので、「物語」については、皆様を受け入れる岩手県では、それぞれの地域の文化の背景にある「物語」を提供したいという思いですし、訪れる皆様には、様々な体験、経験を通じて、それぞれの「物語」を作っていただきたいとの願いを込めたものです。どうぞ岩手の方にも訪れ、それぞれの物語をつくっていってください。
中野での用事が済んだ翌日は葛西臨海公園に行き水族館を見、大観覧車に乗って楽しんで?来ました。観覧車は直径110m、一周15分ほどの大観覧車でした










中野でもPRしてくれている国立公園八幡平のある八幡平市は、啄木の父一禎が幼いころ過ごした町です。一禎は八幡平市平館の農民の五男で、早々に養子先に預けられ、そこから曹洞宗大泉院に託されて育ったといわれています。この寺の住職は葛原対月でしたが、対月が盛岡の龍谷寺に移ると一禎も移り、対月の妹カツと結ばれました。この大泉院には啄木の歌碑がふたつ建立されています。









わが父は
六十にして家をいで
師僧のもとに聴問ぞする
啄木



この歌は、明治41年啄木歌ノート「暇な時」にある歌で、雑誌明星(明治41年7月号)に発表している。一禎が渋民の宝徳寺住職を免職になり、対月が住職を務める青森県野辺地のお寺に身を寄せた時の様子を歌ったといわれています。、










ふるさとの寺の御廊に
踏みにける
小櫛の蝶を夢にみしかな
啄木




この歌は、菅原淑子宛手紙(明治41年8月10日)にあり、雑誌明星(明治41年10月号)、雑誌春潮(明治41年10月号)に発表、一握の砂「煙二」に掲載されている。


大泉院は啄木の父一禎が得度した寺であり、啄木の祖父母や一族の墓があるところです




平舘駅前の歌碑

2012-06-01 | 啄木歌碑

平舘は岩手県八幡平市にありますが、旧平舘村は、昭和31年に大更村などと合併し西根村⇒西根町になり、平成17年に西根町、安代町、松尾村が合併し、八幡平市になっている。市の西境にある山の八幡平からとって八幡平市と新市の名称を決めている。八幡平市には為内の一本桜、上坊牧野の一本桜などもありましたが、啄木の歌碑もあります。啄木のお父さんが平舘の出身だったようです。盛岡からJR花輪線で45分ほどのところに八幡平市平舘駅があり、駅構内に歌碑があります。改札口を出るとすぐの左側です。








たはむれに母を背負ひて
そのあまりの軽きに泣きて
三歩あゆまず

啄木




この歌は、明星(41年7月号)に発表、一握の砂「我を愛する歌」に掲載されている。







啄木の父一禎は平館村農業石川与左エ門の五男として生まれ、のち同村の大泉院大17世住職葛原対月に預けられここで得度しました。対月の竜谷寺(盛岡市北山)転住により一禎も竜谷寺に移り、対月の妹カツと結ばれ啄木をもうけた。したがって平館は啄木にとって父祖の地であり、父の師であり母の伯父に当たる対月のゆかりの地である。




天神山緑地の啄木歌碑

2012-05-23 | 啄木歌碑
札幌での用事が済んだので、翌日20日は旭山動物園、21日は札幌市平岸の啄木歌碑を訪れ、盛岡に帰ってきた。旭山動物園にはホテルからバスで3時間近くかかり着き、まず食事をとって園内を歩いた。









翌日21日は、金環日食をテレビで見、ホテルをゆっくりと出発し、天神山緑地に向かった。







天神山緑地は、札幌駅から地下鉄南北線に乗り「南平岸駅」下車、歩いて15分ほどで着いた。ここに、「札幌平岸林檎園記念歌碑」があった。














石狩の都の外の
君が家
林檎の花の散りてやあらむ
啄木 




この歌は、「文章世界」(明治43年11月菊花号)に発表、一握の砂に掲載されている。歌の中の、「君」は、もちろん、啄木が函館の弥生小学校代用教員時代に同僚であった橘智恵子のことで、当時札幌郊外で果樹園を経委で営していた智恵子の実家の風景が歌われている。


天神山緑地から一度札幌市内に戻り、ラーメン横丁で食事をし、智恵子の実家跡に向かった。







智恵子の実家跡には「林檎の碑」が建立されている。






碑の裏面に碑建立の趣旨が刻まれており、この林檎園に関わりのある詩を一首加ふ


  石狩の都の外の君が家
   林檎の花の
    散りてやあらむ   「一握の砂」


とある。橘智恵子の生家があったところは、札幌市営地下鉄「東豊線」で、環状通東駅で下車すると、10分ほどの所にありました。








札幌大通公園の啄木歌碑

2012-05-22 | 啄木歌碑
19日の土曜日に札幌での用事のため、花巻空港から新千歳空港に向かった。盛岡から花巻空港までは高速道路を使うと40分ほどで着きます。花巻空港―新千歳空港間は50人乗りで小さく観光バスのようです。15時からの会議なので、札幌のホテルに寄り、美味しいカレーライスがあるというので、そこまで歩いて行き、昼食をとって、啄木歌碑がある大通公園に出かけました。啄木は、明治40年、函館から札幌に来て2週間はど過ごし、小樽へと旅立ちましたが、この歌碑は石川啄木の没後70年を記念して建てられました。建立日は、昭和56年9月14日、啄木が初めて札幌の地に足を踏み入れた日となっています。








しんとして幅廣き街の
秋の夜の
玉蜀黍の焼くるにほひよ
  


           

この歌は、一握の砂「忘れがたき人人(1)」に掲載されている。


歌碑側面には『「秋風記」より「札幌は寔に美しき北の都なり。初めて見たる我が喜びは何にか例へむ。アカシヤの並木を騒がせ、ポプラの葉を裏返して吹く風の冷たさ。札幌は秋風の国なり、木立の市なり。おほらかに静かにして、人の香よりは、樹の香こそ勝りたれ。大なる田舎町なり、しめやかなる恋の多くありさうなる郷なり、詩人の住むべき都会なり。  明治四十年作 」』  とある。







雫石高校の啄木歌碑

2012-05-11 | 啄木歌碑
雫石町は盛岡のとなり町で小岩井農場の一本桜や弘法桜もありますし、岩手県立雫石高等学校には、昭和47年 に「思郷の森」の造成し、そのとき建立した「啄木歌碑」があります。高校と啄木との関連は分かりませんが、雫石高校は啄木の母校盛岡中学・現岩手県立盛岡第一高等学校の定時制雫石分校として開校した関係なのでしょう。岩手山を背景にしたこの歌碑はみごたえがあります。 





雫石高等学校










病のごと
思郷のこころ湧く日なり
目にあをぞらの煙かなしも

啄木




この歌は、雑誌スバル(明治43年11月号)、曠野(明治43年11月号)に発表、一握の砂に掲載している。



盛岡の桜はほぼ散ってしまい、現在咲いているのは米内浄水場の桜 ヤエベニシダレザクラだけです。盛岡の北になる八幡平市などでは桜が満開のようです。岩手山の麓の「上坊の一本桜」は先日行った時には未だ咲いていませんでしたが、次の日曜日あたりが見ごろになるかもしれません。小岩井農場の一本桜は岩手山を背景に撮ろうとすると撮影ポイントが一か所になりますが、上坊の一本桜は野原の中に一本あるだけなので岩手山を背景にいろんな場所から撮影できますし、桜に近ずくこともできます。小岩井の一本桜のように有名になると多くの人が来るようになり自由に近寄れなくなるかもしれませんね。

盛岡の桜の名所「高松の池}の桜も散り、桃の花が咲いております。この桃は珍しく、一本の木が紅・白の二色の花を咲かせています。ご覧ください。