たかしの啄木歌碑礼賛

啄木の歌碑並びにぶらり旅等を掲載いたします

岩手山登山口の啄木歌碑

2012-04-29 | 啄木歌碑
岩手山登山の御神坂(おみさか)コースの入り口の御神坂駐車場に啄木歌碑があります。御神坂駐車場は岩手県岩手郡雫石町にあり、東北自動車道盛岡ICより小岩井農場を過ぎ、鞍掛山の登山口にもなっている相の沢キャンプ場から2km程先の右側ある駐車場です。平成18年8月の大雨による土石流被害があった場所で、周りには大きな石がゴロゴロしており、土石流災害の怖さが分かります。この駐車場からさらに小岩井道路を進んで行くと網張温泉、網張スキー場があります。この啄木の歌碑は、小岩井有料道路開通記念碑(昭和46年8月)として建立されました。
















岩手山
秋はふもとの三方の
野に満つる蟲を何と聴くらむ

啄木



この歌は、雑誌「春潮」(明治41年10月号)に発表、「一握の砂」に掲載されている。「三方」とは、この写真でもわかりますが、西には八幡平や秋田駒ケ岳に連なっているため、「野」がある、北、東、南の三方を指すのでしょうね。




帰帆場公園の啄木歌碑

2012-04-18 | 啄木歌碑
岩手県北上市幸町の帰帆場(きはんじょう)公園に「北上市に文学歌碑を建てる会」により平成14年3月に啄木歌碑が建立されました。北上市と啄木を結びつきは、啄木にわが戀を初めて打ち明けたとされる人物がこの北上市出身で盛岡中学時代のユニオン会のメンバー小沢恒一であったということです。北上市は岩手県で一番活気を感じる都市です。帰帆場公園は小さな公園ですが、綺麗に整備されております。



















わが戀を
はじめて友にうち明けし夜のことなど
思ひ出づる日

石川啄木 



この歌は雑誌「スバル」(明治43年11月号)に投稿、一握の砂に掲載されている。










篠木小学校の啄木の妻節子の歌碑

2012-04-08 | 啄木歌碑
啄木の妻節子の歌碑を訪ねてきました。節子は盛岡女学校(現盛岡白百合学園高校)を卒業し、啄木との結婚前の明治37年3月31日から38年3月31日までの1年間岩手県滝沢村の篠木尋常高等小学校(現篠木小学校)の代用教員として教鞭を執っていました。歌碑は地区の住民有志が「啄木の文学活動を献身的に支えた節子の功績を知ってほしい」と篠木小学校に建立しました。節子の歌碑が一か所に単独で建っているのは、ここだけかも知れません。除幕式は平成21年10月14日に行われたようで、歌碑は校門を入るとすぐ左側にあります。滝沢村は盛岡市に隣接する村で、日本一人口の多い村で、住民自治に資する団体自治の拡充のため、平成26年1月を目途に市制へ移行するための準備を始めております。

















今日も又
夢は追ひつと人に云ひ
かくれてききぬ
厨こほろぎ 
      
節子




歌碑には節子の詠んだ歌と啄木夫婦のレリーフも刻まれており、その脇に歌碑の説明が書かれている。






節子について、盛岡白百合高等学校の2009年度生徒会誌撫子第40号で「堀合節子さんを知っていますか?-石川啄木の妻・節子を訪ねてー」と題して特集を組んでいる。その中で、この歌について、誰が何と言おうとも「夢見る人」啄木を信じ、自分もまた「夢見る人」となって、短い生涯を共に生きた節子ならでは詠めない短歌であり、節子が啄木の一番の理解者だったことがわかる歌であると思う。節子の人生を語ることは、そのまま啄木の人生を語ることに繋がっている。言い換えれば、啄木抜きでは節子を語ることはできないのである。それはきっと、彼女にとって、とても幸せなことなのだと思った、と述べている。





盛岡市内を歩くチャグチャグ馬コ(2011.6.11)



  
篠木小学校は盛岡に隣接する滝沢村ですが、滝沢村のお祭りと言えばチャグチャグ馬コです。チャグチャグ馬コは毎年6月の第2土曜日に行われる「蒼前様」を信仰とするお祭で、100頭ほどのきらびやかな装束をまとった馬コが、愛くるしい稚児を背中にのせて滝沢村の蒼前神社から盛岡市の八幡宮まで15キロの道のりを練り歩いてくる。馬のあでやかな飾り付けとたくさんの鈴が特徴で、歩くたびにチャグチャグと鳴る鈴の音が名称の由来といわれています。篠木小学校は国道46号から少し入った所にあり、小学校から秋田方面へ進んで行くと、繋温泉、小岩井農場はすぐです。小岩井農場の一本桜はまだ雪に囲まれており、一か月後くらいが桜の見ごろでしょう。




小岩井農場の一本桜(手前の白いのは雪です)




なお、篠木尋常高等小学校といえば、啄木の歌集「一握の砂」に、次のような一首がありますが、


    「酒のめば 刀をぬきて妻を逐ふ教師もありき 村を逐はれき」  啄木


明治37年、啄木の「母校渋民尋常高等小学校の校長排斥運動」などもあり、校長は、その年の3月31日、渋民小学校を去って行った。渋民小学校を去り、転任された学校が隣村の滝沢村立篠木尋常高等小学校だったのです。折しもこの日、啄木の婚約者堀合節子も裁縫の代用教員として篠木尋常高等小学に採用された。二人にとっては、不幸な出会いとなり、日々苦痛を覚えなければならなかったことでしょう。翌年3月、校長は自害、節子も3月に学校を離れている。なんという運命だったのでしょう。






石川一(啄木)の雅号・ペンネーム

2012-03-24 | 啄木歌碑
歌人石川一の雅号・ペンネームは「翠江」、「麦洋子」、「白蘋」、「啄木」となっていますが、これらの雅号はいつごろ使ったのでしょうか。投稿雑誌・新聞、石川啄木全集(筑摩書房)等をみると、次のようになっています。

翠江(明治34年9月~明治35年1月1日) 

翠江(すいこう)は啄木の盛岡中学時代の雅号で、盛岡中学4年の時に友人と回覧雑誌「爾伎多麻」(明治34年9月号)を編集し「秋草」の題で歌30首を発表している。その後、翠江の署名で岩手日報などで発表している。

 
    「爾伎多麻」      明治34年 9月       翠江
    岩手日報       明治34年12月3日    翠江
    岩手毎日新聞    明治34年12月21日   翠江 
    岩手日報       明治35年 1月 1日   翠江





啄木であい道の歌碑(盛岡)



        
花ひとつさけて流れてまたあひて白くなりたる夕ぐれの夢   石川翠江



この歌は、「爾伎多麻」の中の一首で、現存する啄木の作品中最も古い歌です。


 
麦洋子(明治34年12月31日~明治35年1月1日)

啄木は中学時代、麦羊子(ばくようじ)の雅号も使用したが、これは明治34年12月末から35年の正月にかけて書簡で用いただけのようです。


      書簡   野村長一宛     明治34年12月31日    麦洋子
      書簡  金田一京助宛   明治35年 1月 1日    麦洋子



争はむ人もあらずよ新春の春のうたげのかるたの小筐   石川麦羊子
 

この歌は、野村胡堂宛ての書簡(明治34年12月31日)、金田一京助宛の書簡(明治35年1月1日)の歌の中の一首です。





白蘋(明治35年3月~明治36年12月) 

白蘋の署名では、明治35年に発行された「盛岡中学校校友会雑誌」に発表した歌が最初で、その後、雑誌「明星」に白蘋の署名で明治36年12月号まで投稿している。


    盛岡中学校校友会雑誌 明治35年  3月号    白蘋
    明星              明治35年10月号    白蘋
    明星             明治36年12月号    白蘋





啄木であい道の歌碑(盛岡)



血に染めし歌をわが世のなごりにてさすらひここに野にさけぶ秋  石川白蘋(東京)



この歌は、啄木が盛岡中学を退学する前後に、はじめて中央雑誌「明星」(明治35年10月号)に掲載され、自信を持って?文学で身を立てようと上京した。明星にはその後、白蘋(はくひん)の署名で多くの作品を発表している。


明星の作品には署名の後に出身地が記入されており、次のようになっている。

           明治35年10月号 石川白蘋(東京)
           明治35年11月号 石川白蘋(盛岡)
           明治35年12月号 石川白蘋(東京)
           明治36年 7月号 石川白蘋(盛岡)
           明治36年11月号 石川白蘋(陸中)
           明治37年 3月号 石川啄木(岩手) 
 

啄木が明星に初めて投稿した明治35年10月号の前述の歌は、出身地が東京になっている。啄木が盛岡中学を退学したのは、明治35年10月ですが、同じ月の明星の10月号にこの歌が掲載されている。明星の発行日は1日なので、この歌は、盛岡中学時代の盛岡からの投稿と思われますが、心はすでに盛岡を離れ東京にあり、出身地も東京になっている。
また、啄木は、明治36年2月に体調を崩し明治37年10月まで渋民に帰って来ておりますが、この間に明星に投稿した歌には出身地を、盛岡、陸中、岩手などを用いております。出身地の「渋民」を用いるのは嫌だったのでしょうかね。




啄木(明治36年12月~明治44年9月 )

啄木での署名は、「明星」明治36年12月号の長詩「愁調」があるが、短歌では岩手日報の明治37年1月10日が最初で、雑誌では、明星の37年3月号が最初のようです。


 
    明星           明治36年12月号      啄木(長詩「愁調」)
    岩手日報       明治37年 1月10日    啄木
    明星          明治37年 3月号     啄木
    明星          明治41年11月号     啄木
    詩歌          明治44年9月号      啄木
     血潮          明治44年9月号      啄木



啄木には妻せつ子との共著の歌があり、「明星」明治38年7月号に10首発表しており、その中の一首が次の歌です。



啄木であい道の歌碑(盛岡)



中津川や月に河鹿の啼く夜なり涼風追ひぬ夢見る人と  啄木・せつ子



啄木が数多くの短歌を発表した文芸雑誌「明星」は、明治34年4月に創刊され、100号目の明治41年11月号が終刊号になる。



明星 第1号


明星 終刊号





啄木はこの終刊号に短歌52首を投稿しており、その中の1首に次の歌がある。







港町とろろと鳴きて輪をゑがく鳶を圧せる潮曇りかな  啄木



この歌碑は、宮城県石巻市萩浜「羽山媛神社」境内にあり、2年前の2010年11月に石巻に行った時に撮影したものです。


啄木は新聞・雑誌に多くの短歌を発表してきたが、雑誌「詩歌」(明治44年9月号)に発表した17首、「血潮」(明治44年9月号)に発表した3首、が啄木の最後の公表作品になる。その中の1首が次の歌です。



ただ一人の
をとこの子なる我はかく育てり。
父母も悲しからむ。

石川啄木 (「 詩歌」明治44年9月号)




晴れし日のかなしみのひとつー
病院の窓にもたれて
煙草を味ふ

石川啄木(「血潮」明治44年9月号)













イオンスーパーセンター内の啄木の歌

2012-02-25 | 啄木歌碑
イオンスーパーセンター 盛岡渋民店の食堂の座席の脇に啄木の歌が書かれている。この店は啄木記念館から北に1kmほどの所にあります。これまで気が付きませんでしたが、数多くの啄木の歌が書かれていました。



































このお店は非常に広く、卓球台が3台置かれてますし、店の入り口には、店内1周約500mあり、11周すると姫神山登山距離同じになりますと書かれている。11周したことはありませんが、卓球台はいつも空いてますので、行ったときには、奥さんと1時間ほどピンポンをして、汗をかいてきます。