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たかしの啄木歌碑礼賛

啄木の歌碑並びにぶらり旅等を掲載いたします

石川啄木・若山牧水友情の歌碑

2011-05-28 | 啄木歌碑
下橋(しものはし)中学校の校門の前には、啄木の歌と、啄木が晩年もっとも心を許しあい、啄木の最後をみとったといわれる若山牧水の歌が並んでいます。この歌碑は、平成9年、啄木生誕111年{啄木の本名一(はじめ)}を記念して、啄木と牧水の友情の歌碑として建立されました。下橋中学は下の橋(しものはし)の下流100mほどのところです。






   
教室の窓より遁げて
ただ一人
かの城址に寝にゆきしかな

石川啄木
(一握の砂)



城跡の古石垣にゐもたれて曠
聞くともなき 
波の遠音かな

若山牧水
(朝の歌)



向かって左側が啄木の歌、右側が若山牧水の歌。二つの歌の間には「啄木が晩年最も心を許し合った友人若山牧水は、盛岡を三度 訪れており、啄木がこよなく愛し歌った不来方城で、啄木を偲びながら数百詠しております」と書かれています。

啄木のこの歌は雑誌「曠野」(明治43年11月号)、「スバル」(明治43年11月号)、「学生」(明治44年1月号)に発表され、一握の砂「煙一」に掲載。




下橋中学校の正門脇にある歌碑



歌碑は下の橋(しものはし)から100mほど下流です



  歌碑のすぐ近くの「かわら橋 」



遠くに見える岩手山



「詩歌の散歩道」の啄木歌碑

2011-05-25 | 啄木歌碑
盛岡市内を流れる中津川の河川敷には「詩歌の散歩道」が設けられております。盛岡市役所の裏にまわると中津川が流れており、市役所の裏の駐車場から階段で河川敷に降りると、「詩歌の散歩道」があります。この道には啄木の歌碑があり、平成5年11月に建てられたもので、中の橋と与の字橋の間になります。小さな歌碑なので雑草などに隠れ、見落とす人が多い。川水が増えると水の中に沈むのかも知れない。

   






中津川や
月に河鹿の啼く夜なり
涼風追ひぬ夢見る人と

啄木



この歌は、雑誌「明星」(明治38年7月号)に石川啄木・せつ子の名で発表されている。「夢見る人」とは、啄木は妻節子を思い、節子は啄木のことを思っていたのでしょうね。
この歌は啄木・せつ子の二人(共著、連名)の歌ですが、この歌碑では啄木単名になっています。









歌碑は大きな木の下あたりです





冬になると白鳥が訪れ歌碑を覗きこんで?いきます









富士見橋の啄木歌碑

2011-05-21 | 啄木歌碑

啄木の思い出の川は盛岡では啄木が通った高等小学校(現下橋中学)前を流れる中津川であり、渋民村では北上川だったのでしょう。中津川に沿ってはいくつかの啄木歌碑が建てられております。上流から見ていくと、まず富士見橋の歌碑です。富士見橋は上の橋(かみのはし)から上流に5分程歩くと到達します。富士見橋は昭和56年3月に建てられ、橋柱に啄木の歌が銅板ではめこまれており、橋の欄干は啄木自らがデザインした『小天地』の表紙のケシの花をモチーフにしている。啄木が「小天地」を発行した加賀野の家のすぐそばです。









岩手山秋はふもとの
三方の
野に満つる虫を何と聴くらむ

啄木
(一握の砂)



岩手山は盛岡のどこからでも見えますし、とても綺麗です。啄木は何所に立って岩手山を眺め、この歌を詠んだのでしょう。この歌は、啄木歌ノート「暇ナ時」(明治41年8月29日)にある歌で、雑誌「春潮」(明治41年10月号)で発表され、一握の砂「煙二」に掲載。








上の橋(かみのはし)から見た富士見橋




冬になると白鳥が飛来します

 
 







好摩駅の啄木歌碑

2011-05-17 | 啄木歌碑
盛岡市玉山区の姫神山(1124m)の山開きは15日行われました。また、この日は玉山区のIGRいわて銀河鉄道好摩駅の東西自由通路の開通と新駅舎落成記念式が行われた。以前ホームに置かれていた啄木歌碑は新しい駅舎の中に移され、駅を利用するお客さんに親しまれるのでしょう。







霧ふかき好摩の原の
 停車場の
 朝の虫こそすずろなりけれ

 啄木





歌碑は 黒っぽい板に、白色の塗料で歌を書いたものです。この歌は雑誌スバル「秋のなかばに歌える」に掲載(明治43年11月号)されている。なお、「霧深き・・・」として東京朝日新聞「手帳の中より」にも発表(明治43年8月11日)した。

渋民には現在は渋民駅があるが、啄木の頃にはなかったので、啄木の育った宝徳寺から5km先の好摩駅を利用していた。文学を志して上京するとき、挫折して故郷へ帰るときなど啄木は何度も好摩駅に立ったのでしょう。啄木が最後に好摩駅に立ったのは、明治40年5月4日、渋民村を追われ、函館に旅立った時です。 





好摩駅の東西連絡通路。歌碑は二階の切符購入室にある。




姫神山



宝徳寺の門前から見た岩手山




啄木の歌には姫神山は出てきません。啄木の思い出の山は岩手山だったのですね。たしかに、啄木が育った宝徳寺の門で毎日見る岩手山は綺麗で、頭に沁みこんでいるのでしょう。

啄木が現在の玉山区で生活したのは次のようになっている。啄木は日戸村の常光寺で明治19年2月に生まれ、明治20年3月に父一禎が渋民村宝徳寺住職に任ぜられ渋民村に一家で移った、渋民村には同村の宝徳寺に明治20年の3月から盛岡中学を退学し、上京する明治35年10月までと、上京後体調を崩し戻ってきた明治37年2月から再び上京した明治37年10月まで住んでいた。結婚後は明治39年3月から北海道に旅たった明治40年5月までで、合わせて18年6か月になる。

なお、玉山村は、明治22年4月に日戸村と合併、その後明治29年に渋民村と合併し新しい玉山村になる。その後、平成18年1月、盛岡市に編入合併のうえ廃止された。旧村域には合併特例法に基づく地域自治区が平成28年3月31日を期限として設置され、地名にも玉山区が使われている。












啄木「小天地」発行の地

2011-05-07 | 啄木歌碑
啄木は明治38年節子と結婚し盛岡市内帷子小路に新居(啄木新婚の家)を構えたが、この家には3週間しか住まず、盛岡市内の加賀野に転居しました。啄木はここで文芸雑誌「小天地」を発行しております。「小天地」には啄木の妻せつ子も多くの歌を載せており、盛岡の「啄木であい道」には、節子の次の歌碑も建っている。






眞洞出る
流れに添ひし
白樺の
木立をつつむ
夏大日かな

石川せつ子
(小天地)







夏潮や二人のゐなる舟なれば
五反帆なれど日の色そめて

石川節子
(小天地)




啄木が住んでいた当時の家は現在は無く、その跡地にはマンションが建っており、その壁には次の案内板がある。なお、この場所は上の橋(かみのはし)の上流500mほどのところです。