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たかしの啄木歌碑礼賛

啄木の歌碑並びにぶらり旅等を掲載いたします

啄木新婚の家

2011-05-03 | 啄木歌碑
啄木は高等小学校、盛岡中学時代を盛岡で過ごし、明治治35年盛岡中学を退学し上京しました。上京後、健康を害し、いちじ帰郷しましたが、明治37年再び上京、明治38年(1905年)5月、東京で処女詩集「あこがれ」を出版し、それをみやげに帰郷し、6月4日掘合節子と結婚、両親、妹光子の5人が揃って家庭をもったのが現在新婚の家といわれる、盛岡市帷子小路の借家でした。啄木一家がここで生活したのは3週間で、6月25日には中津川のほとりの加賀野に転居しています。現在盛岡市内の啄木遺跡といえるのは「啄木新婚の家」だけです。








この家には3家族が住んでおり、図の見学スペースに2家族、管理スペースに1家族が住んでいた。啄木一家が住んでいたのは赤く塗りつぶした玄関、4畳半、8畳で、四畳半が啄木と節子の部屋、8畳が両親と妹光子の部屋でした。





新婚の家に行くには、盛岡駅前を北上川が流れているので橋を渡って進むことになります。駅前には3つの橋があり、まっすぐ進むと開運橋、左側に沿って進むと旭橋、右側に沿って進むと不来方橋があります。新婚の家に行くには旭橋を渡って中央通りに出、信号を右折し100mほど進んだ左側にあります。新婚の家の前には道路標識やバス停がありますので、すぐにわかります。、盛岡駅前から市内循環バス「でんでんむし号」右まわりに乗ると3つ目に新婚の家前のバス停があります。市内循環バスはどこまで乗っても100円、新婚の家の見学料は無料です。




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啄木夫妻(連名・共著)の歌 (1) ≪明星明治38年7月号≫

青梅は音して落ちぬほととぎす聴くと立つなる二人の影に  

啄木・せつ子 名で10首

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青森県野辺地「愛宕公園」の啄木歌碑

2011-04-28 | 啄木歌碑
啄木は野辺地に数回訪れているようで、明治37年9月29日には前田儀作宛てに次のような書簡を送っている。「・・・四時四十分尻内(今の八戸)を発しぬ。忘れがたきは、牧牛眠る草原を隔てゝ、淡霧罩めし下河湖上の暁光なり。途次野辺地駅に下りて、秋濤白鷗を浮ぶるの浜辺に、咲き残る浜茄子の紅の花を摘みつゝ、逍遙する事四時間。正午少しすぐる頃再び車中の人となりて二時青森に入りぬ」
野辺地の常光寺には父一禎の妻の兄であり、師僧でもある葛原対月がおりましたし、また、父一禎も寄寓しておりました。
この歌碑は啄木の50回忌にあたる1962(昭和37)年5月に建てられたようです。










潮かをる北の濱辺の
砂山のかの濱薔薇よ
今年も咲けるや

啄木
(一握の砂)



1月下旬に野辺地に向かいました。野辺地は八戸と青森の中間地点にあるので、八戸までは東北新幹線、八戸からは青い森鉄道で野辺地に行きました。野辺地駅の案内所で聞いたら1日数本しかはしらないバスが間もなく来るというので、それに乗って愛宕公園に向かいました。バスを降り公園の方に歩いていたら、たまたま野辺地役場の方にお会いし、公園は雪が深いので、案内してやるということで、案内いただきました。たしかに雪が深く私一人でしたら、歌碑まで行くのはできなかったでしょう。本当にありがとうございました。





青森市「合浦公園」の啄木歌碑

2011-04-26 | 啄木歌碑
サクラウイークに合わせ新幹線も29日から全線開通の見込みになりホットしてます。昨年12月に新幹線が青森まで開通したので、1月に青森まで乗ってみました。新青森駅は立派に出来てましたが、駅の周りにはまだ何も建ってませんでした。青森駅は新青森駅から離れているので、電車に乗り、5分ほどで着きました。啄木の歌碑のある合浦公園には駅からバスに乗り20分ほどかかったような気がします。
石川啄木が妹の光子と共に津軽海峡を渡ったのは、明治40年5月5日のことでした。啄木は故郷の渋民村で小学校の代用教員をしていたが、「石をもて追はるるごとく」故郷を離れて一家は離散し、妹を連れて、小樽の姉のもとに身を寄せるため北海道へ向かいました。故郷や家族を恋しく思い、前途への不安を抱えた辛い旅であったのでしょう。この時の船酔いで苦しそうな妹を回想し詠んだ一首がこの歌で、昭和31年5月4日、青森県啄木会によって、青森市合浦公園の海浜に建てられた。碑の文字は、啄木の妹、三浦光子本人により揮毫されています。









船に酔ひてやさしくなれる
いもうとの眼見ゆ
津軽の海を思へば

啄木
(一握の砂)  



歌碑の場所は公園の海側にあり、夏は海水浴でにぎわうようです。この日は寒い日で、公園には雪が積もっており大変でした。今回は青森市役所の公園河川課および青森市都市公園を管理している青い森グループの方に大変お世話になりました、ありがとうございました。






厨川の啄木歌碑

2011-04-20 | 啄木歌碑
国道4号を盛岡から森方向に進んで行くと、道路沿いに赤平グリーンプロットがあり、そこには啄木の歌碑があります。国道4号のNHK盛岡前交差点から3.5km、厨川駅の手前400mほどのところです。現在は厨川の住所表記になりますが、当時は茨島(ばらじま)と言われ、盛岡から渋民へむかう途中にあった地名でした。現在も茨島地区といわれるところがあり、この歌碑から国道を北上していくと茨島跨線橋があります。「われと行きし少女」と歌われたのは、啄木の妻節子の友達、板垣玉代さんで、その板垣家の人々が、この地に歌碑を建て、昭和61年12月に市に寄付しております。







茨島の松の並木の街道を
われと行きし少女
才をたのみき

啄木
(一握の砂)

この歌は雑誌「学生」に発表(明治44年6月号)、「一握の砂」に掲載されている。





歌碑は国道4号沿いにあり、盛岡から北上すると右側で、隣にトヨタのお店があるので、すぐわかります。





茨島跨線橋は啄木歌碑から国道4号線を北上して行くと1.5㎞程のところにあり、国道4号、国道281号、国道282号の跨線橋で、東北新幹線とIGRいわて銀河鉄道を跨いでいる。写真の左側の路線が新幹線です。



茨島跨線橋から見た岩手山








岩山「啄木詩の道」の歌碑

2011-04-13 | 啄木歌碑
盛岡の岩山啄木望郷の丘に啄木生誕111年を記念して平成9年(1997)に「啄木詩の道」がつくられた。詩の道の長さは200mほどあり、その散歩道に歌碑10碑が設置されています。





啄木詩の道








ふるさとの 山に向ひて
言ふことなし
ふるさとの山は ありがたきかな

啄木
(一握の砂)


この歌は、啄木歌ノート(明治43年8月28日)にある歌で、一握の砂「煙二」に掲載されています。啄木はいつも故郷を懐かしく思い、「ふるさと・・・」と詠んだ歌は30首ほどあります。




 




何となく
今年はよい事あるごとし
元旦の朝晴れて風無し

啄木
(悲しき玩具)


平成23年盛岡の元日の朝は「くもり積雪40cm」、2日の朝は「晴れて風無し」でした。皆さんの地区はいかがでしたでしょうか。この歌は啄木歌ノート「一握の砂以後」(明治43年11月末より)にあり、「悲しき玩具」に掲載されています。
お正月といえば啄木は亡くなる明治45年に函館の友人岩崎正宛の賀状の中で啄木最後の短歌とみられる歌を詠んでいる。
「今も猶やまひ癒えずと告げてやる文さへ書かず深きかなしみに」
この賀状は現在、北海道・函館市文学館で初公開されており、啄木の百回忌となる来年4月13日まで公開されるようです。









それとなく
郷里のことなど語り出でて
秋の夜に焼く餅のにほひかな

啄木
(一握の砂)


この歌は啄木歌ノート(明治43年8月26日)にあり、一握の砂「煙二」に掲載。








わが恋を
はじめて友にうち明けし夜のことなど
思い出づる日

啄木
(一握の砂)


この歌は雑誌「スバル」(明治43年11月号)で発表、一握の砂「煙一」に掲載されている。




     



友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買ひ来て
妻としたしむ

啄木
(一握の砂)


この歌は啄木歌ノート(明治43年10月13日)にあり、一握の砂「我を愛する歌」に掲載されました。「友」とは、金田一京助、野村胡堂さん達を指すのでしょうかね






他に、次の歌碑が建立されている。
不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸はれし 十五の心
ふるさとの訛なつかし 停車場の人ごみの中に そを聴きにゆく
盛岡の中学校の 露台の 欄干に最一度我を倚らしめ
ほたる狩 川にゆかむといふ我を 山路にさそふ人にてありき
岩手山 秋はふもとの三方の 野に満つる虫を何と聴くらむ