一日の王

「背には嚢、手には杖。一日の王が出発する」尾崎喜八

大平山 ……秋の里山は純文学の香りがする……

2009年11月05日 | その他・佐賀県の山
山は、文学に似ている。
そう誰かが言っていた。
私もそう思う。
くじゅうや阿蘇などの誰でも知っていている山は大衆文学。
それに対し、有名ではない低山は純文学と言えるかもしれない。
純文学は、今ではあまり読まれることは少なくなった。
読者に魅力がいまひとつ伝わらないからだ。
だが、純文学は、深く文学に関わっていると、その魅力が次第にわかってくる。
じわじわと浸透するようにわかってくる。
大衆文学より身近に感じてくる。
そんな感じが、里山に登る感覚に似ているような気がする。

今日も佐世保の実家に行く日。
佐世保へ向かう途中に山はないかと考えていたら、大平山を思い出した。
9月3日に、伊万里市にある大野岳に登った折、山頂から大平山がよく見えたのだ。


そのとき、いつかはあの山に登ってみたいと思った。
大平山は標高330.6m。
大野岳と同じく、山頂まで車道が延びている。
地元の学校で遠足に登られるくらいで、登山愛好家で登る人はほとんどいない。
たまにピークハンターが訪れるが、その場合にも、山頂直下の駐車場まで車で乗り付け、山頂の写真を撮るだけである。
かつては山と溪谷社のガイドブックにも載ったことがあったが、新版が出た折には削除され、今では歩いて登る人はほとんどいなくなった。

麓に車を駐める適当な場所がなかった。
楠立バス停からすこし登ったところにある包石バス停の傍に車を駐めた。


ずっと舗装された車道を歩いて行く。


「寶燈之瀧」と書かれた案内板があった。
地元では有名な滝なのであろうか?
帰りに寄ってみようと思った。


ずっと車道なので、つまらないと思われるかもしれないが、道端の野草を愛でながら登っていると案外飽きない。



このような里山にも秋は静かにやってきている。



それを見つけたときの歓び。



やがて、登りつめたような感じの場所に至る。
ここから左折する。


登っている途中よりも人家が多い。
大平山と言われているくらいだから、どこが山頂かわからないほど平らな山なのだ。
平らな場所が多い山頂部の方が、家を建てるのには相応しいのかもしれない。
それにしても、山の上にこれだけ人家があるとは驚きである。
興醒めするというより、里山の面白さを再認識する。


山頂直下の駐車場の横の階段を登る。
やがて、その先に山頂が見えてくる。


ここにもお馴染み「いまり山岳会」製作の山名が書かれた標識が設置されていた。


標識と対面する位置に三角点があった。


三角点の傍には、松園石舟の歌碑があった。


聖岳にある展望台を大きくしたような展望デッキ。
眺めは抜群だ。


向かって左側に黒髪山系。
青螺山から牧ノ山、腰岳が見える。


右に目を転ずると、国見山系。
八天岳から国見山にいたる稜線が美しい。


伊万里湾の眺めも素晴らしい。


後ろを向くと、9月に登った大野岳が見えた。
懐かしい。


下山の途中、寶燈之瀧に寄った。
この案内板から急斜面をかなり下った場所にあった。


写真で見るとそうでもないかもしれないが、かなり大きな滝であった。
高さは20mくらいはありそうな感じがした。


幅も広く、雨が降ったらかなりの水量になり、プチ・ナイアガラ状態になるのではないかと思った。
この滝のことはまったく知らなかったので、立ち寄ってみて本当に良かった。
ちょっと得した気になった。


今日も秋空が素晴らしかった。
佐世保の実家の近くから見たわが里山・隠居岳の上にも秋空が広がっていた。
母も、今日はいつもより機嫌が良かった。


良質な短編小説を読み終えたような、そんな一日であった。

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