一日の王

「背には嚢、手には杖。一日の王が出発する」尾崎喜八

登吾留山 ……花ざかりの森をさまよい歩きながら……

2010年04月04日 | 登吾留山
今日は、本来なら、からつ労山のいつもの仲間と、第一日曜日登山をする日である。
だが、行き先が「霧島山系」(高千穂峰)と聞いて、不参加を決めた。
高千穂峰は、ちょうど3年前に行っている。
それに、2ヶ月後の6月6日(日)には、からつ労山の月例山行で「霧島山系」(ミヤマキリシマ観賞登山)へ行くことになっている。
私にとっては、正直、花のないこの時期に高千穂峰に行っても面白味がないし、
多忙な今は、往復8時間の移動時間も惜しい。
4月の初旬は、近くの低山・里山の方が花が多いし、楽しい。
移動時間もほとんどかからない。
しかも、貴重な花にも逢える。
というワケで、今日は、単独行で「登吾留山」(とある山)に登ってきた。
今年は、昨年同様、どの花も開花が早い。
オキナグサは例年4月中旬から下旬にかけて見られるが、昨年は4月9日には開花していた。
今年も同じ頃かなと思ったが、「ひょっとしたら……」と思い、今日行ってみることにした。
ヒトリシズカやフデリンドウにも逢いたかったし、想像するだけで胸が高鳴った。

山の麓近くでは、もうすでに新緑の木々が目立った。
蒼空に映えて美しい!


石清水が流れ落ちる小さな滝や、


美しい沢を見ながら歩いて行く。
なんて気持ちのいい山なんだろう。


沢沿いに、シャガの花が咲いていた。


見慣れたムラサキケマンだって、沢沿いに咲いていると、なんだか素敵だ。


ところが、この時期の山には、加減というものがない。
「花ざかりの森」なのだ。
ムラサキケマンだって、ご覧の通り。


クサイチゴの花だって群生している。


ヒメオドリコソウは、大群落という感じ。


上を見て、新緑で目を休める。(笑)


オトメスミレ(かな?)だって、たくさん。


○○スミレ(笑)だって、こんなに。


サツマイナモリは斜面を白く染めるほどに……


ミヤマシキミの花だって、今が盛り。


なにか垂れ下がってる……と思ったら、ギブシだった。


フウロケマンや、


ヤマルリソウも……


そして、ついに見つけました。
オキナグサ。
砂を全身にくっつけている。
いましがた土から生まれてきたみたいだ。


開きかけといった感じで、まだ完全に開いたものはなかった。
だが、逢えただけで嬉しい!


そっとお顔を覗いてみる。
もう開花の準備は整ってるようだ。


それから、ヒトリシズカを探しにいくと……
見つけました~
小さくて可愛い~


こちらも、これからといった感じ。


でも、私としては、このくらいが好もしい。


登って来たのとは違うルートで下山する。
美しい登山道だ。


麓まで下りてくると、フデリンドウが大勢でお出迎えしてくれた。


この花を見ると、「春が来た!」という気がする。
嬉しくなってくる。


今日は、本当に、たくさんの花に逢えた。
山は、まさに「花ざかりの森」だった。
「花ざかりの森」といえば、三島由紀夫が16歳の時に書いたという『花ざかりの森』を思い出す。

《かの女は森の花ざかりに死んで行つた
かの女は余所にもつと青い森のある事を知つてゐた
                     シヤルル・クロス散人

序の巻

 この土地へきてからといふもの、わたしの気持には隠遁ともなづけたいやうな、そんな、ふしぎに老いづいた心がほのみえてきた。もともとこの土地はわたし自身とも、またわたしの血すぢのうへにも、なんのゆかりもない土地にすぎないのに、いつかはわたし自身、さうしてわたし以後の血すぢに、なにか深い聯関をもたぬものでもあるまい。さうした気持をいだいたまま、家の裏手の、せまい苔むした石段をあがり、物見のほかにはこれといつて使ひ途のない五坪ほどの草がいちめんに生ひしげつてゐる高台に立つと、わたしはいつも静かなうつけた心地といつしよに、来し方へのもえるやうな郷愁をおぼえた》

この書き出しで始まる小説を、高校生の私は何度読み返したことか。
三島由紀夫本人はあまり好きな作品ではなかったようだが、私はその文章に惹かれ、暗誦するほど読み耽った。
そして、今日、山を歩いていて、この冒頭の文章が、幾度となく脳裏をよぎった。
単独行だと、このような内なる思索ができるのが好い。
今日は、花酔いするほどに「花ざかりの森」をさまよい歩いた。
恍惚感の中にいた一日であった。

最後に――
ここまで読んで下さったあなたに、フデリンドウの花束を――
そう、あなたにです。

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