一日の王

「背には嚢、手には杖。一日の王が出発する」尾崎喜八

井上荒野『あちらにいる鬼』……井上光晴と、その妻と、瀬戸内寂聴の三角関係……

2019年05月29日 | 読書・音楽・美術・その他芸術

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「亡くなった作家の本は、書店から次第に消えていく……」
というのを、誰かから聞いたことがある。
作家が亡くなれば、新刊は出なくなる。
新刊が出ないと、話題になることもなく、新たな読者は生まれない。
書店の書棚には限りがあるので、(書店数は減っているので、むしろ減少している)
次々に誕生する新しい作家の本で埋め尽くされていく。
亡くなった作家の本は、次第に少なくなってゆき、
いつの間にか消えてしまう……
人気のあった作品を収めた文庫本も例外ではない。
私が若い頃に有名だった作家の文庫本も、
(地方の小さな本屋では特に)今ではほとんど見かけなくなった。
源氏鶏太、獅子文六、梶山季之、石川達三、井上靖、石坂洋次郎、五味康祐、黒岩重吾、立原正秋、西村寿行、野坂昭如……などなど。
流行作家でさえこうなのに、
当時からそれほど売れていなかった純文学系の作家の本ならば、なおのことである。

「井上光晴」(1926年5月15日~1992年5月30日)という作家がいたことを、
今の若い人はほとんど知らないのではないだろうか?


『虚構のクレーン』(未來社 1960 のち新潮文庫)
『地の群れ』(河出書房新社 1963 のち新潮文庫、旺文社文庫、河出文庫)
『心優しき叛逆者たち』(新潮社 1973)
『明日 一九四五年八月八日・長崎』(集英社 1982 のち文庫)
などで知られた作家であるが、
死後27年が経ち(2019年現在)、今ではすっかり忘れられた作家になっている。
原一男監督によるドキュメンタリー映画『全身小説家』(1994年9月23日公開)は、


井上光晴の、癌により死に至るまでの5年間を撮っており、
今となっては貴重な資料になっているが、
この『全身小説家』をDVDなどで観たことのある人でさえ、
若い人のレビューを読むと、井上光晴の作品を読んだことのある人はほとんどいない。
直木賞作家・井上荒野の父としての認識しかないのが現状だ。


本日紹介する『あちらにいる鬼』は、
井上光晴の娘である井上荒野が、


父・井上光晴と、その母、そして瀬戸内晴美(後の瀬戸内寂聴)の“特別な関係”を描いた小説である。
井上光晴と瀬戸内晴美(後の瀬戸内寂聴)は、長年にわたり男女の仲だったのであるが、
井上光晴の妻と、瀬戸内晴美(後の瀬戸内寂聴)の二つの視点から、
三人の長きにわたる関係と、
それぞれの心模様の変化を深く掘り下げている。

「井上光晴と瀬戸内晴美の不倫を題材とした小説が発表される……」
と聞いたとき、
咄嗟に私は、
〈瀬戸内寂聴はどう思っているのだろうか……〉
〈怒ってはいないのだろうか……〉
と思った。
だが、彼女自身が帯に推薦文を書いていると知って、仰天した。


瀬戸内寂聴さん推薦
モデルに書かれた私が読み 傑作だと、感動した名作!!

作者の父井上光晴と、私の不倫が始まった時、作者は五歳だった。五歳の娘が将来小説家になることを信じて疑わなかった亡き父の魂は、この小説の誕生を誰よりも深い喜びを持って迎えたことだろう。作者の母も父に劣らない文学的才能の持主だった。作者の未来は、いっそうの輝きにみちている。百も千もおめでとう。――瀬戸内寂聴



〈す、す、凄い!〉
と思った。
怒るどころか、
「傑作」「名作」と絶賛し、
「百も千もおめでとう」と賛辞を贈っているのだ。
〈これは読まなければ……〉
と決意した。(コラコラ)
で、ワクワクしながら読み始めたのだった。



人気作家の長内みはるは、
講演旅行をきっかけに戦後派を代表する作家・白木篤郎と男女の関係になる。
一方、白木の妻である笙子は、
夫の手あたり次第とも言える女性との淫行を黙認、夫婦として平穏な生活を保っていた。
だが、みはるにとって白木は肉体の関係だけに終わらず、
「書くこと」による繋がりを深めることで、かけがえのない存在となっていく。
二人のあいだを行き来する白木だが、
度を越した女性との交わりは止まることがない。
白木=鬼を通じて響き合う二人が、辿り着く場所とは……




小説なので、名前が違う。
それでも、
白木篤郎は、井上光晴、
長内みはるは、瀬戸内晴美(後の瀬戸内寂聴)というのは、すぐ判る。
みはると、白木の妻・笙子の二人が、
交互に語るような形式を採っており、
それぞれの白木篤郎への想い、
みはるの笙子への想い、
笙子のみはるへの想いなどが、
いろいろなエピソードを通して語られていく。

セックスというのは男そのものだと思う。うまいもへたもない。セックスがよくないというのは、ようするにその男が自分にとってよくない、ということなのだ。(3頁)

ドキリとするような文章で、この小説は始まる。
小説であるから、事実ではないかもしれない。
だが、井上荒野は、
瀬戸内寂聴に会って話を聞き、


瀬戸内寂聴の自伝や、井上光晴について語ったと思われる作品を多く読み、
また、自分の母親のことを思い出しながら、
文章を紡いでいく。

わたしの体の奥底から込み上げてくるものがあった。この男がいとしい。とわたしは思った。どうしようもない男だけれど、いとしい、いとしくてしかたがない。
白木との関係を終わりにしたいと、これまでにない熱量で思ったのも、同時だった。路地の先に見える明るさがくっきりと真横に区切られていて、下半分が海だった。このままあそこへ入っていきたい、と思った。白木とは一緒に行けない。道連れにはできない。わたしはひとりで行くしかない。決意というよりそれは憧れに近いものだったし、文字通り、わたしの前にあらわれた道だった。(132頁)

「出家しようと思っているの」
そう告げたとき、白木は驚かなかった。むしろわたし自身のほうが、そんな言葉が自分の口から出たことに驚いていたかもしれない。けれどもいったん口から出してしまえば、その言葉はずっと前から自分の中にあったように思えたし、いっそ自分は、その言葉とともに生きてきたような気さえした。
わたしたちは海を見ていた。白木の故郷の、崎戸の海だ。ここまで来た、という感慨が、幾重もの意味を含んでわたしを捉えていた。
「そういう方法もあるね」
白木はそう答えた。わたしはちょっと笑いたくなった。
「とめないのね」
「とめたって、あんたは聞きやしないだろう」
(155頁)


瀬戸内晴美が1973年に出家したときには、とても驚いたことを憶えているが、
まだ十代だった私は、
彼女の出家に井上光晴のことが大きく関わっていたことは知らなかった。

私は、中学時代までは野球少年で、体を動かすことを中心に生活していたが、
高校生になってから、本格的に本を読み出した。
長崎県佐世保市で生まれ育ったので、
最初は、長崎県を舞台にした遠藤周作の『沈黙』などの諸作品や、
郷土の作家の言われていた井上光晴の小説を多く読んだ。

篤郎がこれまで自称していた経歴のあちこちに嘘があることがわかったのだった。たとえば生まれは自筆年譜では旅順なのだが、実際には久留米だったし、故郷ということになっていた崎戸には三、四年しか暮らしておらず、少年時代に炭鉱で働いていたというのも、朝鮮人労働者に暴動を示唆して検挙されたというのも嘘だった。(294頁)

井上光晴の経歴の嘘については、
ドキュメンタリー映画『全身小説家』の公開されたとき時(1994年)に映画館で見て知ることになるが、
私もまんまと騙された読者の一人である。(笑)


1983年(昭和58年)の夏、
私は九州で働いていたが、一週間ほど休みを取得して、北海道を旅していた。
札幌の書店に寄ったとき、その書店で、井上光晴のサイン会が行われていた。
偶然の出来事に驚いたが、
郷土の作家と思っていたし、親しみを感じていた作家なので、
私も2冊の本(『地の群れ』『明日 一九四五年八月八日・長崎』)を購入し、
サインをしてもらった。


名前も記入してくれるということで、紙を渡され、
そこに自分の名前と、一言メッセージ欄に「私も佐世保出身です」と書いたら、
「君も佐世保か~、ここで何してるんだ?」
と訊かれ、しばし雑談したことを憶えている。


「がんになったよ」
白木は放り投げるように言った。
「どうも調子が悪いから検査したんだ。その結果が今日わかった。医者は検査のときから薄々わかってたみたいだけど、はっきりするまでは言わない方針なんだな、今日、診察室に入るなり、本当のことが聞きたいですか、聞きたくないですかと言われたよ。ばかげた手順だよね。そう聞かれたら、どんなに鈍感な奴だって、ああ俺はがんなんだなってわかるだろう」(229頁)

こんなことが前にもあった、とわたしは思った。出家する前、白木の気持ちがわたしから離れていったとき。あのとき、彼はそのことを隠そうとしていたけれど、今はそれもしない。そうする余裕もないのだろう。白木がわたしから離れていく。どんなに自分をごまかしても、その感覚を打ち消すことはむずかしかった。病気はあたらしい女みたいに、彼に寄り添っていた。
「肝臓に転移した」
白木が電話でそう告げたのは、翌年の六月だった。手術から一年経っていなかった。わたしは言葉がなかった。(235~236頁)


白木篤郎(井上光晴)は1992年(平成4年)5月30日に亡くなり、


妻の笙子も2014年に亡くなる。
小説は、笙子の独白で終わるのだが、
最後の一言(最後の一行)が哀切で、心を打つ。

私がこの小説を書きたいと思ったのは、寂聴さんは父が本当に好きだったんだなということに感動したからでもあるし、それともうひとつ、母がどういう気持ちでいたのかが自分に「とって大きい謎であり、その謎を解きたいという気持ちがあったからなんですよね。それでふっと、「この二人の視点で書いたらどうか」と思いついたんです。その瞬間すぐに「なんてことを思いついてしまったんだ、自分にできるだろうか」と怖くなりましたが、それでしか書く意味はないだろうと思いました。今振り返ってみても、それは正しい選択だったと思います。


とは、著者である井上荒野の弁。
小説なので、創作している部分もあるだろうし、
事実ではない箇所もあることだろう。
だが、事実ではないかもしれないが、
井上光晴の娘だからこそ捉えることのできた“真実”が書かれているように感じた。
最近読んだ小説の中では、
断トツで面白く、一気に読むことができ、とても感動した作品であった。
機会がありましたら、ぜひぜひ。


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