一日の王

「背には嚢、手には杖。一日の王が出発する」尾崎喜八

映画『バーニング 劇場版』 ……見えるものと見えないものの境界を描いた傑作……

2019年04月10日 | 映画
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『オアシス』などで知られる名匠イ・チャンドン監督の8年ぶり新作である。


原作は、村上春樹が1983年に発表した短編小説『納屋を焼く』。
これまで映画化された村上春樹原作の作品といえば、
『風の歌を聴け』(1981年)
『トニー滝谷』(2005年)
『ノルウェイの森』(2010年)
『ハナレイ・ベイ』(2018年)
などが思い出されるが、
どれもが、これまでの日本映画とは一味違う個性的な作品として印象に残っている。
特に、短編小説を映画化した、
『トニー滝谷』(市川準監督)と、
『ハナレイ・ベイ』(松永大司監督)は、
村上春樹と両監督の親和性が感じられ、傑作となっていた。
村上春樹の小説は、長編よりも短編が映像化に適しているのかもしれない。
そういう意味で、
短編小説『納屋を焼く』を映画化した『バーニング 劇場版』も期待できると思った。
しかも監督はイ・チャンドンなのだ。
ちなみに、なぜタイトルに「劇場版」がくっついているかといえば、
昨年(2018年)12月に、NHKで放送されているからである。
私は観ていないのだが、95分版で、しかも吹替えであったらしく、
ネット検索すると、非難轟々。(笑)
「劇場版」として、148分の字幕版として映画館で上映されることにより、
本来のイ・チャンドン監督作『バーニング』を見ることができるというワケだ。
今年(2019年)の2月1日に公開された作品であるが、
佐賀(シアターシエマ)では、2ヶ月遅れの4月5日から上映され始めた。
で、公開初日に、会社の帰りに映画館に駆けつけたのだった。



アルバイトで生計を立てる小説家志望の青年ジョンス(ユ・アイン)は、


幼なじみの女性ヘミ(チョン・ジョンソ)と偶然再会し、
彼女がアフリカ旅行へ行く間の飼い猫の世話を頼まれる。


旅行から戻ったヘミは、
アフリカで知り合ったという謎めいた金持ちの男ベン(スティーブン・ユァン)をジョンスに紹介する。


ある日、ベンはヘミと一緒にジョンスの自宅を訪れ、
「僕は時々ビニールハウスを燃やしています」
という秘密を打ち明ける。


そして、その日を境にヘミが忽然と姿を消してしまう。
ヘミに強く惹かれていたジョンスは、必死で彼女の行方を捜すのだが……




原作は、わずか30頁ほどの短編小説なのに、上映時間は、148分。
あの短い話を、どうやって2時間半もの尺に膨らますのか?
〈冗長になっているのではないか……〉
〈退屈するのではないか……〉
と心配していたのだが、杞憂であった。
前半は、いかにも村上春樹らしいテイストに溢れており、
後半は、一転、韓国ノワールともいうべき不穏さを内包した物語として楽しませてくれたのだ。


前半のクライマックスは、
北朝鮮との休戦ラインに近いジョンスの実家の庭先で、
3人(ジョンス、ヘミ、ベン)が大麻を吸い、ワインを飲んでいるシーン。






カーステレオからマイルス・デイヴィスの『死刑台のエレベーター』のソロが流れてくると、


ヘミが上半身、裸になって、
そのメランコリックな旋律に合わせて、体をくねらせ、ゆっくりと踊るのだ。


沈む夕日、迫りくる闇。
その情景と、涙を流しながら踊るヘミが例えようもなく美しく、


村上春樹の初期の頃の小説にあった悲哀感がうまく表現されていて秀逸であった。
『死刑台のエレベーター』というBGMも後半への予兆のようで、その選曲に舌を巻いた。
このシーンを見るだけでも、「本作を見る価値はある」と断言できる。


後半、ジョンスは、実家の周囲にあるビニールハウスを探して回る。




ベンが、
「僕は時々ビニールハウスを燃やしています」
と秘密を打ち明けた後に、
「実は、今日も、その下調べに来たんです」
と言ったからだ。
その日以来、ジョンスは、毎日ビニールハウスを点検して回るが、
どこにも燃やされた形跡がない。
狂ったようにビニールハウス巡りを繰り返すジョンスは、
ついには、ビニールハウスに自ら火をつけようとさえする。


この辺りからジョンスの現実なのか妄想なのか判らない行動が顕著となる。
〈ヘミの失踪には、ベンが関わっているのではないか……〉
と考えたジョンスは、ベンの行動をも監視するようになる。


そして、悲劇的でショッキングなラストを迎える。
その衝撃的なラストは、現実なのか、空想なのか、それさえ判らない。
判断が、見る者に委ねられているのだ。


『キネマ旬報』(2019年2月上旬号)に、
『ハナレイ・ベイ』の松永大司監督と、イ・チャンドンの対談が載っており、
村上春樹の小説を映画化した監督同士、興味深い話が展開されているのだが、
その中で、イ・チャンドン監督は、ラストについて、次のように語っている。

ミステリー、あるいはスリラーという枠を持ちながら、最後に謎が解けるような一般的な構造にはなっていない。結末でも謎は解けませんし、ミステリーで引っ張っていった先に、より大きなミステリーが待っています。それは、私たちが生きている世界についての謎、あるいは観客が映画を見たり、小説を読んだりしながら受け入れていくストーリーテリング、そして、映画というメディアそのものの意味についての問いかけです。

それ以降に起きることは、現実かもしれないし、もしかしたら、ジョンスの書いている小説の中の出来事かもしれないという、解釈の余地を残しておきたかったのです。

それぞれの観客が自分のやり方でエンディングを受け入れてほしい。


「判断が、見る者に委ねられている……」
という解らなさが、
単純な構造の映画を好む人には受け入れがたいことだと思うが、(笑)
コアな映画ファンにはこれ以上ない贈り物に思えるのだ。


原作の小説に、(もちろん映画にも)
パントマイムの勉強をしているヘミが、ジョンスに「蜜柑むき」を演じてみせる場面がある。

(私が所有している新潮文庫、昭和62年版、53頁)

「君にはどうも才能があるようだな」と僕は言った。
「あら、こんなの簡単よ。才能でもなんでもないのよ。要するにね、そこに蜜柑があると思いこむんじゃなくて、そこに蜜柑がないことを忘れればいいのよ。それだけ」
「まるで禅だね」



まさに禅問答なのだが、
本作『バーニング 劇場版』は、
この「ある」と「ない」、あるいは「見えるもの」と「見えないもの」の間にある境界、
その曖昧さについて描いているのだ。
パントマイムの「蜜柑」に象徴されるように、
ヘミが飼っているという「猫」も姿を見せないし、
昔、ヘミが落ちたという「井戸」も、実際にあったのかどうかも分らない。
「無言電話」の相手も判らないし、
焼かれたという「ビニールハウス」も見つからない。
そして、ついに「ヘミ」までもが姿を消すのだ。
「現実」なのか、「想像」あるいは「妄想」なのか、
その解らなさが、なんともスリリングで面白い。


フォークナーにも『納屋を焼く』(Barn Burning)という短編小説があり、
村上春樹の小説『納屋を焼く』にも、

僕はコーヒー・ルームでフォークナーの短編集を読んでいた。(新潮文庫、昭和62年版、56頁)

との記述があるので、(映画でも「フォークナーの短編集」が出てくる)
その関係性も面白いと思うのだが、
1990年に出版された村上の全集には改稿されたものが収録され、
当該箇所は「僕はコーヒー・ルームで週刊誌を三冊読んだ」と改められているという。
何故?

小説は、映画を見る前に一度、鑑賞後に三度ほど読んだが、
読めば読むほど面白さが増してくる。

映画の方も、いくらでも深読みができ、
いろいろなことを思い描くことができて楽しい。
ぜひぜひ。

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