一日の王

「背には嚢、手には杖。一日の王が出発する」尾崎喜八

映画『ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ~』…たまには人生を踏み外してみないか…

2009年10月11日 | 映画
今年は太宰治(1909~1948)の生誕100年ということで、
『斜陽』(監督・秋原正俊、2009年5月9日公開)、
『パンドラの匣』(監督・冨永昌敬、2009年10月10日公開)、
『人間失格』(監督・荒戸源次郎、2010年初春公開予定)、
など、続々と彼の作品が映画化されている。
本作『ヴィヨンの妻 ~桜桃とタンポポ~』(2009年10月10日公開)もその流れに沿った作品ではあるが、構想自体はかなり以前から練られており、脚本は5年の歳月をかけて書き下ろされたという。

主演・松たか子。
彼女のとっての長篇映画初主演作である。
TVドラマや舞台では何度も主演しているので、意外な感じを持つ人も多いのではないだろうか……。
過去には、
『東京日和』(1997年、竹中直人監督)
『四月物語』(1998年、岩井俊二監督)
『ナイン・ソウルズ』(2003年、豊田利晃監督、)
『隠し剣 鬼の爪』(2004年、山田洋次監督)
『THE 有頂天ホテル』(2006年、三谷幸喜監督)
『東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜』(2007年、松岡錠司監督)
『HERO』(2007年、鈴木雅之監督)
『K-20 怪人二十面相・伝』(2008年、佐藤嗣麻子監督)
などの映画に出演しているが、純粋に主演と言えるものはなかった。
『四月物語』は主演作ではあるが、67分の短篇映画のようなもので、長篇映画としては本作が初主演作となるのである。


映画『ヴィヨンの妻 ~桜桃とタンポポ~』は、太宰治の短篇小説『ヴィヨンの妻』を原作としているが、映画を見終わってみると、様々な作品が取り入れられていることに気づく。
太宰の『ヴィヨンの妻』は文庫本で35頁ほどの短い作品なので、ストーリーもそれほど複雑ではない。
ヴィヨンとは、15世紀のフランスの詩人、フランソワ・ヴィヨンのこと。
高い学識を持ちながら、強盗、殺人などの罪を犯して、入獄、放浪の生涯を送ったとされている。
放蕩の果てに飲み屋の金まで奪って逃げた大谷をヴィヨンに見立てたのだろうが、小説にはそんな説明は一切ないので、小説を読んだ限りでは何故「ヴィヨンの妻」なのかがよく解らない。(解説には書いてあることが多い)
戦後の東京で、才能がありながら放蕩三昧を続ける詩人(映画では小説家)・大谷。
その夫に健気に支えて暮らす妻。(映画では佐知)。
妻は貧しさを忍びつつ幼い息子を育てていたが、これまでに夫が踏み倒した酒代を肩代わりするため椿屋という飲み屋で働き始める。
水を得た魚のように生き生きと店の中を飛び回る「椿屋のさっちゃん」。
若く美しい彼女を目当てに通う客で椿屋は繁盛する……。


だが、ある日、妻はお客として通っていた青年に犯され(この部分は映画にはない)、「世の中は犯罪者ばかりだ、夫などまだ優しい方だ」と思うようになる。
そしてラスト、あの有名な台詞が飛び出す。
このラストの台詞は、小説を読んだことがある人なら憶えていると思うが、読んだことがない人がいたら映画を見たときに興味を削いでしまうかもしれないので、ここには書かない。
この小説のラストの台詞に向けて、映画の方も進んでいく。
ラストの台詞を、佐知(松たか子)にどのように言わせるか、
どのような状況で言わせるか、そこに脚本には工夫がしてある。
『ヴィヨンの妻』の他に、『桜桃』『二十世紀旗手』『姥捨』『灯籠』『きりぎりす』『思い出』から、ストーリー・名言を抽出し、作品に取り込みながら、すべての過程がラストの言葉に集約されていく。
そのラストの台詞のために、この作品は存在すると言っても過言ではない。


監督は根岸吉太郎。
にっかつロマンポルノを10作ほど監督した後、ATGで製作した映画『遠雷』(1981年)でブルーリボン賞の監督賞と芸術祭奨選新人賞を獲得。
もう30年ほど前のことではあるが、永島敏行や石田えりが好演した『遠雷』の登場は、私にも鮮烈な印象を残している。
新進気鋭の若手監督として、一躍脚光を浴びた根岸吉太郎監督は、その後も『探偵物語』『ウホッホ探険隊』『永遠の1/2』などの映画で着実に評価を高めていった。
『乳房』(1993年)を最後に、その後の10年ほどは『絆 ‐きずな‐』(1998年)を一本撮ったきりで、心配されたが、ここ数年は、
『透光の樹』(2004年)
『雪に願うこと』(2005年)
『サイドカーに犬』(2007年)
と佳作をコンスタントに発表し、ファンを喜ばせている。
根岸吉太郎監督作品で特に印象に残っているのは、やはり、私の故郷・佐世保でロケをした『永遠の1/2』(1987年)だ。
もちろんリアルタイムで見ているし、ビデオも所有している。
佐世保在住の作家・佐藤正午の原作を映画化したもので、懐かしい佐世保の風景がたくさん出てくるのが何より嬉しい。
当時人気絶頂だった時任三郎、大竹しのぶも若々しく、地味な作品ながら愛すべき小品に仕上がっている。

脚本・野田陽造。
彼は言う、
「当初から松たか子さんをイメージして脚本を書き進めた」と。
撮影当初、現場で大変緊張していた彼女に向かって、野田陽造はこうアドバイスしたそうだ。
「松さんね、キミのために書いたホンなんだから、どんなにヘタにやったってOKなんだよ。力を抜いて、平然とやりなさい」
その助言が効いたのか、映画の中の松たか子は素晴らしい演技をしている。
作品の中では深刻な状況にある女性の役なのだが、それを感じさせないほどの良い意味での「軽み」があるのだ。
理屈ではなく本能で動く主人公を、飄々と演じている。
夫の不始末にあきれ果て、思わず笑い出すシーン、
マフラーを万引きして捕まり、駐在さんに言い訳をするシーン、
「お金の当てはある」とでまかせを言うシーン、
居酒屋で陽気に働いているときのシーン、
……どの場面も下手な女優が演じたら、元も子もなくなるところだ。
松たか子は、その難しい場面の連続を、実に巧みに演じている。

共演者も素晴らしい役者ばかり。
浅野忠信。
妻・佐知(松たか子)の夫・大谷穣治役。
秀でた才能を持つ小説家でありながら、酒を飲み歩き、借金を重ね、妻以外の女性とも深い関係になって、破滅的な生活を送る男。
浅野忠信は実直な感じのする俳優なので、「はたして……」と思っていたが、どこにでもいるようなハチャメチャなダメ男ではなく、孤高の破滅的作家を見事に演じていた。
「男の色気、それも素朴な色気を持った人でないと大谷という役はできない」
と根岸吉太郎監督が語る通り、映画を見終わってみると、私の心配は杞憂に終わり、もうこの役は浅野忠信にしかできない役だった……と、そんな気にさせたられたのには、「さすが」の一言であった。


大谷の愛人・秋子役の広末涼子。
あの舌っ足らずの猫なで声で随分損をしていると思うのだが、私は好きな女優だ。
『MajiでKoiする5秒前』や『大スキ!』などの歌をヒットさせ、TVCMやグラビアに引っ張りだこだった十代の頃より、男との浮き名を流し、写真誌を賑わし、結婚・出産・離婚を経験し、「魔性の女」的な雰囲気を漂わせる現在の彼女の方が断然良い。
キャスティングの際、根岸吉太郎監督が、
「妻のいる男が“人生踏み外しそうなヒトは誰かな”と思い浮かべていたら、彼女が浮かんだ(笑)」
と語る通り、この真面目な私(ホンマかいな)でさえ、彼女が目の前に現れたら、きっと人生を踏み外してしまう(コラコラ)……ほどの妖しさを最近の彼女は身につけている。
撮影前には、太宰治と心中した山崎富栄なども随分研究したようで、愛人としての存在感は抜群だった。
心中後、水上署の廊下で秋子(広末涼子)と佐知(松たか子)がすれ違う場面があるが、このシーンは本作の名場面のひとつと言っていいだろう。


佐知に憧れる工員・岡田役の妻夫木聡。
小説『ヴィヨンの妻』では、佐知と一度だけ関係を持つ名前もない青年として登場するが、この映画ではこの青年に名を与え、佐知に憧れる純朴な青年として、登場人物に新たな命を吹き込んでいる。
妻夫木聡は大河ドラマの撮影と重なり大変な情況の時の撮影だったようだが、疲れを顔に出さず、いつも軽やかに現場に入ってきたとか。
複雑な人生模様の登場人物のばかりなので、ややもすれば暗く、重くなりがちな作品に、唯一清々しさを持ち込んでいる。
妻夫木聡にとっても根岸吉太郎監督との仕事は刺激的だったようで、「本当に勉強になる現場でした」と語っている。


弁護士・辻役の堤真一。
辻に憧れていた佐知を見捨てた過去があり、弁護士になって再び佐知に会いに来るという、原作にはなく、この映画のために作られたキャラクター。
それだけに難しい役なのだが、セリフに抑揚をもたせず、低いトーンで演じていて、さすがと思わせた。


その他、室井滋や伊武雅刀も素晴らしい演技をしていた。
大声で怒鳴ったり笑ったりする印象の二人だが、本作では抑えた演技が光っていた。
この作品における二人の存在は、想像以上に大きいと思った。

音楽は吉松隆。
クラシック系の作曲家として知られる彼だが、意外や意外、映画音楽は初めての挑戦であったらしい。
映像とうまくマッチしている素晴らしい曲ばかりで、音楽だけを楽しみにもう一度映画を見たいと思ったほど。
特にエンドロールに流れる曲は秀逸。
最近はエンドロールになると「なんだこりゃ」というような歌が流れてきてガッカリすることが多いのだが、この作品に限ってはそういう心配はない。
館内が明るくなるまで席を立たないように……。
心地よいメロディに身を任せ、映画の余韻にひたっていて下さい。

映画を見終わっての感想は、女は強く、男は弱い、ということ。
小説の中でも、次のような会話がある。

「なぜ、はじめからこうしなかったのでしょうね。とっても私は幸福よ」
「女には、幸福も不幸も無いものです」
「そうなの? そう言われると、そんな気もして来るけど、それじゃ、男の人は、どうなの?」
「男には、不幸だけがあるんです。いつも恐怖と、戦ってばかりいるのです」

ここを読むと思わず笑ってしまうのだが、映画でもここの会話はうまく活かされている。
この作品、このように酒にも女にも金にもだらしない男が出てくる映画だ。
「こんなだらしない男を描いた映画は嫌い」という評が今後出てくると思うが、それは根本的に間違っている。
というか、おのれの無知をさらすことになる。
なぜなら、SF映画を見に行って「SF映画は嫌いだ」と、
ミステリー映画を見に行って「ミステリー映画は嫌いだ」と言っているようなものだからだ。
太宰治の『ヴィヨンの妻』などを原作にしているのだから、健全な明るい性格の健康的な男が出てくるはずがない。
それを踏まえた上で、ストーリーとは別に映画の完成度を問わなければならない。
太宰治が描く人物は、自意識過剰で、傷つきやすい。
それは現代の若者にも共通するものではないだろうか?
傷つくと、扉を閉ざして引きこもる。
その傷ついた心が外に向かうと無差別殺人などへと向かう。
普遍的な問題を孕んだ作品と言えるかもしれない。


最後に、タイトルの『ヴィヨンの妻 ~桜桃とタンポポ~』の「桜桃とタンポポ」とは何を意味しているのか?
たぶん、
『桜桃』の中の有名な言葉「子供より親が大事、と思いたい」から、桜桃は夫である大谷を、
『二十世紀旗手』の中の有名な言葉「タンポポ一輪の信頼」からタンポポは佐知を表現しているのではないだろうか?

モントリオール世界映画祭の創設者兼ディレクターのセルジュ・ロジーク氏が、本作を観賞後、主演の松たか子の演技力と存在感、そして共演キャストたちのハーモニーの素晴らしさを絶賛したとか。
そして、本作は、2009年9月、見事「最優秀監督賞」を受賞した。

そこの、平凡で明るい健全な生活を送っているあなた……
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