快気分析

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自然災害 仕組みとアプローチ -  大坂の陣 イギリス勢とスペイン、ポルトガル勢の暗闘の舞台

2016-10-15 18:26:55 | 地震 津波
 大坂の陣では家康がセーカー砲、それと大坂城に届いたと言われるガルバリン砲を何故持っていたか?と言うと、状況は次のような状況のようです。

引用開始(一部抜粋)

http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000193632
 家康がカルバリン砲を購入し、大坂の陣で大砲を使用したことについては、
「『火縄銃・大筒・騎馬・鉄甲船の威力』、 桐野作人、 新人物往来社、 2010」
 のp.56に、「家康はコルベリン砲四門とセーカー砲一門を一四〇〇両で購入」とある。
また、国産の大筒を大量に発注したこと、その実験データに基づく仮説の紹介などもあり。
(中略)
スタジオトーク
大阪の陣にイギリスが 徳川家康と武器売買スタジオではイギリスからの
カルバリン砲が大阪の陣に大きな影響を与えたと伝えた。タイモン・スクリーチは
精神的に大きな役割があったと思うと語った。タイモン・スクリーチはイギリスは
カルバリン砲以外にも鉄砲や火薬をアダムス経由で売っていたと伝えた。
戦いそのものも輸入していると伝えた。また貿易と軍事力は切り離せないと話題になった。

引用終了

 ではどう言う状況でアダムスがガルバリン砲を輸入したのか、ですが、次の事から当時のイギリスがスペイン、ポルトガル勢と東アジアで競合していたようです。

引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9%E6%9D%B1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E4%BC%9A%E7%A4%BE
イギリス東インド会社
その後、イギリス東インド会社は、オランダ東インド会社と東南アジアにおける貿易をめぐって、衝突を繰り返すこととなった。1602年にはジャワ島のバンテンに、1613年には、日本の平戸に商館を設置した。

1610年代から20年代にかけてのイギリス、オランダ、スペインの競合において、オランダは、1612年にスペインとの間で休戦協定を締結する事により、イギリスとの対立を鮮明にした[3]。しかし、オランダは、イギリスと対立するゆとりが無い事を悟り、1619年には、オランダ東インド会社に対して、イギリス東インド会社との融和を命じると同時に、1619年にはイギリス、オランダ両国の間で休戦協定が締結された[3]。

引用終了

 スペイン、ポルトガル勢とイギリスが競合していた、つまり覇権争いをしていた、と言う事なのでした。
 1614~1615年頃、家康の徳川方に取り入り、東アジアでスペイン、ポルトガル勢の既得覇権に食い込んで来た新興勢力イギリスと、豊臣方に近付き (豊臣氏に本格的に取り入ろうとしていたかも知れないが、実際ははっきりわからないうちに豊臣氏滅亡になってしまった) 東アジアでの既得覇権を守ろうとしていたスペイン、ポルトガル勢との「暗闘の場」でもあった、と言うのが大坂の陣の一面のようです。
 そうだとすると、仮に巨大地震や大噴火等の災害で国内の多くの地域が被害を受けた場合、既にスペイン、ポルトガル勢の拠点居留地であったフィリピン、マカオあたりから、大挙、大船団と武器補給で豊臣方や不満分子の支援を行い一揆やクーデター、革命に加担して来るのかどうか、と言う事になります。
 当時は蒸気船やエンジン機関船など当然ありません。非力な手漕ぎ以外は帆船ですから日本からフィリピン、マカオに行くのとは違い、黒潮や偏西風に乗ってフィリピン、マカオから日本に来るのは結構早くて容易だったはずです。
 一般にはこのあたりを指摘する説も多いようです。
 さてこれまで書いた話の流れで行くと、「きっとスペイン、ポルトガル勢はきっと家康が入手したレベルのガルバリン砲は持っていなかったのだろう」となるのかも知れませんが、筆者は「彼らスペイン、ポルトガル勢は実は持っていた」と見ています。
 一つの理由は次のような経緯です。

引用開始(一部抜粋)

http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-20/
ウルバンの大砲は、砲身長が6mもあり、重さ300kgの石弾を1.6kmも飛ばすことができた。ただ、大きすぎて、重すぎて、そのままでは移動できない。そこで、砲身を2つに分けて運び、現地で接合された。

ウルバン砲は、石弾を発射すると、石弾との猛烈な摩擦熱で砲身が焼けつく。ムリに連続発射すれば、熱で大砲が破裂する。そのため、砲身の熱が冷めるまで待つ必要があった。ウルバン砲は青銅を鋳造した丈夫なものだったが、連続発射には耐えられなかった。連続発射が可能になるのは、鋼鉄製の強化砲身が発明された後である。1453年、ついに、ウルバンの大砲は完成した。コンスタンティノープル攻略の準備が整ったのである。

引用終了

 15世紀末には既に、しかもトルコ軍が射程距離1600mのものを使っていたのでした。
 大型化のものを小型化するのは容易でない事も条件によってはありますが、大砲の場合はそう困難な技術ではないのでは、と考えます。
 またアルマダの開戦でもスペインはガルバリン砲を使ってますが、これは大型のもので射程距離がイギリスのものより短く、更にイギリス軍の帆船性能と合わさって、この戦いに関してスペインの無敵艦隊はイギリスに敗北します。・・・だから大坂の陣までスペイン、ポルトガル勢がずっと射程距離の短いものしか持っていなかったのか? と言うとそんなはずはありません。
 アルマダの海戦ですが、スペイン軍もガルバリン砲を使ってます。
 本来、もっと小型で射程距離の長いタイプを採用しても良かったのに、戦法として軍船の接舷と白兵戦を前提に大型で射程距離の短いタイプを採用しているようでした。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%80%E3%81%AE%E6%B5%B7%E6%88%A6
さらにスペイン軍の大砲の数を2倍とし[26]、数発で敵船の動きを止めて従来の接舷斬り込み戦法に持ち込むための、重量の大きい砲弾を放つ、威力は強いが短射程のカノン砲や全カルバリン砲が多用されていた[27][28]。また、接舷切り込み直前の接近戦で人員殺傷を狙うため、ペリエール砲以下の軽砲が搭載砲約2500門の2/3を占めていた[29]。この多数の軽砲を搭載するため、主力戦闘艦であるガレオン船には大規模な船首楼・船尾楼が設置されていたが、トップヘビーで船体を不安定にし、航洋性と備砲の命中率の低下の原因となった[30]。対するイングランド軍の大砲の95%が、軽量弾を放つ長射程の半カルバリン砲であった[28]。短射程軽砲を積まないのに合わせて大きな船首尾楼は廃止され、航洋性や運動性の優れた低重心設計の船体となっていた[30]。半カルバリン砲が長射程といっても長距離では命中率が低く、命中しても軽量弾では船体に致命傷にはならないため、当初から接近戦を志向したスペイン艦隊の戦術理論の方が先進的との評価もある[29]。スペイン側もこのような両軍の装備の違いを把握しており、フェリペ2世は、イングランド艦隊が長距離砲戦を試みるだろうから、スペイン艦隊は接近して敵艦を鉤綱で拘束して攻撃するよう艦隊出撃前に指示していた。ただ、イングランド側の方が砲甲板の設計や砲員の技量に優ったこともあり、イングランド側が砲戦で終始主導権を握る展開へとつながった[29]。

引用終了

 なのでスペイン、ポルトガル勢とて小型の砲弾を放つガルバリン砲を作り、大型のものより射程距離を更に長くするものは、イギリス軍のものよりも多少は劣るものかも知れませんが、少なくとも徳川軍が入手したもの程度は作れたのだと思います。
 実際に英西戦争ではスペインもその後反撃して、結局はスペイン有利で1604年までの英西戦争は終結しているのです。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%80%E3%81%AE%E6%B5%B7%E6%88%A6
アルマダの海戦
概要
詳細は「英西戦争 (1585年)」を参照

死傷者は2万におよび、スペイン衰退の予兆となった[9]。ただし、この戦いの後イングランドは反攻作戦に失敗して戦争の主導権を失い、一方、スペインは艦隊を再建して制海権を守り通しており、戦争は1604年にスペイン側有利で終わっている。イギリス(=イングランド)が海洋覇権国家となるのにはまだ長い年月を必要とした[10][11][12]。

引用終了

 豊臣方の使っていたと言われるレベル程度のフランキ砲をスペインがまだ使っていたなら、こうした結果には到底ならず、イギリスが短期に圧勝だったはずなのです。
 では何故スペイン、ポルトガル勢は日本に射程距離の長い大砲を売らなかったのか? 更にはその存在すら教えなかたのでしょうか?
 それは「スペイン、ポルトガル勢がフィリピン等の居留地を拠点にして実質、東南アジアを武力支配していたからではないか」、と筆者は考えています。
 簡単に言うとスペイン、ポルトガル勢は「日本人に新型の兵器を渡すと日本人が自作を初め、やがて互角に近い兵器を造り、スペイン、ポルトガル勢の支配する東南アジアに攻めて来るかも知れない。技術開発には偶然の発見だってあるし、場合によってはスペインの大砲などを凌駕するものも作るかも知れない。」 そう考えてスペインの持つ最新に近い技術の大砲は日本に売らなかったのではないでしょうか。筆者にはそのようにしか思えません。
 一方、イギリスは東アジア、東南アジアにはまだ拠点、実質武力支配している所が無い。それともう一段進んだ射程距離の大砲は既に持っていた。だから「スペインへの腹いせ」かどうかはわかりませんが、かなり射程距離の長い大砲を家康の売った可能性がある、と考えています。
 無論、イギリスも最新技術の大砲は売ってなかったでしょう。
 一世代前、今風に言えば「型落ち品」を家康に売ったのだと思います。
 と言う事は、仮に日本人がイギリスから既に入手したレベルの大砲なら、もう隠そうが隠さまいが関係ないのでスペインも豊臣方に売る可能性は十分あった、と思われるのです。
 そしてその次にあるのは「スペインを後ろ盾にした徳川氏への不満分子と豊臣氏とが一斉蜂起する」可能性、そして彼らが狙った機会は「大規模ば自然災害」なのではないでしょうか。
 家康はフィリピンあたりにも情報網を張り、軍船や武器弾薬等の集結状況などを把握していたからこそ、先手先手で豊臣氏を封じ込めた可能性は十分あるのではないでしょうか。
 尚、イギリスとスペイン勢との戦いは1604年に完全終結したわけではなく、その後に何度も戦いは続きます。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%B1%E8%A5%BF%E6%88%A6%E4%BA%89
英西戦争

英西戦争はイギリスとスペインとの戦争。

英西戦争 (1585年-1604年)(1585年-1604年):八十年戦争の一部。
英西戦争 (1625年-1630年)(英語版)(1625年-1630年):三十年戦争の一部。
英西戦争 (1654年-1660年)(英語版)(1654年-1660年)
英西戦争 (1727年-1729年)(英語版)(1727年-1729年)
英西戦争 (1739年-1742年)(1739年-1742年):後にオーストリア継承戦争(1740年-1748年)の一部となる。
英西戦争 (1761年-1763年)(英語版)(1761年-1763年):七年戦争の一部。
英西戦争 (1779年-1783年)(1779年-1783年):アメリカ独立戦争の一部。
英西戦争 (1796年-1808年)(英語版)(1796年-1808年):フランス革命戦争の一部。

その他、一般に「英西戦争」として知られるイングランドとスペインの戦いは以下の通り。

スペイン継承戦争(1702年-1713年)
四カ国同盟戦争(1718年-1720年)

引用終了

 イギリスとスペイン、ポルトガル勢の暗闘の舞台としての大坂城だったのだと思われます。


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