武井武雄をあいする会

童画家武井武雄が妖精ミトと遊んだ創作活動の原点である生家。取り壊し方針の撤回と保育園との併存・活用を岡谷市に求めています

松本 猛氏による特別講演会の概要(3)

2014年01月26日 14時26分08秒 | あいする会
武井武雄をあいする会の設立趣旨入会申込み生家の保存・活用を求める署名生家保存・活用のための募金


       3   4(完)

 私の母、いわさきちひろは1918年生まれですから、「コドモノクニ」が創刊された当時、まだ4歳くらいでした。いわさきちひろが武井武雄、岡本帰一、初山滋たちのことをどう思っていたのか。「ちひろのことば」という本で文章に残しています。ちょっと読んでみます。

 母親が女学校の先生だったから、普通に考えれば教育環境は恵まれている方なのだろうけれど、こと絵本に関するかぎりまったく無関心だったようである。それは大正のおわりごろである。私の思い出に残っているわが家の絵本は、どれも色のどぎつい、はんこで押したような、こどもの並んでいる絵の本だった。絵本の好きなこどもだったから、そんな本でも穴のあくほど眺めたとみえて、そこに描かれている生気のないこどもの、こどもらしくない顔つきやしぐさ、ただべたべたと並べたその構図がはっきり頭に残っている。
 そのころ私は、ときどき垣根越しに隣のむすこと遊んでいた。ある日、垣根越しにその子が一冊の絵本を渡してくれた。厚手の紙に印刷された本であった。その本は今まで私が家で見ていた本とはまるで違っていた。美しい月見草が夕やみのなかにゆれてにおっているようであった。また大きな三日月が陰の部分をあかるくまるく残して、絵本いっぱいにひろがっていた。五色の葉っぱのついた本、にじの橋をこどもたちがラッパを吹きながら渡っている。見ることや考えることがたくさんあって、夢のようないい気持ちになった。どうしてもお隣に遊びにいって、もっとたくさん本を見せてもらわなくてはならない。私はお隣に遊びに出かけた。隣は私の家と同じでせまい借家だけれど、建て増しのへやがあり、そこにはめずらしいベッドがおいてあった。わが家とはだいぶ文化水準が違うようであった。本がポンと投げだされてあった。「コドモノクニ」というその本であった。胸がきゅっとなって、どきどきして、その本が自然に私のもとにくるように願っていた。私はげんきなこどもだったと思うのに、「見せてちょうだい」とはそのときどうしても言えなかったような気がする。けれどその後、いつのまにか私はたくさんのコドモノクニを見るようになっていた。家でも少しは買ってくれだしたのかもしれない。岡本帰一の絵が好きになり、武井武雄、初山滋の絵の夢にあこがれた。


 そうして、いわさきちひろは絵を描くようになっていきます。

 戦いがおわった日、心のどこかがぬくぬく燃え、生きていく喜びがあふれだした。忘れていた幼い日の絵本の絵を思いだし、こどものころのように好きに絵を描きだした。いつのまにか童画家といわれ、日本童画会にはいった。武井武雄先生、初山滋先生方とはじめてお目にかかった日、あふれる感動で胸がいっぱいになった。ああこの先生方の絵で私は大きくなったのだ。私の心のなかには、幼い日見た絵本の絵がまだ生きつづけている。今その絵を見たらどうなのか、また見たい気もするけれど、童画というものはふしぎなものでもう見なくても大丈夫なのだ。幼い日心にうけたその感動が、その人の成長につれてふくよかにより美しく成長し、心の糧になっている。童画を描いている私は、それがちょっとおそろしい気もするけれど、しあわせなことだとしみじみ思う。


 こういう言葉を書いています。

 いわさきちひろは、日本児童出版美術家連盟(童美連)という団体をつくって、画家の権利を守る運動をするんですが、そのきっかけというのは、初山滋の絵が教科書に使われたときに、バラバラに切り刻まれて掲載されたことなんです。当然、初山滋はこれに抗議しました。画家は使用権を売るのであって、画家が作り上げたイメージは、第三者が勝手にこれを切り刻んだりしてはいけない、ということを論理的に訴えたんですね。
 結局、裁判になるんですが、出版社側は切羽詰まって、画家たちと話し合いをしようということになりました。母もそこに参加をしました。その時に武井武雄先生が自分の絵を見せて、居並ぶ重役たちに「これを芸術だと思うか」と一人ひとり聞いていったというんですね。重役たちはみんな「もちろんすばらしい芸術です」と答えたんですが、法律問題に詳しい重役だけは答えなかったそうです。著作権の侵害になることがわかってたんですね。

 本日の講演のために、武井先生の書いたものを読み返していましたら、改めてものすごい文章だと思ったものがありましたのでご紹介します。

 大正中期を児童文化ルネッサンスとよんでいる。この時期に児童のための文学、絵画、音楽、映画、演劇その他いろいろな文化運動が一時に花開いたからである。ところが絵画の面ではまだ非常に認識が浅く、いわば文学の隷属物か、あるいは文学との間に主従関係でもあるかのように考えられている。童話さし絵とか、童謡画などと呼ばれていたのがその証拠である。これでは困る。文学と分離しても、絵画だけで独立して子どものための美術として存立すべきもので、さし絵というのはその用途の一部であって、これがすべてではない。これを主張したいのだが適当な方法がないので、絵画だけの展覧会を開くほか仕方がないと思ってこれを敢行した。大正14年のことで、関東大震災の翌々年に当たっている。これは文学と離れてでも存在できるという主張のためのもので、まさか「童話さし絵展」というわけにもいかないので、「武井武雄童画展」とした。


 皆さんご存じだと思いますが、武井武雄先生が「童画」という言葉を初めて使ったときのことを述べた文章です。ここで大切なことは、子どものための絵画というものが、独立したアートであることを宣言している点です。この精神というのは、いわさきちひろにつながっています。先ほどご紹介した「ちひろのことば」には、次のような文章があります。

 童画は、けっしてただの文の説明であってはならないと思う。その絵は、文で表現されたのと、まったくちがった面からの、独立したひとつのたいせつな芸術だと思うからです。


 母は、まだ若い頃に「自分は童画家なんだろうか」と武井武雄先生に聞いたそうです。その時、武井先生は、「自分が好きなように一生懸命描いたものが子どもに受け入れられる人が童画家と呼ばれるのではないですか」と答えられたそうです。それで、いわさきちひろは自分は童画家だといって絵を描くようになりました。今では絵本画家という言い方のほうが多くなってきていますが。そういう精神のつながりというのがすごくしっかりあったんだなあと思ったわけです。