武井武雄をあいする会

童画家武井武雄が妖精ミトと遊んだ創作活動の原点である生家。取り壊し方針の撤回と保育園との併存・活用を岡谷市に求めています

武井武雄をあいする会シンポジウム(4) 吉澤政己先生の講演概要

2013年04月27日 22時24分57秒 | シンポジウム
武井武雄をあいする会の設立趣旨入会申込み生家の保存・活用を求める署名生家保存・活用のための募金



 吉澤です。よろしくお願いします。

 この建物の価値としては、武井武雄先生の生家だというのが決定的であって、これから私がお話しする信州の武家住宅としての位置づけというのは、いわば尾ひれの部分にあたる話になろうかと思います。

 木造の建物というのは、新築の時には柱に触ると冷たいですね。100年200年と経つと柱に温もりが出てきます。私たちは、この建物がどのくらい古いのかっていうのをざっと知りたいときには、触ったときのざらざら感と温もりで調べてある程度わかります。武井家は、享保12年のお札があるといいますから300年です。柱に触れば、温もりが感じられると思います。

 この間新聞に、ドイツで出版されるアンデルセン童話集の挿絵として武井武雄先生の童画が使われるという記事が出ていました。アンデルセンが育った家というのは、市が買い取って公共的なものとして保存をしています。やっぱりアンデルセンがそこで育ったという家があることで、世界中からそこを訪れる人に、文化的な感性を呼び覚ましてくれるわけです。

 信州の武家住宅は、今で言えば公務員宿舎であり、昔は相当残っていました。各藩に何百戸とあったわけで、合わせれば県内に何千戸とあったわけですが、現在残っているのはほんのわずかであります。各藩で2、3棟といったところでしょうか。
 例をあげますと、松代藩では重要文化財になっている旧横田家住宅、県の文化財になっている前島家住宅があります。上田藩では、中級武士の住宅が消防署の近くに茅葺き屋根で残っております。松本藩では、下級武士の住宅が2棟残っています。松本城の西堀の復原をやっていますが、松本には上級武士、中級武士の住宅はもうなくて、下級武士である徒士(かち)クラスの住宅として、高橋家橋倉家の2棟が残るのみであります。高遠藩では、眼科医でありました馬島家住宅が残っています。馬島家は、一時期は諏訪にいて、高遠藩に召しかかえられたという歴史をもっていまして、そのお宅は県の文化財になっています。それから、有名な伊沢修二先生の生家、これは下級武士であります。飯田藩にいきますと、柳田國男氏が養子になった柳田家というのが、これはもう取り壊されて、門と部材が残されています。それから、下級武士の住宅として福島家住宅が残っています。これは、武井家と同じ本棟造りであります。
 それで、高島藩はどうかということになりますと、お城の近くに志賀家住宅というのがありまして、これは諏訪市の文化財に指定されています。これは、ほぼ上級といえる格式の住宅であり、長屋門、主屋、土蔵、それから前栽(せんざい)と呼ばれる畑がセットで残っています。それから、お城の周りではありませんが、武井家住宅と渡辺家住宅が残っております。武井家はもともとは板葺き、渡辺家は茅葺きの建物です。
 信州の武家住宅で残っているのは、だいたいそのぐらいしかありません。

 武家住宅というのは、門塀、主屋、土蔵がセットなのですが、これは禄高による格式で大きさが決められていました。武井家は、長屋門がありますが、この長屋門だと格式が高くなりすぎてしまうんですよね。志賀家の長屋門よりも立派なぐらいの長屋門なので、あの門は、江戸時代後期から幕末ごろになって、武家とは違う庄屋というような意味合いで建てられたものかもしれません。そのような点では、主屋の方が明確に価値があるのかなと思います。

 上中級武士と下級武士の住宅の大きな違いは玄関です。下級武士の住宅には「式台」がありません。玄関を入ってから、座敷に上がるようになっています。これが、上中級武士になりますと、「式台」玄関になります。つまり、駕籠に乗ってきた武士が、外にある「式台」で降りてから玄関を入って、取次の間から座敷に入るという構造になっているわけです。武井家住宅については、だいぶ改造されていますが、これを丹念に復原していきますと、「式台」玄関になっており、中級武家の構えになっています。現在は改造されてしまっているのでわかりませんが、柱の痕跡などからみて、その辺がはっきり読み取れます。「式台」玄関は普段は使わないもので、お坊さんや上級の武士が来たときに使っていた特別なものです。家の人は、普段は「式台」玄関の横にある大戸(おおど)から土間に入っていました。

 農家でも「式台」のある家があります。これは、武家には格式によって決まりがあり、厳格に守られていたのですが、農家にはそのような決まりはありませんでした。これは、農家が自分のお金で建てなければならなかったのに対して、武家は、公務員宿舎ですから藩が建ててくれる、だから格式によってどういった住宅を建てるのかが決まっていたわけです。農家の「式台」は、多くは幕末から明治にかけて、養蚕などが盛んになって農家が豊かになってから、武家のお屋敷のまねをして付けたという場合が多いです。

 私からは以上です。

(注)「式台」の説明については、横浜市の本郷ふじやま公園内にある横浜市指定有形文化財である旧小岩井家主屋の写真等を使用させていただきました。