武井武雄をあいする会

童画家武井武雄が妖精ミトと遊んだ創作活動の原点である生家。取り壊し方針の撤回と保育園との併存・活用を岡谷市に求めています

武井家聞書控

2013年03月13日 19時04分41秒 | 武井武雄の世界
武井武雄をあいする会の設立趣旨入会申込み生家の保存・活用を求める署名生家保存・活用のための募金

武井家聞書控

武 井 武 雄

<押込襲来>
 母や村の古老から聞いた話。
 これは年代が明らかでないが、幕末に近い頃のことだったと思われる。
 私の家に親戚の血気盛んな若者たちが二三名泊まり込んで、夜おそくまで刀の手入れなどしながら話し込んでいた。
 「今夜あたり押込みでもやって来てくれると一寸面白いがなァ」とおだやかでないことを言ったその時、どうしてこんなにタイミングのいい事が起きるものか、抜き身をぶらさげた盗賊が二人押し入ってきた。
 待ってましたとばかり斬り合いが始まった。なにぶん屋内でのチャンバラなのでそう長くは続かなかった。泥ちゃんの方はだんびらを振り上げてはいても、これはおどしのためで、ヤットウの方は素人の悲しさ、やばいと悟って逃げ出した。広円寺の木戸口まで追いかけたが、深追いするなと声がかかって止めたということだ。
 やれやれと一件落着してから、こちらにも軽い怪我人が発見された。上の諏訪へ片ついていたおばさまという方が、寝たまま流れ刃でももに傷を受けていたが、そこは武士の妻、落着までは全く声を出さなかったというので、みんなに感心されたということだ。
 傷を受けたのは人間だけではない。鴨居に刀痕が残っていたそうだ。この方は今でも残っているというわけ。京都で観光バスに乗ったとき、島原の角屋というその昔の妓楼に立ち寄ったが、幕末のチャンバラで方々に残された刀痕をいかにも目玉名跡のように宣伝して見せてくれた、そういうものなら我が家にもある。といっても、島原の方は青史に残るようなものだが、我が家の方は名もなき小泥棒の一件だから、洒落ではないがこれは太刀打ちできない。

 さて、これには後日譚があって、この方が一寸面白い。西堀の人がガケの湯(別に鹿毛の湯というのもあるようだ)へ湯治にいったら、浴槽につかっている男二人が傷の治療に来ていて、
 「あれはまったく失敗だったなァ。まさか武家だとは思わなかった。神社の傍らの門構えは神主の家と決まっているから勘違いしたよ。」
と話し合っていた。
 この男二人が間違いなくお屋敷へ押込んだ泥棒だとわかりやしたと土産話をしてくれたそうだ。してみると先方様はご両名共結構手負いになっていたようだ。

<シャケカァ>
 祖父一三の若い頃のことだったと思うが、水戸浪士天狗党が武田耕雲斎を頭目として、和田峠を越えて諏訪へなだれ込んできた。諏訪藩はこれと一戦を交えて阻止しなくてはならない立場だが、どうもあまりかかわりたくないらしく、樋橋のあたりで形だけ一寸小ぜり合いの真似事をしただけで、お通りを願ってしまった。
 ある夕暮れ、一三が門前に佇んでいると、一騎の騎馬武者が現れて、割鐘のような大声で「シャケカァ」と怒鳴った。
 これはどうも西堀あたりの常用語には無い言葉なので、何の事かわからず耳に手を当てて「はあッ」と聞き返したら、気の早い水戸浪士はイエスの意味に解して引き返して行ってしまった。
 これは、神社の隣の門構えなので、前述の押込みと同じで「社家かァ」と聞いたわけであって、もしも武家だとわかったらただじゃ済まなかった。火くらいはかけられたに決まっている。一寸したことが運命の岐路になるものである。

 西堀に利三郎という老人が居たが、若い頃水戸浪士の道案内をしてやった話をしてくれた。川岸のあたりまで案内したら二十文くれて、とても丁寧に礼を言って去ったということで、その二十文も当時としては相当過分なものに当たり、また丁寧に礼を言ったということも天狗党は単なる暴徒の群ではなかった事を意味している。利三郎は浪士に好意をもった話し方だった。
 天狗党はその末路は悲劇的であって、全員捕らえられて入獄、最後は一人残らず刑死したのがその終焉で、武田耕雲斎の刑死したのが慶応元年二月ということだから、シャケカァのあったのは、元治か文久の終わり頃の事かと思われる。

武井秀夫編著「武井家三百年史」(昭和59年)より




武井武雄芸術の世界

2013年03月11日 23時03分15秒 | 武井武雄の世界
武井武雄をあいする会の設立趣旨入会申込み生家の保存・活用を求める署名生家保存・活用のための募金

 武井武雄の芸術は、大きく分けて童画・版画・刊本作品の三つの分野から成り立っている。
 その画風は独特であり、常に夢の極限を描き、見る人を幻想の世界にひたらせてくれる。
 作品の隅々にはユーモアがあふれ、子どもから大人まで、だれもが温かみや親しみをもてるのも大きな特色であり、武井芸術は世界美術史上に確固たる位置を占めている。
 【→ イルフ童画館常設展示のページへ】

【童画】
 この言葉は、武井武雄が大正13年に銀座で個展を開いたとき初めて使ったもので、氏の造語である。
 「児童画」が子どもの描いた絵であるのに対し、「童画」は、子どもにも大人にも夢をあたえる絵画で、童心が強調されたものである。また、童画は、主にペンテル絵の具によって精密に描かれ、人の心に大きなやすらぎと感動を与え、子どもたちをメルヘンの国へと誘い、大人たちには過ぎ去った日への郷愁と限りない幻想の世界へと誘惑する不思議な絵ともいわれている。
 かつて、児童文学が勃興した大正中期いらい「赤い鳥」「金の星」「お伽の世界」「子供之友」「コドモノクニ」「キンダーブック」「チャイルドブック」など数々の絵本や雑誌をとおして童画の世界が確立され普及してきたが、その中心的な担い手は武井武雄である。
 なお、武井武雄の代表作を載せた本「武井武雄作品集1」は、1975年「世界で最も美しい本」として、東ドイツ(当時)のライプチッヒにてグランプリ受賞の栄に輝いた。

【版画】
 武井武雄の版画には、日本の伝統的な木版画はもちろんのこと、西欧からの銅版画などに優れた作品があり、昭和13年の銅版絵本「地上の祭」は名作といわれている。また、郷土玩具を題材にした昭和5年の「おもちゃ絵諸国めぐり」、昭和19年の「武井武雄愛蔵こけし図譜」などの木版画集も代表作である。
 戦後まもない荒廃した日本で全国に先駆けて文化の灯をともすため、郷里岡谷に文化団体「双燈社(そうとうしゃ)」を結成して版画の指導・普及をはかり、現在の「版画の街 岡谷」とまで言われる基礎をつくり、今日の成人学校・社会教育に版画がとりあげられるようになったのも氏の影響によるものとされている。

【刊本作品】
 刊本作品は、「世に芸術もいろいろあるが、本という芸術もありうる」との信念から生まれたものであって、木版、孔版、石版、同版、陶版、瓦版などあらゆる手法、また、紙、布、寄せ木、セロファン、金属などさまざまな材料を使い、世界中の印刷様式をすべて使いこなし、詞文・原画・印刷・装幀・製本と何から何まで氏によって手がけ造られているので一冊一冊が造本芸術といわれている。
 かつて「文藝春秋」誌上で世界で最も価値のある珠玉のような豆本であると激賞され、限定約300部のため、多くの人々から”夢の豆本”として垂涎の的となっている。
 昭和10年の第1号いらい139冊が発刊され、ことに第31号「木魂の伝記」、第41号「ストロ王」、第108号「ナイルの葦」などは力作といわれている。なお、刊本作品を収納するための専用本箱20点も氏のデザインでつくられ、「本の住む城」とまでいわれる芸術品となっている。

西堀区編「にしぼり(区誌文集)」(平成9年)より