卯の花に隠れるホトトギス
これまで「しのび音」が発生し、定着する過程をたどってきた。ここで最初の疑問にたち返ってみよう。佐佐木信綱の作詞で唱歌「夏は来ぬ」のなかでは、なぜホトトギスは卯の花に来るというのか、どうして卯の花で「しのび音」をもらすのか。
まず、なぜホトトギスは卯の花に来るのか、という疑問については万葉集から平安時代の歌集へという和歌の歴史のなかで、多くのホトトギスと卯の花を組み合わせた歌があるということ。このことはすでに多くの人の言及があるので深入りしないが。
万葉集には卯の花の歌は24首あり、そのうちホトトギスとの組合せの歌は18首ある。代表的な取り合わせとなっている。しかし、そこでのホトトギスは「しのび音」をするものはなく、どれも盛んに鳴いている。卯の花との取り合わせばかりではなく、万葉集のホトトギスはいずれもそうなのだ。そんな中で一風変わった歌がある。その盛んに鳴くホトトギスに懇願するように、まだ鳴いてくれるな、という歌がある。
1465 ほととぎすいたくな鳴きそ汝が声を五月の玉にあへ貫くまでに 藤原夫人
時鳥よ、今からあまりはげしく鳴くな。お前の声を五月の玉に交えて糸に通すことができる日までは。
五月の玉というのは頭註によると5月5日の節句に飾る薬玉(くすだま)のことで、節句が来るまでは、つまり卯月のうちはあまり鳴かないでくれ、という意味になる。のちのち、卯月には忍んでいるという平安時代の観念に通じるものがある。作者は藤原の夫人、藤原鎌足の娘五百重娘(いおえのいらつめ)という。とするとこの歌は600年代半ばか。
節句に薬玉を飾り、その時期にホトトギスがさかんに鳴く。人々の思いとしても、薬玉を飾るその時期にこそ、さあ夏が来たとばかりに、さかんに鳴いてほしいという願いがあった。だから卯月、卯の花の咲いている時期にはまだ忍んでいなければ、という発想があったとみられる。一方五月の橘や、花橘の歌は万葉集のなかで、71首、そのうちの32首にホトトギスがいっしょに歌われている。橘とホトトギスの結びつきの強さもかなりのものがある。
そのように、橘とホトトギスの組合せと同じように、卯の花に盛んに鳴いていたホトトギスが平安時代には現実を無視して、卯月には卯の花に忍ぶようになる。これには卯の花の「う」を「憂」にかけるという言葉遊びの習慣が背景にある。それはつぎの歌のように、
1501 ほととぎす 鳴く峰(を)の上の 卯の花の 憂きことあれや 君が来まさぬ 小治田朝臣広耳
と、いうように、すでに万葉集に見られるのだが、歌の様式化、観念化がすすんだ古今集以後の時代にはますます、自然を直接表現することが少なくなった。卯の花は「憂」なのだから、そこにくるホトトギスが盛んに鳴きたてていては具合がわるいわけで、やはり忍んでもらうことになる。したがってありもしない「しのび音」をさせることになったようだ。自然からはなれた宮廷世界での歌の上の約束事だから、現実にあるかないかは問題にはされない。
同じ時期に「しのふ」と「しのぶ」の混同化があり、どちらも「しのぶ」と表現されるようになった。しかし、そのことが「しのび音」の成立に関係しているのかどうか、結局そこまであとづけることはできなかった。大伴家持がくりかえし「しのひ」、つまり賞美し、たたえていたホトトギスが「しのふ」と「しのぶ」の混同化によってのちの「しのび音」につながるかどうか、はっきり辿ることはできなかった。「しのび音」の起源はどうにか900年代の始め、あるいは800年代の終わりころまではさかのぼれたものの、万葉集までにはなお、隔たりがある。
では、平安時代、「しのび音」が卯の花との組合せで実際にどれくらい使われていたろうか。八代集が成立した905年の古今集から1205年の新古今集まで300年間ある。その間には古今集から新古今集までのなかで、「しのび音」または「しのび音」を意味することばがどれだけ出てくるか。じつは厳密には「しのび音」と卯の花との組合わせは新古今和歌集の柿本人麿の作といわれる歌がひとつだけだ。この歌は、わたしは平安時代の歌人の作と考えているのは前述のとおり。
190 鳴く声をえやは忍ばぬ郭公初卯の花のかげにかくれて
だけということになる。さきに紹介した後拾遺和歌集の
1096 しのびねを聞きこそわたれほとゝぎすかよふ垣根のかくれなければ 六条斎院宣旨
に垣根が出てくるが、これはおそらく卯の花の垣根だろう。強いていえば、このふたつの歌が「しのび音」と卯の花の組合せとなる。そしてホトトギスと卯の花の組合わせということでいえば、万葉集の卯の花の歌24首中にホトトギスが入っている歌が18首もあるのに比べて、実は八代集全部で卯の花の歌49首中にホトトギスが入る歌はわずか8首にすぎない。
むしろ平安女流日記文学のほうと関係が深そうだが、それでも「しのび音」と卯の花の直接の組合せは今回調べた作品にはないようだ。しかし佐佐木信綱の作詞が作りだした情景は、万葉集から平安文学へのホトトギスと卯の花の関係をうまく取り込んだ傑作といえるだろう。
新古今以後の歌集、その他の古典では「しのび音」はどうなっているか。これについては調べていない。そうとうの数があろうし、江戸時代の作品にも多そうだ。明治以後ではどうなのか。そして、いつ消滅したか、あるいは消滅してないのか。
今回はこれまでにして、可能なところまで起源をさかのぼったというところで、まとめておくことにする。
これまで「しのび音」が発生し、定着する過程をたどってきた。ここで最初の疑問にたち返ってみよう。佐佐木信綱の作詞で唱歌「夏は来ぬ」のなかでは、なぜホトトギスは卯の花に来るというのか、どうして卯の花で「しのび音」をもらすのか。
まず、なぜホトトギスは卯の花に来るのか、という疑問については万葉集から平安時代の歌集へという和歌の歴史のなかで、多くのホトトギスと卯の花を組み合わせた歌があるということ。このことはすでに多くの人の言及があるので深入りしないが。
万葉集には卯の花の歌は24首あり、そのうちホトトギスとの組合せの歌は18首ある。代表的な取り合わせとなっている。しかし、そこでのホトトギスは「しのび音」をするものはなく、どれも盛んに鳴いている。卯の花との取り合わせばかりではなく、万葉集のホトトギスはいずれもそうなのだ。そんな中で一風変わった歌がある。その盛んに鳴くホトトギスに懇願するように、まだ鳴いてくれるな、という歌がある。
1465 ほととぎすいたくな鳴きそ汝が声を五月の玉にあへ貫くまでに 藤原夫人
時鳥よ、今からあまりはげしく鳴くな。お前の声を五月の玉に交えて糸に通すことができる日までは。
五月の玉というのは頭註によると5月5日の節句に飾る薬玉(くすだま)のことで、節句が来るまでは、つまり卯月のうちはあまり鳴かないでくれ、という意味になる。のちのち、卯月には忍んでいるという平安時代の観念に通じるものがある。作者は藤原の夫人、藤原鎌足の娘五百重娘(いおえのいらつめ)という。とするとこの歌は600年代半ばか。
節句に薬玉を飾り、その時期にホトトギスがさかんに鳴く。人々の思いとしても、薬玉を飾るその時期にこそ、さあ夏が来たとばかりに、さかんに鳴いてほしいという願いがあった。だから卯月、卯の花の咲いている時期にはまだ忍んでいなければ、という発想があったとみられる。一方五月の橘や、花橘の歌は万葉集のなかで、71首、そのうちの32首にホトトギスがいっしょに歌われている。橘とホトトギスの結びつきの強さもかなりのものがある。
そのように、橘とホトトギスの組合せと同じように、卯の花に盛んに鳴いていたホトトギスが平安時代には現実を無視して、卯月には卯の花に忍ぶようになる。これには卯の花の「う」を「憂」にかけるという言葉遊びの習慣が背景にある。それはつぎの歌のように、
1501 ほととぎす 鳴く峰(を)の上の 卯の花の 憂きことあれや 君が来まさぬ 小治田朝臣広耳
と、いうように、すでに万葉集に見られるのだが、歌の様式化、観念化がすすんだ古今集以後の時代にはますます、自然を直接表現することが少なくなった。卯の花は「憂」なのだから、そこにくるホトトギスが盛んに鳴きたてていては具合がわるいわけで、やはり忍んでもらうことになる。したがってありもしない「しのび音」をさせることになったようだ。自然からはなれた宮廷世界での歌の上の約束事だから、現実にあるかないかは問題にはされない。
同じ時期に「しのふ」と「しのぶ」の混同化があり、どちらも「しのぶ」と表現されるようになった。しかし、そのことが「しのび音」の成立に関係しているのかどうか、結局そこまであとづけることはできなかった。大伴家持がくりかえし「しのひ」、つまり賞美し、たたえていたホトトギスが「しのふ」と「しのぶ」の混同化によってのちの「しのび音」につながるかどうか、はっきり辿ることはできなかった。「しのび音」の起源はどうにか900年代の始め、あるいは800年代の終わりころまではさかのぼれたものの、万葉集までにはなお、隔たりがある。
では、平安時代、「しのび音」が卯の花との組合せで実際にどれくらい使われていたろうか。八代集が成立した905年の古今集から1205年の新古今集まで300年間ある。その間には古今集から新古今集までのなかで、「しのび音」または「しのび音」を意味することばがどれだけ出てくるか。じつは厳密には「しのび音」と卯の花との組合わせは新古今和歌集の柿本人麿の作といわれる歌がひとつだけだ。この歌は、わたしは平安時代の歌人の作と考えているのは前述のとおり。
190 鳴く声をえやは忍ばぬ郭公初卯の花のかげにかくれて
だけということになる。さきに紹介した後拾遺和歌集の
1096 しのびねを聞きこそわたれほとゝぎすかよふ垣根のかくれなければ 六条斎院宣旨
に垣根が出てくるが、これはおそらく卯の花の垣根だろう。強いていえば、このふたつの歌が「しのび音」と卯の花の組合せとなる。そしてホトトギスと卯の花の組合わせということでいえば、万葉集の卯の花の歌24首中にホトトギスが入っている歌が18首もあるのに比べて、実は八代集全部で卯の花の歌49首中にホトトギスが入る歌はわずか8首にすぎない。
むしろ平安女流日記文学のほうと関係が深そうだが、それでも「しのび音」と卯の花の直接の組合せは今回調べた作品にはないようだ。しかし佐佐木信綱の作詞が作りだした情景は、万葉集から平安文学へのホトトギスと卯の花の関係をうまく取り込んだ傑作といえるだろう。
新古今以後の歌集、その他の古典では「しのび音」はどうなっているか。これについては調べていない。そうとうの数があろうし、江戸時代の作品にも多そうだ。明治以後ではどうなのか。そして、いつ消滅したか、あるいは消滅してないのか。
今回はこれまでにして、可能なところまで起源をさかのぼったというところで、まとめておくことにする。
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