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「野鳥」ということばをめぐって―柳田国男と野鳥―

2007年09月19日 09時57分57秒 | いろんな疑問について考える

「野鳥」ということばをめぐって
―柳田国男と野鳥―
木村 成生       1999年10月18日

悟堂に先行する柳田の「野鳥」
 昭和9年、中西悟堂が日本野鳥の会を興すさいに、鳥学者や文化人の支援を受けたのはよく知られている。なかでも柳田国男の援助の大きかったことは悟堂自身、『定本野鳥記』その他で何度か書いている。柳田もまた『野鳥雑記』などでつづっているとおり、鳥との縁の浅からぬところがあり、そうしたことから悟堂への協力を惜しまなかったことがうなずける。
 では、実際に柳田は野鳥とどうかかわってきたのだろうか。そんな興味から、柳田の野鳥に関係ある行動や著作を追ってみようと思った。そして思いがけず、「野鳥」ということばに注目することになった。
 それというのも『定本柳田国男集』別巻5の総索引を手がかりに野鳥に関する項目をさがすことにして、まず「野鳥」ということばを引いたのだった。すると索引に示されたいくつかのうちの3ヶ所は『遠野物語』と『明治大正史世相篇』のものだった。『遠野物語』は明治43年に世に出ているし、『明治大正史世相篇』も昭和6年に刊行されている。しかし、野鳥の会は昭和9年の創立であり、「野鳥」ということばはその際に悟堂がつくったといわれている。そのことは悟堂も『定本野鳥記』や『愛鳥自伝』(『アニマ』1973-1977年まで連載、のち平凡社ライブラリー所収)でくりかえしているし、一般的にも「探鳥会」ということばとともに悟堂の造語として知られている。その「野鳥」が柳田によってすでに明治43年には使われていたのだった。それは『遠野物語』の序文の中ほどに出てくる。
細き田中の道を行けば名を知らぬ鳥ありて雛を連れて横ぎりたり。雛の色は黒に白き羽まじりたり。始めは小さき鷄かと思ひしが溝の草に隠れて見えざれば乃ち野鳥なることを知れり。
 前年の8月に遠野をおとずれた柳田は、その印象をのべる中で野鳥との出会いのひとこまを記したのだった。ここではごく普通の名詞のように「野鳥」が使われている。
 また『明治大正史世相篇』の第4章の「7 家に属する動物」では「近頃の飼鳥の流行」をとりあげて「……斯ういふ趣味に遊び得る者は僅かで、しかもその多数は必ずしも野外の鳥の声に、耳を傾けようとして居た人たちでは無かつた」と批判し、珍しいものを愛でたりウグイスやメジロのようなふつうの鳥でも、「啼きを比べて優種を珍重し始め」て、「つまり人間の技能の加はつた特別のものを愛したので、此点は寧ろ野鳥を疎外した大建築物などの芸術と似て居る」として、鳥を飼うことと野外の鳥に興味や理解を持つこととはつながらないという。つぎの「8 野獣交渉」にも「野鳥」の文字が現れる。
……明治大正は世間話の莫大なる材料を供給したのである。しかし幼い者には其大部分は解釈が面倒であつたから、尚暫くの間は自分の周囲の事実、殊に古くからの天然の野鳥や獣の話をよくしたのであつた。
 それどころか昭和15年発行の『野鳥雑記』に収録された「野鳥雑記」は昭和3年、「絵になる鳥」は原題がこれも「野鳥雑記」で昭和5年の初出となっている。それに「村の鳥」は昭和9年1月の初出で文中に「椋鳥とか雲雀とかいふ地面を恋しがる鳥は、もう段々退去したが、松のある為に枝移りをして、意外な野鳥までがめいめいの庭へ入つて来る」という記述がある。悟堂が雑誌の誌名を「野鳥」と決めたのは昭和9年3月のこと。
 ところで悟堂は『愛鳥自伝』によると鳥の雑誌を出すにあたりその誌名を2ヶ月苦しんで考えた末に「野鳥」と決めて、柳田邸を訪ねて披露する。それに対して柳田は「よい名前をつけられたねえ。どこから引いたの?」と聞き返し、悟堂は自分の「独創」であるとこたえると、柳田は「よかったよ。これでいよいよ発足だね」とこの名を高く買ったという。「どこから引いたの?」という柳田の言い方も奇妙だが、このあたりのやりとりは悟堂の記憶ちがいかもしれない。いずれにしても、柳田は「野鳥」ということばを自らこれまで使っていたことを忘れているはずはないだろうがそれには触れなかったらしい。
 考えてみれば「野鳥」ということばは「飼い鳥」に対して当然あっていいと思う。なぜ悟堂の独創といわれるのか不思議なくらい普通の名詞のように思える。そこで「野鳥」命名当時にもっと近い悟堂の証言をさがしてみた。
 『定本野鳥記』第5巻の「竹友藻風氏と『鶺鴒』」(昭和19年)のなかで当時をふりかえっている。それによると、雑誌の題が決まらずに2ヶ月も経過していて考えに疲れていたころ、書棚の目と水平の棚にあった翻訳書の背文字に「野鳥の……」と題があるのに気づき、「これだ!」とひらめいたという。「今まで、なぜこの言葉に気がつかなかったのだろうと私はおもった。~略~この『野鳥』という言葉はまだ日本人の通念にはなっていない。~略~『野の鳥の何々』はあっても、『野鳥』という熟語は、もし使用例がどこかにあったとしても、まだ私の目に触れていないほど一般的ならざるものだ」。こうして「野鳥」ということばに決まった。ここでは悟堂は「野鳥」ということばを自分で作ったとはいっていない。
 では当時の鳥の本にはほんとうに「野鳥」の熟語を使った例がないのか。そう思ってさがしてみると、あった。竹野家立著『野鳥の生活』、昭和8年の刊行で、野鳥の会創立の前年のこと。竹野家立は雑誌『野鳥』の創刊から3号まで連載された「野鳥の会座談会」における12人の出席者のひとりでもある。『野鳥』1巻2号の「執筆諸家の横顔」によると、新宿御苑内動物園で鳥類研究をし、野鳥巣引きを20年、成功したもの30余種、この座談会当時は東京朝日新聞社員となっている。そして『野鳥の生活』(大畑書店刊行)の著があると紹介している。
 悟堂はこの竹野の『野鳥の生活』を見ていないのであろうか。悟堂と竹野の関係はどうなっているのか。『愛鳥自伝』によると「野鳥の会座談会」の準備は当時鳥学会の大御所といわれていた内田清之助がすすめていたという。松山資郎の『野鳥と共に八〇年』(文一総合出版1997年)によると、野鳥の会創立にあたっては「内田先生は、自然科学者や鳥の専門家達、またそれらの方々を通じて多くの知己、学者を中西会長に結びつけることに腐心されていたようである」としているので、あるいは野鳥の会創立準備以前には、悟堂と竹野の間には交友関係はなかったのかもしれない。『定本野鳥記』からは、索引で追ったかぎりでは会創立以前の悟堂と竹野の交渉はわからなかった。
 竹野の本の書名にすでに「野鳥」が使われていること、そして「野鳥」命名を報告したときの柳田の反応についての『愛鳥自伝』の記述もやや不可解なのだが、ここではその辺の事情にこだわるのが目的ではないので、話をさきへ進める。

「野鳥」はさらにさかのぼる
 さて、柳田が悟堂に先立つこと20数年前に『遠野物語』ですでに「野鳥」を使っていたということになると、このことばはさらに時代をさかのぼる可能性がある。そして1603年(慶長8)までさかのぼった。というのは、小学館の『日本国語大辞典』を引いたら、「野鳥」の項に「『日葡辞書』yachoノノトリ」との記載があるではないか。『日葡辞書』とはイエズス会宣教師らが日本布教のために編纂した辞書で、室町時代の日本語について話し言葉を中心に、3万2000語を採録したもの(『岩波書店出版図書目録』1998年)。さっそく図書館へ行き、『日葡辞書』のその部分を確認してきた。『日本国語大辞典』の「野鳥」の項には、ほかにも「俳諧・笈日記」「艸山集」「賈誼・鵬鳥賦」と、何の本かよくわからないがそれぞれ「野鳥」の文字を引用している。
 それならば鷹狩に関する史料の中に「野鳥」が出てくるにちがいないと、とりあえず本間清利著『御鷹場』(埼玉新聞社1981年)をみる。引用されている史料を読んでいくのはむずかしくて時間がかかるので、とにかく「野鳥」の二文字だけみつけることにしてページをめくっていく。するとあった。
 元禄2年(1689)、5代将軍綱吉の時代。その2年前に「生類憐れみの令」が出されているというころのこと。関東郡代伊奈半十郎の覚書として、飼い置きの鳩・「鶏やあひるなどの家畜が犬や猫に食い殺されたり傷つけられた場合は、まず伊奈半十郎役所に届け出て指図を受けること」として、「差図なき前ニ御鳥見衆中へ申上候儀無用と致すべく候、申すには及ばず候得共野鳥之分は只今迄之通り……」と引用している。死んだり傷ついたりした野鳥についてはこれまで通り鳥見衆と伊奈役所に申し出よとの趣旨で、飼われている鳥に対する野の鳥として「野鳥」と記している。
 『御鷹場』の最後まで史料の引用箇所を見ていったがほかには「野鳥」はみつからなかった。また、この場合「のどり」と読んだ可能性もないとはいえないが『日葡辞書』で「やちょう」という読みの存在したことはあきらかになっている。
 これで「野鳥」ということばがかなり古くからあったことはわかった。しかし一般的なことばとしては使われていなかったようだ。『図説日本鳥名由来辞典』(柏書房1993年)を見てみると、といってもおもにその中で扱っている文献の書名について見ただけなのだが、たいていは鳥譜、禽譜といった具合で、題名に「野鳥」とつくものはなかった。
 明治以後はどうだろうか。当時、野鳥のことをなんと呼んでいたのか、いくつかの事典類にあたってみた。まず昭和初期の百科事典を調べてみる。『日本家庭大百科事彙』は、昭和2年冨山房の刊行、『国民百科大辞典』は昭和13年で同じく冨山房、『図解現代百科辞典』は昭和7年三省堂から出ている。この3者いずれも「野鳥」ということばは当然見あたらなかった。一般に鳥類、鳥獣といういい方がされていたらしいのは現在とそうちがわない。「飼鳥」についてはにわとりなどの家畜もふくめて「家禽」という項目を立てている。
 
「禽」と「鳥」
 「禽」という漢字は現在ではあまり使われなくなっている。これは「禽」の字が「鳥」で置き換えがきくからだろう。鳥に親しむ人々の間でさえせいぜい「猛禽類」をいうときに使う程度だろうか。
 昭和初期のころはまだ「禽」の字はけっこう使われていたらしい。「家禽」に対するに「野禽」は3者の百科事典とも項目はなかったが、悟堂の著作には『野禽の中に』という昭和16年に刊行された本がある。この当時、悟堂は野鳥と野禽の両方を使っていたようだ。
 ではこの時代の国語辞典には「野鳥」は出てくるだろうか。あいにく手元にも近くの図書館にも大正、昭和初期ころの国語辞典がほとんど無く、はっきりしたことはいえないのだが、ひとつだけ「野鳥」の文字のある辞典があった。『日本大辞典改修言泉』全6巻、昭和4年の刊行で、その復刻版、昭和56年のものを見た。
 「やてう=野に居る鳥、のとり、野禽」となっている。その第6巻索引には、「野鳥=ぬっとり、のっとり、のどり、ヤテウ」と並んでいる。
 国語辞典にも「野鳥」はあるにはあるのだった。しかし、悟堂が「今まで、なぜこの言葉に気がつかなかったのだろう」というくらいだから、ほとんど実際には使われていなかったのはまちがいない。 
 「飼鳥」に対して野外の鳥は一応「野禽」といういい方があるから用はたりるのだが、悟堂は雑誌命名のさい「飼鳥と一線を画し得る誌名」である必要があるということで「禽」の字もつかいたくなかっのではないか。「禽」の字を漢和辞典で引くと、「鳥をとらえる、転じて『とり』の意を表わす。鳥獣をとらえる。いけどる。とりこにする」(『角川新字源』)となっており、捕らえられた鳥をイメージする漢字であることがわかる。
 そこで今度は『定本柳田国男集』の総索引に「禽」の字をさがしてみた。引いてみたのは禽獣、野禽、家禽、鳴禽、渉禽、猛禽、禽舎、さらに漢和辞典で熟語をさがして、「禽」のつく語を求めたが、ひとつもなかった。わずかに「禽島姫神」というのがあったがこれは『出羽風土略記』に出てくる神の名だった。
 『定本柳田国男集』の総索引には「鳥」に関する語がふんだんに登場する。その中で「禽」が無いのはいかにも不自然なことだ。あるいは柳田はかごの中の鳥をイメージする「禽」の字を悟堂と同様、意識的に避けていたかもしれない。かりにこの推測があたっていれば柳田も野にあるべきものとしての鳥をやはり相当意識していたといえるのではないか。
 「明治維新は鳥獣の一大受難期」(『野鳥』532号1991年1月)といわれる。鳥は自由に捕るもの、撃つもの、飼うもの、食うものとして認識されていたらしい。加藤秀俊他による『明治大正昭和世相史』(社会思想社1980年)によると何回も飼鳥ブームがくりかえされ、ペットブームの波があり、鳥のほかにも、うさぎ、狆、モルモットなどの動物の流行があり、愛玩され、あるいは投機の対象になったという。それらの流行の中から鳥に関するものだけ紹介する。
 明治12年東京で小鳥の飼育流行。
 明治13年東京でウズラが流行。
 明治20年伝書鳩の飼養はじまる。ウグイスの愛好流行。
 明治25年ウグイス、メジロの飼育流行。カナリヤ等がそれに続く。
 明治26年カナリヤの飼育流行。
 これらの流行がどの程度の社会現象だったのか、具体的な資料を持たないのでなんともいえないが、そうした時代のなかにあって、柳田が早く鳥を野にあるべきものとして認識していたとすれば、悟堂にさきがけて「野鳥」ということばを使ったというのもうなずける。では柳田はどのように野鳥にかかわったのか。

柳田国男と野鳥
 いまよりはるかに身の回りに自然が満ちていた時代であれば、ことに少年にあってはたいてい多かれ少なかれ野の鳥との交流はあっただろう。そのなかには容易に忘れがたい体験もあって、後年まで鳥への興味が続いていく場合もあったにちがいない。柳田の幼少年期にも、やはりかなり濃い野鳥体験があったことは『野鳥雑記』や『故郷七十年拾遺』などをひらくと、いくつかのエピソードとして書かれていることからわかる。
 たとえば、8歳か9歳のとき偶然ヒバリの卵をみつけたという話がある。
一羽の雲雀が、ぱたぱたと羽ばたきをしながら飛んでゐる。幼な心にも不思議に感じられたので、ひよいと麦畑に踏み込んでみると、その雲雀の羽ばたいてゐた真下が巣であつた。……どうしても獲らずに居られなくて、それをとつて家に帰つて来た(「小鳥日記」『故郷七十年拾遺』に所収)。
 また、オオヨシキリの聞きなしについて少年時の体験を次のように記している。
此鳥をココチンなどゝ謂ふ私の郷里でも、子供の頃に父から聴いた前生譚が一つあつた。昔々ココチンは或る御屋敷に奉公をして居た下郎であつた。主人の草鞋をたつた半足盗んだばかりで、罰せられて打首になつた。それで鳥に生まれかはつて、今でもワランジカタシデクビキラレと啼くのだ云々。私には 此昔話がいつまでも腑に落ちなかつた。といふわけは何処で何べん聴いて見ても、何としてもワランジカタシとは聞えなかつたからである(「鳥の名と昔話」『野鳥雑記』に所収)。
 メジロやマヒワなどの小鳥を飼ったりヒヨドリを捕ったりする一方、教えてもらった鳥の声を実際に野に出て、場所を変えて何べんも聞き比べずには済まない少年柳田の姿が浮かんでくる。
 『野草雑記』の「記念の言葉」のなかで柳田は「小鳥の嫌ひな少年もあるまいが、私は其中でも出色であつた。川口君の『飛騨の鳥』、『続飛騨の鳥』を出版して、それを外国に持つて行つて毎日読み、人にも読ませたのは寂しい為ばかりではなかつた。少なくとも私の鳥好きは持続して居る」と述べている。
 このような関心の持ち方が後年、野鳥の会への支援、そして自らも『野鳥雑記』を書くにいたるなど、生涯にわたって野鳥に興味を持ちつづけることになったとみられる。柳田国男研究会による『柳田国男伝』(三一書房1988年)の別冊年譜によると、昭和30年4月20日、81歳の柳田は自宅で野鳥の会を催している。いったいどのような会だったのだろうか。
 柳田は『遠野物語』の序文でさきにあげたほかにも、さらに2ヶ所で鳥を登場させている。それは最後のほうに出てくる。
今の事業多き時代に生まれながら問題の大小をも弁へず、其力を用ゐる所当を失へりと言ふ人あらば如何。明神の山の木兎の如くあまりに其耳を尖らしあまりに其眼を丸くし過ぎたりと責むる人あらば如何。はて是非も無し。此責任のみは自分が負はねばならぬなり。
  おきなさび飛ばず鳴かざるをちかたの森のふくろふ笑ふらんかも
 国をあげて近代化の時代に『遠野物語』を著わし、あえて古いもの、隠されてあるもの、消えようとしているものに眼を注ごうとする柳田の姿勢が現れている。その2ページほどの短い序文の中には3回鳥が登場する。そのうちの2回は比喩として使っているにしても、柳田の野鳥への関心の強さがここにも現れているといえるのではないだろうか。

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