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ケガレの起源と銅鐸の意味 岩戸神話の読み方と被差別民の起源 餅なし正月の意味と起源

ケガレの起源は射日・招日神話由来の余った危険な太陽であり、それを象徴するのが銅鐸です。銅鐸はアマテラスに置換わりました。

「朝日俳壇」の鳥―2000年

2007年09月22日 19時23分52秒 | いろんな疑問について考える
「朝日俳壇」の鳥―2000年

 わたしは「多摩の鳥」97年3月号で、95年11月から1年間、朝日新聞の「朝日俳壇」をフィールドにみたて、俳句の中の野鳥を追うこころみをした。今回はその時との比較をまじえながら、2000年の同俳壇の鳥を紹介していこう。
 鳥関連の句は全2165句中で123句、5.7パーセント。実は前回は93句で、こんどはかなり多かった。でも偶然にも野鳥が登場する句は81句で前回と同じ。ただし、1句中にトビとヒバリの2種出てくる句があるので、件数では82件。あとの42句はニワトリ、アヒルなどの飼鳥や鳥、小鳥、さえずりなどの鳥に関係したことばを含んだ俳句だった。
 この1年間に登場し、和名が特定できる野鳥は全部で18種。これは前回よりも4種類おおい。出現回数の多い順から紹介するとツバメ18回、ウグイス7回、ヒバリ6回、スズメ6回、カッコウ4回、モズ2回、カルガモ2回、そしてカイツブリ、トキ、トビ、ヤマドリ、キジ、ホトトギス、アオバズク、フクロウ、ヒヨドリ、ミソサザイ、メジロが各1回。前回も1位はツバメの11回だった。最近はずいぶん減ったツバメだが、季節感の強さ、身近な鳥としての存在は不動だったというべきか。
 また和名が特定できなかったり、通称で呼ばれているものはカラス6回、カモ5回、ツル5回、サギ2回、ハクチョウ2回、そしてカリ、チドリ、カモメ、ハト、ミミズク、セキレイが各1回。
 ではその中からわたしが勝手に選んだ、つまり気に入った、あるいは気になった作品をいくつか紹介しよう。

 また山へ帰る小さき三十三才       (群馬県)酒井せつ子

どうということはないのだが、ミソサザイを取り上げてくれたのがうれしい。

蒲公英を踏んで啄む雀たち        (館山市)野村石風子

選者川崎展宏氏の評には「短い茎の、地面からすぐ咲いたようなタンポポだろう。ふまえた雀の足まで見えて来る」となっているが、花を啄んでいるというのはどうか。タンポポは花が終るといったん地上にたおれて、種ができるとまた茎が立ち上がるから、その未熟かもしれない種を食べているか、それとも冠毛をまり状にのせて立っていた茎を踏み倒し
て、食べているのではないか。いかがでしょう。

さらにその上に鳶の輪揚雲雀        (中野市)佐藤雪音

1句中に鳥が2種類出てくるというのはなかなかないので、単純にうれしい。拙句「初霜や男体白根皇海山」というのをつくったことがある。
並べりゃいいってもんじゃないでしょうが。
 
山深き夏うぐゐすの対馬かな        (長崎県)野田隆也

ウグイスのいる山なんてどこにでもあるが、それが対馬だというところ
がいい。地名俳句のいいところ。

 軽鳧の子の一寸ほどの背伸びかな      (福岡市)黒田純子

カルガモの子がときどき周囲を見渡している。親のありかが気になるの
か。
 
  浮巣守る鳰の頭のよく動く         (徳島市)大塚郁子

いわれてみるとそんな気もする。カイツブリの親。

鵙の贄ちよつと触つて登校す       (武蔵野市)水野李村

あれは触ってみたいんです。子どもの動き、好奇心。

雀らも喜びさうな案山子でき        (東京都)大和 勲

もとより効果は期待してない。

冷まじや鴉騒げる真夜の地震       (名古屋市)富山貴政

「冷まじ」は秋深まるころの寒さだそうです。ここには目に見えるものはなにもない。真夜中のカラスもその声も、冷まじも地震も。思えば一層スサマジイ。想像してもあたり真っ暗。

『山家集』の鳥の歌

2007年09月22日 19時20分05秒 | いろんな疑問について考える
『山家集』の鳥の歌

はじめに
 西行の鳥の歌といえば、「鴫立つ沢の秋の夕暮れ」という有名な歌がうかぶ。最近、山家集をよむ機会があって、鳥にかぎらず、多くの種類の動植物が詠み込まれていることに、あらためて気づいた。そこで鳥について概観しながら、山家集の自然の中を探鳥してみよう。
 使った本は岩波文庫の『新訂山家集』佐佐木信綱校訂による。そのほか、岩波古典文学大系本、新潮社版の新潮日本古典集成本を参考にした。もとより註釈なしではほとんど意味がわからないという心もとなさで、思わぬ見当ちがいがあるかもしれない。

鳥の種類は
 鳥好き、探鳥好きの性として、気になるのは、どんな鳥がどれだけ現われるかということになる。結果からいうと、和名が特定できたのがつぎの18種類であった。
 カイツブリ(鳰)、オシドリ、ミサゴ、ウズラ、キジ、ヒクイナ(水鶏)、カッコウ(呼子鳥)、ホトトギス、フクロウ、アカショウビン(水こひ鳥)、ヒバリ、ツバメ、トラツグミ(ぬえ)、ウグイス、ウソ、スズメ、カササギ、ニワトリ。
 カササギは野鳥としてではなく、古代中国の七夕伝説としてあらわれる。
 つぎに和名は特定できなかったが、一般的にある種の鳥をしめしているものが11種類あった。
 ウ、サギ、ツル、カリ、カモ(あぢ)、タカ(はし鷹、すたか)、チドリ、シギ、ハト(山鳩)、ヒワ、カラス。
 こがらというのも出てくるのだが、スズメのことらしい。それに宿かし鳥という名前も1首出てくるがこれはなんだろう。
 あわせて30種ほどの鳥が登場する。この数が多いか少ないかはほかの古典や同時代の史料などを調べていないのでわからない。ただ、川口爽郎の『万葉集の鳥』によると万葉集では全体で43種、風土記で27種、古事記で24種、日本書紀で33種となっている。これらの古典はいずれも特定の個人によるものではないので、山家集で西行個人がこれだけ詠いこんでいるというのはかなりなものといえるのではないか。
 中西悟堂は山家集には野鳥が37種ありとしているが、その内訳は書いてない(『定本野鳥記』5巻13ページ)。何を原典としたのか、筆者の分け方とどうちがうのかわからない。はし鷹、すたか、山ばと、こがらなどをひとつとしても、37種まではならない。
 不思議なのはヒヨドリ、ムクドリがまったく登場しないということ。川口爽郎によると万葉集、記紀、風土記にもこの2種は出てこない。いったいどういうことなのだろう。身近すぎて歌の材料として陳腐なのだろうか。それとももしや、いなかった?
 山家集の歌の中で鳥は全部で207回出てくる。このなかには、たんに「とり」として、註釈によるとニワトリのこととあるのが、2首、ニワトリ1首、直接タカはでないが、鷹狩を詠んだものが1首、「鳥」が1首、それと寂然法師の西行の歌への返歌のなかで、「ひた」として、畑から鳥をはらう引板、つまり鳴子を詠みこんだ歌がある。「わしの山」というのがいくつか出てくるが註釈によると、これは釈迦が説法をしたという霊鷲山(りょうじゅせん)という山のことであった。残念だがワシは入らなかった。
 もっとも多く詠われているのはホトトギスで、83首におよび、鳥の歌の4割に達する。この中には西行以外が詠んだものとして待賢門院の女房堀川の局の作が1首ある。つぎがウグイスの33首、カリ(雁)の17首、チドリの12首の順になる。この4種は春のウグイス、夏のホトトギス、秋のカリ、冬のチドリということで、四季の各季節を代表している。ほかの鳥とはやや別格のあつかいといってもいいかもしれない。花鳥風月を詠む歌の伝統では定番だから、多くの歌人がさかんに詠んでいる。鳥好き西行ということで、この4種をどう詠んだか興味深いところだが、それは別の機会にまわして、ここではむしろ鳥全体とその自然環境に注目していきたい。
 
鳥と自然環境
 素人が歌の解釈にふみこむと誤読、誤釈するのがおちなので、ここでは鳥と自然環境にしぼって話をすすめる。
 歌のなかで鳥はどんな環境にいるのか。鳥をふくむ歌に現われた自然環境を表わすことばをまず列挙してみる。
 山、山里、丘、谷、川、山田、田、畑、草原、野辺、雪原、池、湖、沢(沼沢地)、ふけ(湿地、沼地、深田)、河口、干潟、海岸、磯、洲、浦、海。
 いろいろな環境で詠まれている。日本の自然環境はほとんど出尽くしているのではないか。旅人西行はかなりの自然観察者であったといえる。山家集とはいうが水辺の環境が多いのに気づく。かつての日本が水辺環境の多かったことを示しているのかもしれない。日本を旅すれば、必ず行く手には山がある。山からは川が流れでている。川に行き当たれば舟で渡る。川は海近くでは湿地となる。広い沼沢地はさけて迂回するか舟を利用する。したがって舟を詠みこんだ歌も多い。歩く以外になかった時代、舟の利便性は大きかったことだろう。
 では、それぞれの環境のなかで実際にどんな鳥が歌われているかをつぎにあげていく。カタカナは和名が特定できたもの。

【山】かり、山ばと、ホトトギス、フクロウ、ウグイス、宿かし鳥。
【山里】呼子鳥(カッコウ)、ホトトギス、水こひ鳥(アカショウビン)ウグイス。
【丘】キジ。
【谷】ウグイス。
【川】ウ、オシドリ、ちどり。
【山田】ホトトギス。
【田】かり、ウズラ。
【畑】はと。
【草原】たか、ウズラ、キジ、ヒバリ。
【野辺】ウグイス
【雪原】たか、キジ。
【池】オシドリ。
【湖】にお(カイツブリ)、あぢ、ホトトギス。
【沢】つる、ちどり、しぎ。
【ふけ】ちどり。
【河口】ちどり。
【干潟】ちどり。
【海岸】かり、たか、ちどり。
【磯】ミサゴ、ちどり。
【洲】さぎ。
【浦】ちどり。
【海】かり、あぢ

 ついでに、木に止まっている鳥もあげておこう。
さぎ―松、 ミサゴ―松、 ホトトギス―橘、卯の花、松、杉、
ウグイス―梅、桜、松、竹、 こがら(スズメらしい)―椎、 
ひわ―柳、 ウソ―桃、 スズメ―竹。
 今回はここで時間切れ。次回はそれぞれの鳥をふくむ歌について、鳥の様子やその環境など気づいたことを述べることにしよう。

卯の花垣はどこにある

2007年09月20日 15時10分00秒 | いろんな疑問について考える
卯の花垣はどこにある

きむらしげお
夏は来ぬ
♪うの花のにおう垣根に、時鳥早もきなきて、忍音もらす 夏は来ぬ。

 だれでも知っている「夏は来ぬ」。なつかしい小学唱歌だし、鳥好きならホトトギスが渡ってくる頃になると、かならず思い出される歌だろう。そんな身近な歌なのに、歌詞に出てくる卯の花垣というのをわたしはまだ見たことがない、ということに気づいた。
 そもそも卯の花垣というのは現在あるのだろうか。もしほとんど無いとしたら、昔はどうだったのか。卯の花垣はふつうの、ありふれた生け垣だったのだろうか。そしてもはや、唱歌に残るだけのニッポンの失われた風景となったのだろうか。
 というのも、筆者は以前、福生市内のほぼ全域ととなりの羽村市とあきる野市の一部について歩き回り、飼養されている野鳥の実態調査をした。その折り、ついでに生け垣を見て歩いた。しかし、卯の花の垣根というのは見たことがなかった。ついでに言えば、その期間中に見た生け垣で変ったものには、鉄のフェンスにアケビのつるをからませたものや、サネカズラの垣、クコの垣などがあった。それらのことはまた別の機会に書くとして、今は卯の花の垣根について考えてみたい。
 唱歌「夏は来ぬ」は『唱歌・童謡ものがたり』(岩波書店)によると、歌人の佐々木信綱によって作詞され、明治29年発行の『新編教育唱歌集5』に載った。佐々木は万葉学者でもあり、「夏は来ぬ」の5番までの歌詞には万葉集をはじめ栄花物語、詞花集、源氏物語などの古典の歌のなかから多くが引用されているという。たとえば卯の花は万葉集では22の歌があり、そのうち17例でホトトギスとの組合せになっており、「夏は来ぬ」が日本のなつかしい原風景を描いているように思えるのは、そのような背景によるものらしい。
 そこで、もっとほかに卯の花垣は出てこないかと思って、松田修の『植物世相史』(社会思想社)という本をひらいた。この本は日本文学の古典作品のなかに出てくる植物を紹介した本で、万葉集のほかには源氏物語や枕草子に多くの植物が出てくることがわかる。そのなかで山家集も比較的植物などの自然物が多いというので、さっそく岩波文庫の山家集を見ていくことにした。

山家集の卯の花垣
 最初から読みながら、植物、動物、昆虫、野鳥など、自然関係のことばを片っ端からひろっていった。なるほど花鳥風月だ。つぎからつぎとぞろぞろ出てくる。書き出す張り合いもあるが、やっぱり野鳥がしばらく出ないと飽きもくる。でも野鳥のことはここでは置いておく。目当ての卯の花垣は7首みつかった。

立田川きしのまがきを見渡せばゐせきの波にまがふ卯花
神垣のあたりに咲くもたよりあれやゆふかけたりとみゆる卯花
ほととぎす花橘はにほふとも身をうの花の垣根忘るな
折りならぬめぐりの垣のうの花をうれしく雪の咲かせつるかな
うの花の心地こそすれ山ざとの垣ねの柴をうづむ白雪
卯の花を垣根に植ゑてたちばなの花まつものを山ほととぎす
待つやどに来つつかたらへ杜鵑身をうのはなの垣根きらはで
 
 4番目と5番目は垣根に積もった雪が卯の花が咲いたようだ、というのだが、その垣根も卯の花の垣なのかもしれない。
 また『和歌植物表現辞典』(東京堂出版)によると「う 卯」の項として卯の花を詠みこんだ歌を古典から31首紹介しており、そのうちの16首は卯の花垣として登場する。垣根としての卯の花、卯の花といえば垣根、というくらい古典の世界では常套句となっている。だからこそ、卯の花垣という古典をふまえた季語ができるのだった。

俳句の卯の花垣
 それなら俳句のほうから見てみるとどうなのだろう。とくに新しい俳句では卯の花垣は詠われているのだろうか。いくつか歳時記の本を見たところでは、季語の中に卯の花垣ということばはあっても、その例句はたいてい古そうな句だった。新しい句では、卯の花は詠ってもその垣根というのはあまりないようだった。ごく最近の句集を見る必要がありそうだが、まだそこまではしていない。試みに朝日新聞の朝日俳壇をみると、1995年の分から今年までのなかには1句だけみつかった。せっかくだから紹介しておこう。

夜明けとも卯の花垣の明りとも  (仙台市)菱沼杜門
朝日俳壇 1996年5月20日
 
 どうもやはり卯の花垣はあまり残ってないらしい。横へ樹形がひろがりやすいので、都市では敷地にそんな余裕はないというのも影響しているだろう。神社仏閣などにはあるかもしれない。近年は生け垣そのものが減って、ブロック塀や鉄のフェンスなど、無粋になってしまったし、生け垣にしても遮蔽するためというのが優先するようになった。それにつれて生け垣の樹種もかわってきたのではないだろうか。
 そんなことを考えている時、たまたま手にした作家の宮尾登美子の随筆『わたしの四季暦」のなかに「垣」という文章があった。一部を紹介する。

垣といえば、昔の日本家屋は隣との境目や、玄関口にほんのしるしだけでもへだてを作ったもので、それがいまのようにどの家でもブロック塀や大谷石や、また厚い生け垣で囲い廻すようになったのは戦後からではなかったろうか。(略)大部分の庶民は自分の手で小さな竹垣を結い、或いは低い卯の花や連翹を植えてこれをけじめとしたものだった。(略)思い出してみれば、昔はいまのように犯罪も多発せず、道からすぐ寝室の障子へ手の届くような家もたくさんあり、いまならとても不用心だと見えても、ひとを信用しきっていた時代には格別心配する必要もなかったものであろう。
 
というわけで、ちゃんとさきに気づいているひとがいたのだった。
 正岡子規の句にこんなのをみつけた。
 
 垣ごしに菊の根わけてもらひ鳧
 垣ごしや隣へくばる小鯵鮓          
 
 なんの垣根かはわからない。生け垣かどうかもわからないが、丈の低い、向うの見とおせる「これをけじめとした」程度の垣なのだろう。ここでは垣根は人と人をへだてるものではなく、けじめを持ちつつまじわるものとして機能している。
 それにしても、卯の花垣にきまって飛んでくるのがホトトギス。ほんとにホトトギスなんだろうか。

『定本野鳥記』にみる奥多摩の鳥  (鳥の一覧表は省略)

2007年09月20日 15時07分16秒 | いろんな疑問について考える
『定本野鳥記』にみる奥多摩の鳥
1998年4月13日
はじめに
 中西悟堂がその生涯のうちに探鳥した場所、登った山、見た鳥などはいったいどれくらいになるのか。そんな興味がわいたものの、それを調べるにはたいへんな時間とエネルギーがいる。そこで、とりあえずなじみの深い奥多摩に限って調べてみることにした。

文中からひろう
 奥多摩で悟堂はいったい、いつ、どこで、なにを見たのか。『定本野鳥記』(以下『定本』)全16巻を全部見ていき、奥多摩にかんする鳥の記述をひろって、鳥種ごとに用意したカードに書いていくことにした。この場合、巻末の索引は地名や鳥の名のすべてを網羅しているわけではないのであてにならない。索引のない巻もある。
 ここで、奥多摩の範囲をどこまでにするのか、という問題がある。平野との境、奥多摩の入り口をどこにするのか。これについては、また稿をあらためて論じてみたい問題であるが、ここではとりあえず、その範囲を秋川の合流点から上流部の多摩川、秋川流域、それに八王子市内をふくむ高尾山を加えた地域とした。その範囲は地図を参照されたい。
 現在のあきる野市二宮に悟堂は疎開していたことから、多摩川、秋川合流点とその周辺での記録が多く、平野との境、丘陵部の様子がうかがわれるというのがその理由。それと高尾山も奥多摩からの尾根つづきであり、悟堂の活動を知るうえで、また、奥多摩の鳥相を明らかにするうえからも多くの資料を提供しているということから加えることにした。山の範囲については、一回の探鳥登山の連続性ということで、三峰神社から雲取山への地域、それに子ノ権現から名栗を経て棒の嶺へ至る地域をふくんでいる。
 『定本』全16巻の中には、かなり奥多摩の鳥についての記述があらわれる。しかし、その中には探鳥行の際の鳥の直接記録、いわば一次資料としての記述もあれば、のちになって回想した文章のなかにあらわれる鳥もある。同一の見聞を何度も引用している場合もある。一応、ここではそれら全部を拾い出すことにした。それによって、悟堂のある鳥や、ある地域への関心の多少や、関連の深さをうかがうことができると思ったのである。したがって第15巻、16巻の歌集、詩集についても、登場する鳥が奥多摩での見聞と確認できたものは抽出した。
 さらに岡董高、木津柳芽、小杉一雄、鈴木孝夫、津戸英守、富田治三郎(鎌仙人)、牧野吉晴、森田秋峰子の各氏から悟堂が得た情報のうち、奥多摩にかんするものはひろいだした。それらをふくめて、結果は別表の通りとなった。
 なお、記録のほとんどは昭和10年代、20年代のもので、後年書かれた文章には年代の特定ができないものも多いが、そのほとんどは内容から推察して昭和10~20年代の回想、引用と思われる。

意外に少ない94種
 その結果は36科102種となり、悟堂自身の記録では94種であった。以外に少ない数である。件数の737件にはのちの引用、回想などかなりの重複がみられる。
少なかった理由としては、繁殖期の探鳥記録ばかりで、冬鳥をほとんど含んでいないということ。地域的にも高尾山や御岳山の記録が多く、そのほかには雲取山、三頭山など紀行文を残しているのは数ヶ所しかないということ。山麓部についても、疎開していた二宮に近い多摩川秋川合流点など、ごく限られた場所の断片的な記録しか残していなかった。そのため、その文章中に現われない限り、たとえカイツブリやコサギなどの普通種であってももれてしまった。
 件数の多いのはヤブサメ、センダイムシクイ、ヒガラ、ウグイス、ヤマガラなどであるが、ブッポウソウ、コノハズク、アカショウビンなどが、当時話題となったこと、あるいは悟堂の関心事などを反映して件数が多くなっている。
 また、鳥の数などの実態についての情報も得られなかった。何種類かの鳥について、その数の多さを文章中の記載から推定できる程度である。たとえば、昭和22年2月末のこと、ヤマドリについて、「南多摩川口村と西多摩増戸村の分水嶺とあるきつづけているうちには、何羽ものヤマドリにも出逢ったし…」(5巻254ページ)との記述がみられる。
 現在ではまったく減ってしまったウズラについては、あきる野市二宮付近の秋川でのこと、「上流かけての河原の枯草の根にひそむおびただしいウズラ」(8巻137ページ)となっている。わたしはまだ、この報告の奥多摩の範囲でウズラを見たことがない。
 同じページで、「渡去を控えたサンショウクイの何百羽のヒリヒリン、ヒリヒリンの声が丘じゅうをお祭の鈴にしたが」と、いまではとても想像できない情景を描いている。
 しかし、悟堂自身が奥多摩の鳥について綜合的にまとめたものがないので、必ずしも満足のいく結果は出なかった。実際の「悟堂の見た奥多摩の鳥相」からはかなり不足する内容となったと思う。ここではあくまでも、「『定本野鳥記』による奥多摩の鳥の把握」としておこう。
 
現在との比較
 1991年3月から現在までの7年間、この報告での奥多摩の範囲内で、わたしの記録した鳥は154種となっている。この地域の全体的な鳥相をまとめた報告は今のところないようなので、手近なところで自分の記録との比較を試みてみよう。とはいっても、歩ける範囲はあまり広くない。ほとんどは、あきる野市側の多摩川の、睦橋周辺から秋川合流点付近までの間と、羽村市、あきる野市の境の草花丘陵、それに奥多摩の鷹ノ巣山周辺の3地域に限られる。
 まず別表にまとめた悟堂以外の記録もふくむ昭和10~20年代の記録にあって、現在のわたしの記録にない種をあげてみると16種類になる。
 ハチクマ、オジロワシ、サシバ、クマタカ、イヌワシ、ウズラ、ヒメクイナ、タマシギ、ダイゼン、キョウジョシギ、オオソリハシシギ、ホウロクシギ、コミミズク、オオコノハズク、ブッポウソウ、サンショウクイ
 なかには、最近見たとの情報を得ている種もあるが、いずれにしても今ではまれにしか見られない鳥となった。大型の猛禽類と、水辺、湿地に棲む鳥、大木や平地の森林を必要とする鳥たちで、おもに開発のおよびやすい環境に棲息する種類である。
 反対にわたしの記録にあって、別表にないものは以下の64種類である。
 カイツブリ、カワウ、ササゴイ、アマサギ、ダイサギ、チュウサギ、コサギ、アオサギ、マガモ、コガモ、ヨシガモ、オカヨシガモ、ヒドリガモ、オナガガモ、ハシビロガモ、ホシハジロ、キンクロハジロ、ホオジロガモ、ミコアイサ、オオタカ、ツミ、ノスリ、ハヤブサ、チョウゲンボウ、クイナ、ヒクイナ、バン、オオバン、ケリ、タゲリ、ハマシギ、クサシギ、タカブシギ、キアシシギ、ソリハシシギ、タシギ、ツバメチドリ、アリスイ、オオアカゲラ、ショウドウツバメ、タヒバリ、キレンジャク、ヒレンジャク、イワヒバリ、カヤクグリ、ノゴマ、ジョウビタキ、マミジロ、シロハラ、ツグミ、コヨシキリ、オオヨシキリ、サメビタキ、エゾビタキ、ツリスガラ、ホオアカ、ミヤマホオジロ、オオジュリン、マヒワ、オオマシコ、ベニマシコ、コイカル、シメ、オナガ
 この中にはさきにも述べたように、悟堂が原稿にしなかったために記録に残らなかったと考えられる、ごくふつうの鳥が多くふくまれる。だから、『定本』の記録に、現在見られるふつうの鳥を加えれば、当時の全体の鳥相がほぼ明らかになるはずである。しかし、どの鳥までをふつうとして、何をめずらしいとするかははっきりとはわけられない。それに鳥種によっては現在ではごく平凡な種であっても、かえって当時にあっては珍しかったという場合もある。たとえば、カイツブリ、カワウ、オナガガモ、ユリカモメなどである。
 カイツブリは津戸英守氏の写真集『多摩川の鳥』によると、「昔多摩川の中流上流に、カイツブリはほとんど生息していなかった」となっている。
 カワウは近年になって多摩川の上流部まで飛来するようになった。わたしの知るところでは1989年に秋川に姿をあらわし始めている(読売新聞90年7月6日夕刊)。
 オナガガモは、同じく津戸氏の『多摩川の鳥』によると、「特に多摩川では69年頃から急激に増加し」たとなっており、ユリカモメは「69年以前は特別の場合(台風で東京湾が荒れた日)以外ほとんど見られなかった」としている。
 そこで、参考のためにほぼ隣接する地域である、当時の武蔵野の鳥を加えてみる。これには、『定本』第8巻85ページからの「狭義武蔵野の鳥」として悟堂がまとめた記録を使う。「狭義武蔵野」の地理的な範囲は文中によると「中央線の武蔵野町を中心とする標高60~50メートル台地のみを範囲としたもので、北は大泉風致地区、練馬、保谷、久留米、田無、石神井から玉川上水流域、井之頭、深大寺へかけて」となっている。
 悟堂のほかに数名からの資料を合わせたもので、35科132種および亜種が記録されている。この資料が集められたのは昭和5年から19年であり、ほぼ奥多摩のものと同時期とみていい。この132種および亜種のうちから亜種をのぞくと127種になる。
 この127種にはでていなくて、奥多摩では記録されている種類をたしてみれば、この報告で範囲としている地域の、昭和10~20年代の奥多摩の鳥相がかなり現われてくると思う。
 ミサゴ、ハチクマ、オジロワシ、クマタカ、イヌワシ、ヤマドリ、ヒメクイナ、タマシギ、イカルチドリ、ダイゼン、キョウジョシギ、オオソリハシシギ、ホウロクシギ、チュウシャクシギ、ユリカモメ、ハリオアマツバメ、ヤマセミ、ブッポウソウ、カワガラス、コマドリ、コルリ、クロツグミ、ヤブサメ、コガラ、キバシリ、ホシガラスの計26種で、「狭義武蔵野の鳥」127種との合計で153種類となる。これにあと、おもに冬鳥を数種類加える必要があるから、結局160種前後が当時の鳥の種類数であり、現在とあまり変わっていないかのようにみえる。
 しかし、現在ではワシタカ類やアカショウビン、ブッポウソウ、サンショウクイ、サンコウチョウなどの夏鳥を見るのはむずかしい。さらに問題なのは個体数である。全体に相当減っているであろうし、種類によっては著しく減っている。しかし、鳥の数を具体的に示す資料は得られなかった。

登場する奥多摩の地名
 なお、『定本』に現われる奥多摩の鳥は、奥多摩のどこで記録されたのか。ひろい出した地名資料を五十音順に、登場件数とともに列挙する。これにはかなり限定した地域を示す場合と、ある程度広い地域を包括的に現わしている場合とがある。また、合計761件で鳥の件数737件に対しておなじではない。それというのも、1件の鳥の記述について、複数の地名をあげて述べているところなどがあるためである。

赤井沢(檜原村)7 愛宕山(氷川)8 秋川9 秋多町2 五日市7 臼杵山1 青梅市内6 大久野2 大岳山9 小川谷3 奥多摩26 数馬~西原峠29 加住丘陵4 蟹返沢(加住丘陵)6 神戸~大沢(檜原村)7 岫沢(小河内)2 雲取山29 軍道2 鞘口峠1 白岩山(前白岩~)14 浅間嶺49 高尾山246 滝山(高月)2 多摩川秋川合流点40 友田1 七ツ石山~鴨沢10 西多摩地方1 日原1 二宮15 鋸尾根16 八王子6 氷川~日原31 日の出山5 檜原村2 福生13 棒ノ嶺(子ノ権現~)24 払沢の滝1 盆堀川9 槙寄山1 増戸村1 御岳山56 三ツドッケ2 三峰山19 三頭山29 横スズ尾根6 六枚屏風付近1

 もっとも多く出てくるのが高尾山で246件、ついで、御岳山の56件、この2ヶ所で4割に達する。これに雲取山周辺と、 三頭山、浅間嶺周辺、多摩川秋川合流点とその周辺などいくつかの地域だけで大半になってしまう。
 惜しまれるのは悟堂の歩いた多くの山旅のうち、かなりのものは原稿にされなかったらしいということである(『定本』第12巻121ページ)。そのなかには奥多摩の探鳥行もまだいくつかあったであろう。疎開地である二宮周辺の記録もおそらくかなりの量が遺されているのではないだろうか。

おわりに
 奥多摩の鳥に関する資料として、『定本野鳥記』を読んでみる。そして、中西悟堂がさかんに歩いていたころの奥多摩の鳥相の再現を試みる。このような目的で進めてきたが、やはり『定本』だけでは充分なものにはならなかった。少ない資料から、ある地域の過去の時代の鳥相を再現するのはもともと不可能である。
 そうはいっても、感謝すべきは、わたしたちの地域に悟堂は過去の鳥の資料を残してくれたということである。わたしたちは悟堂の行動の跡を求めるのではなく、悟堂が奥多摩をはじめ、日本の山野に求めたものを求める気持ちが大切ではないだろうか。


「野鳥俳句運動」のころ -中西悟堂と水原秋桜子-

2007年09月19日 10時12分16秒 | いろんな疑問について考える



-中西悟堂と水原秋桜子-
                      1997年12月記

 中西悟堂の『定本野鳥記』全16巻を買ったのは数年前だった。でもそれきり、一部ひろい読みする程度で、棚におさまったままになっていた。野鳥全般のことだけでなく、なじみの多い多摩地域の鳥のことまでかなり出てくるので、利用する気になれば、いろんな読みようがありそうなものだが、ただ読むにはおっくうな気がしていた。
 ところが、最近になって野鳥の俳句に興味を持ちはじめて、たまたま『定本野鳥記』3巻を見ていたら、「柳芽」という人の俳句がよく登場している。なにしろ、俳人のなまえもろくに知らないから、「りゅうが」なるものがなにものかわからない。巻末の索引を見ると14か所もあがっている。そのページをつぎつぎに開いていくと、たとえば、

たひばりや田の凍ゆるぶ音の中                     柳芽

などとタヒバリのいる環境がたくみに読みこまれている。
 そして悟堂とよく鳥を見にでかけているのだった。高尾山や五日市の奥、それに声の仏法僧で有名な鳳来寺山などへも同行している。
 第3巻の悟堂の「あとがき」には「峠越え二里半の八王子には、水原秋桜子さんと、木津柳芽君がいた」となっている。つづいて、「『馬酔木』では折から野鳥俳句が起こりつつあり」などと、なにやら気になる表現も見られる。「馬酔木」は水原秋桜子が主宰しており、木津柳芽は「馬酔木」の同人だったのだ。
 そこで手元にある秋桜子編の『新編歳時記』を見る。「柳芽」の俳号が出てくるたびに記載ページを控えていくと、つぎつぎにあがってくる。あまり多いので途中でやめてしまった。ほかの俳人の例句の数と比較はしていないが、例句に最も多くあがっているうちのひとりであろう。これまで何回もこの歳時記を開いてきたのに気づかなかったのが不思議なくらいだ。
 しかし、いま気になるのは悟堂あとがきの「『馬酔木』では折から野鳥俳句が起こりつつあり」というくだりだった。木津柳芽の鳥の俳句もその動きの中にあるらしい。秋桜子と悟堂の間に野鳥を巡ってどんな交遊があったのか、そのへんをさぐってみるとおもしろそうな気がしてきた。

 そこで今度は『定本野鳥記』(以下「定本」)の索引から秋桜子の出てくるページをあたっていく。巻によっては索引がなく、その場合は目次から関係がありそうな内容をさがして開いてみる。索引があっても完全ではなく、もれている場合やページのまちがいがよくあることに気がついた。
 ひととおり「定本」から秋桜子関係をぬきだしてみると、昭和11年の出会いから戦後間もないころまでの間に交渉が多いことがわかった。ここではおもにその間の両者の交友を中心に追ってみる。
 悟堂と秋桜子のはじめての出会いは日付までは特定できなかったが、昭和11年の1月か2月のはじめ、場所は山谷春潮邸である。
 山谷春潮は日本野鳥の会の会員であり「馬酔木」の客員でもあった。日新医学社という会社の社長であり、また日新書院という出版社もやっている。この出版社から悟堂や仁部富之助など、野鳥や自然関係の本が出版されている。自らも『野鳥歳時記』という本を書いており、その本のあとがきによると「昭和10年頃から中西悟堂先生に師事し」て野鳥観察を始めているが、悟堂と知り合ったきっかけについてはふれていない。春潮邸は当時、杉並区善福寺風致地区をへだてて悟堂の家とも近く、家族ぐるみのつきあいであったようだ。俳句のほうはそれよりひと足早く、昭和8年ころから秋桜子の指導を受けているという。
 「定本」第12巻によると、「私の鳥の話をきき、又拙宅へも来られた水原さんは率然としてそれまでの歳時記の誤りをただそうとして野鳥の勉強を始めた。その勉強というのが私の山行に、『馬酔木』の諸君とともについて歩くことであった」となっている。柳芽もそのひとりに入っている。
 つづいて、同じ11年の2月に秋桜子ははじめて悟堂邸を訪問している。この時の様子については秋桜子が「鷹と葭五位」と題して随筆を書いている。その文中、冒頭近くで「庭にはあの大雪がまだ一面に積っていた」となっており、「あの大雪」というからには二・二六事件の前夜の雪のことかと最初は思っていた。そうすると悟堂邸を訪問したのは事件直後、遅くとも3月のはじめということになる。随筆の中で事件についてはまったくふれていない。そこで当時の「野鳥」誌(復刻版による)の記事に秋桜子に関係したものはないかと見ると、3月号に秋桜子の俳句が載っていた。悟堂邸訪問を材にとり、悟堂が飼育しているチョウゲンボウを詠んだ5句である。

  稚き鷹雪凍る夜を逸るらし                      
稚鷹の長元坊の名ぞ愛し                      
  大空に鳴る風のごと鷹鳴けり                      
  鷹鳴けり哀しき声を持てるかも                      
  鷹鳴けり庭は深雪の薄月夜                      

  しかし、3月号といえば月のはじめには発行されているはず。遅くとも中旬には発行されているであろう。そうすると2月の末か、3月のはじめの訪問では間に合うはずがない。それならば、もっと早くに一度大雪が降ったことになる。当時の気象記録か新聞にでもあたらないとそれはわからないだろうと思っていたら、同じ3月号の「書信函」という会員からの野鳥情報を紹介する欄にそれのわかる記事があった。
 「平岩康煕氏より」として、「東京は大雪でお困りのことと存じます……」という文面ではじまっている。発信地は神奈川県高座郡綾瀬村早川で2月12日の日付。
 平岩康煕は3月号から5月号まで「野鳥巡歴」と題する観察記録を載せている。「新執筆家の横顔」の欄に紹介があり、それによると日本画家、図案家らしい。日新書院から昭和18年に刊行された川口孫治郎の『自然暦』に「装釘 平岩康煕」と出ている。また、山谷春潮の『野鳥歳時記』の鳥の図版も描いている。
 これで、秋桜子が悟堂邸をはじめて訪問したのは2月10日前後であることがわかった。
 ところで、悟堂と出会う以前、秋桜子の野鳥への関心はどの程度だったのか、少し遡ってみよう。
 角川書店発行の『現代俳句大系』によって見る。その第1巻の巻頭に昭和5年に刊行された秋桜子の第一句集『葛飾』が載っている。数えてみると全 542句中、鳥に関係あるのは77句だった。種類をあげると、カイツブリ、ウ、ゴイサギ、ツル、オシドリ、カリ、タカ、ミサゴ、ライチョウ、バン、チドリ、ユリカモメ、ホトトギス、フクロウ、キツツキ、ヒバリ、ツバメ、セキレイ、モズ、ヒタキ、ウグイス、ヨシキリ、ムクドリ、カラス、アヒル、ニワトリとなっており、和名を特定できないものもあるが、全部で24種の野鳥と2種の家禽となっている。そのほか、直接野鳥は出てこないが、「囀り」「鵜匠」「渡り鳥」「囮」「鳥威し」など鳥をめぐる言葉が出てくるものを含めて77句である。率にして14パーセントになる。この数字は多いのか少ないのか。参考までに同じ第1巻に収録されているほかの俳人の句集から鳥を詠んだ句を数えてみる。
 『現代俳句大系』の第1巻には全部で16人の句集が収録されている。発行順に並んでおり、『葛飾』に続いて最も発行年の近い6集だけ選んでみた。
           発行年 鳥の句数 野鳥の種類 全句数 %
 水原秋桜子『葛飾』 昭和5年  77    24     542  14.2
 増田龍雨『龍雨句集』  5年  21    10     408   5.1
 五十嵐播水『播水句集』 6年  14     7     459   3.0
 阿波野青畝『万両』   6年  37    18     476   7.7
 日野草城『青芝』    7年  16     6     563   2.8
 山口誓子『凍港』    7年  12     6     297   4.0
 吉岡禅寺洞『銀漢』   7年  30     7     309   9.7

 比率は全句数に対する鳥の句の割合。一見して、秋桜子の野鳥への関心の高さがうかがわれる。吉岡禅寺洞の 9.7パーセントの中身は単に「小鳥」「春の鳥」などであったり、またスズメを詠んだ句が8句あって、特に野鳥への関心が高いとは思えない。やや関心が高いといえば、阿波野青畝だろう。種類、句数ともに秋桜子についで多い。なかには、「緋連雀一斉に立つてもれもなし」などもある。ヒレンジャクは秋桜子の『葛飾』にも出てこない。 秋桜子は後年、『魚鳥の句作法』(昭和26年刊)という本のなかで「私など初学の頃いく度この葭切を聞きに出かけたか知れない。東京なら多摩川か隅田川の放水路にゆけばいつでも聞くことができる」と述べている。句集『葛飾』ではヨシキリの句は9句あり、鳥の句ではもっとも多い。
 つまり、秋桜子は悟堂との出会い以前から、すでに野鳥に少なからぬ関心があったとみられる。「悟堂」の名は作家としても自然観察家としても当時すでに知られており、昭和9年の野鳥の会創立とその後の動きも秋桜子の視野に入っていたかもしれない。そして山谷春潮が間にいた。
 当時の俳壇の様子を秋桜子はのちに「杜鵑・木兎考」の中で、「昭和のはじめまでは、俳句作者で、時鳥の声を聞き知っている人は非常に少なかったものです。……山だの高原だのへ出ていって、自然をよく観察することをせず、句会の席上で題詠ばかりしていたからであります」と、ふりかえっている。そして「これではだめだというので、四、五人の友達と共に、中西悟堂さんについて、野鳥の勉強をすることになりました。これがかなり大きな効果をあげまして、現代の野鳥の句は、昔のものとは比較にならぬ程正確で、詠まれる鳥の数も多くなった次第です」としている。
 では、実際に悟堂とともにはじめて野鳥を見に出かけたのはいつのことか。はっきりしているところでは、「定本」11巻によると昭和12年5月28日、明治神宮内苑へ行っている。しかし、これでは出会いから1年あまりも経っている。この間にも何かあっていいと思うが、それを示す資料がみつからない。 ただし、野鳥の会の会誌『野鳥』にはこの間に3回登場している。そのうち2回は「第七回野鳥座談会」と称する会合の出席者として出てくる。この記事は昭和11年の11月号と12月号に分載されており、出席者は内田清之助、木暮理太郎、清棲幸保、柳田国男など11人。しかし、秋桜子はほとんど聞き役でサギについて短い発言がわずかに3回あるだけだった。もう1回は昭和12年2月号に「野鳥と俳句」という随筆が載っている。                                       
 さて、明治神宮内苑での集まりというのは「定本」によると、「これは、水原秋桜子氏以下、『馬酔木』の俳人20名に請われて、松山資郎氏の斡旋で行ったもので、山谷春潮氏もいたから、たぶん、山谷氏の企画であったろう」となっている。そして「これが『馬酔木』同人の中に、水原氏が野鳥俳句を植えつける動機ともなった」としている。
 野鳥の会の会誌『野鳥』によれば、その後は昭和12年12月28日、秋桜子は悟堂を訪問し、「ある用事で見えてそのついでに」句集『岩礁』を持参している。「ある用事」とはなにか、不明。
 以下、しばらく野鳥の会の会誌『野鳥』から秋桜子に関するところをひろう。
 昭和13年9月号には「裏磐梯の鳥」と題する随筆を寄せている。これは俳句中間4人で悟堂は同行していない。
 昭和14年9月号には「夏山の鳥」として、5句。
 昭和16年8月号では「浅間高原」と題して52句。巻頭に7ページに渡って掲載されており、鳥の句を主にしている。この浅間高原行については「定本」のなかでも何か所かで登場しており、また秋桜子も随筆を発表していて、印象深い吟行であったことがうかがえる。
 「定本」第4巻の「八風山・南軽井沢高原」によると、この探鳥行は同年6月で、一行は画家4人、俳人4人、それに悟堂。俳人は秋桜子、春潮、新井石毛で、もう一人が不明。画家は津田青楓夫妻、林春樹、久原悠紀子で、歌人松村英一も加わっている。ほかに土地の有志数名となっているが、ひとりは軽井沢の星野温泉主人、星野嘉助である。
 秋桜子は後に「探鳥入門」と題して、この日の様子を書いている。探鳥を終えて、悟堂と春潮がそれぞれ自分の手帳を取り出して出現した鳥の種類を合せており、「二人共三十四、五種と言っているのに私の計算では二十種である。どこで十以上のひらきができたのか。私は一方ならぬ興味の湧きあがるのを感じた」という。それでも俳句のほうは自分の確認した全部の鳥を詠みこんでいて、「浅間高原」と題して50句中に38句の鳥の句を入れている。夏鳥を中心に21種類の鳥が登場する。特に多いのがホトトギスの8句で続いてカッコウ4句、ツツドリ、ジュウイチがそれぞれ3句となり、以下、コリルやコヨシキリ、ヨタカなども出てくる。
 昭和17年3月号には「野鳥四季屏風」と題して9句。「自作の俳句の解説を絵のように書く。読んで下さる方は、その一つ一つを屏風に貼りまぜたつもりで、鳥の姿を考えつつ見ていただきたいのである」として、それぞれの句の作った場所や情景を解説する。
 昭和17年6月号では、悟堂は、秋桜子最近の刊行になる句集『古鏡』を8ページに渡って紹介している。悟堂によると、この句集には鳥の句が 120句入っており、全体の4分の1を占め、36種類の鳥を詠みこんでいるという。悟堂が秋桜子の句集を開いて、鳥を探してはいそいそと抜き出して、うれしがっているところを想像すると思わずおかしくなってしまう。
 余談ではあるが、この時の悟堂の文章「俳句の鳥鑑賞」はのちの「定本」収録時には一部削除されている。それは鳥猟についてのところで、鳥屋場の情景を詠んだ3句のあとに、「……かうしてまた尾根の萱の中を次の鳥屋場へと向ふ秋のたのしい一日である」という文になっている。50余年昔のことで、鳥と人の関係の違いを考えさせられる。
 秋桜子の第6句集となる『古鏡』は『現代俳句集成』第8巻(河出書房新社、昭和58年刊)に収録されている。それによってみると、昭和15年以後の近作をまとめており「浅間高原」などの探鳥行の成果も入っている。中拓夫の解説によると、秋桜子は「中西悟堂に勧められて野鳥俳句を詠むようになった。昭和10年頃から探鳥の吟行会がしばしば行われ、八風山、赤城山、高尾山などをめぐり歩き、次の句集『磐梯』と共に野鳥俳句の先駆をなすといわれ、彼の生涯の中の一つの記念となるものである」として、この時期の秋桜子の俳句に野鳥を詠んだものが顕著であることを明らかにしている。
 『野鳥』誌昭和17年9月号には秋桜子は「赤城山雑詠」「赤城にて」と題して句と紀行文を寄せる。これは同年6月27~28日に行われた赤城山探鳥で、悟堂注記によると、絵の春陽会と俳句の馬酔木の合同探鳥であった。画家側は小杉放庵、中川一政、岸浪百草居など、馬酔木からは秋桜子のほか、安騎東野、木津柳芽、吉川春藻、新井石毛が参加している。
 「赤城にて」のなかで秋桜子は「三十三歳(ミソサザイ)は俳句の方では冬の鳥になっていて、夏は居ないものだろうと考えていたので、この囀りは私の俳句的常識を一度にくつがえしてしまった」と述べて、夏のミソサザイを詠んでいる。

  倒れ木に憩ふや梅雨のみそさゞい                      
  みそさゞい高鳴くときぞ雷とゞろく                      

 みそさゞいは一般には冬の季語としてあつかわれる。これは夏場山中にいたミソサザイが冬になって人里に現れてきて、冬にこそ身近な鳥になるからである。ところが、山谷春潮の『野鳥歳時記』では春の季語としている。ミソサザイの春の美しいさえずりこそ詠まれるべき、として春にいれたという。姿と声のどちらをとるかでちがってくる。もっとも、春の季語には「さえずり」という、どの鳥にも使える季語があるから一応の用は足せる。しかしそのために、春潮は「鶯だけが特殊扱いにされ、他の鳴禽類は十把一からげに「囀り」の季語のなかに包含されて終ったその犠牲の一例を頬白にみるのである」として「囀り」という季語の功罪を指摘している。
 「みそさゞい」ということばが含む季節的な意味を人がどう取るかで季語の位置がちがってくる。
 また、たとえば、ヒヨドリは以前は冬鳥だったが、1970年代の初めころからはすっかり留鳥化している。しかし、俳句の上では冬の季語であり、鳥の名にそなわったイメージは歴史を負っているから、実際の鳥の生態の変化にただちに連動するわけではない。しかも地域的な差も日本列島全体としてみるとかなりちがう。
 ミソサザイが里人の感覚では冬の鳥であったものが、俳人など、旅行者の行動圏のひろがりによって夏でもミソサザイのいるところへおよび、その結果季語のあつかいに小さな混乱が生じた。そこに住むものの認識と遠く訪れるものの認識のちがいとでもいおうか。
 さて、『野鳥』誌昭和17年10月号には「馬酔木」同人の新井石毛、昭和18年1月号では石田波郷が俳句を寄せている。波郷は同じく「馬酔木」の同人だったが昭和17年には脱会している。
 昭和18年6月号には山谷春潮の『野鳥歳時記』の広告が載り、同書に寄せられた悟堂と秋桜子のそれぞれの推薦文の抜粋がでている。
 同年9・10月合併号には巻頭に「高尾山にて」としてブッポウソウを詠んだ6句。「定本」第10巻によると、「私と秋桜子氏率いる『馬酔木』同人とが薬王院に一泊した朝」境内を飛び回るブッポウソウを見たという。
 同じ号の「書籍案内」に「水原秋桜子氏『聖戦俳句集』石原求龍堂発行」の文字がある。すでに雑誌発行のための用紙の確保に困難な時局であった。そして、『野鳥』誌は昭和19年は2月号、9月号の2冊を出すのみで、これを最後に終刊している。悟堂「終刊の辞」によれば、「苛烈時局下の国策である以上」として、図らずも終刊号となった。
 その後、悟堂は一時福生町(現在の福生市)に移り、ついですぐに山形県へ疎開して、敗戦後、昭和20年の年末に現在のあきる野市二宮に落ちついた。秋桜子はそれより先に八王子市に移っており、20年の10月か11月に悟堂は上京したおりに八王子の秋桜子を訪ねている。
 昭和21年3月には早くも悟堂や「馬酔木」同人との探鳥吟行が行われ、13日、28日と続けて秋川流域へ観梅に出かけている。
 「定本」第3巻によると、悟堂はアオバズクについて述べる中で雑誌「馬酔木」に掲載されている鳥の句を数えている。それによると昭和21年5月号、6月号、7月号の3冊には鳥の俳句が多数掲載されており、その数はアオバズク18句、カッコウ16句、カモ16句、囀りまたは鳥の声16句、ヒバリ15句、ウグイス14句、ホトトギス12句であるという。当時の雑誌「馬酔木」は未見であるが、敗戦直後の時期であり、ごく粗末なものであったろう。その中に鳥の句が多数息づいているというのも、苦難の時代を経た後の解放された思いを象徴しているように思われる。

 現在、俳句にとって、または俳句を詠む者にとって、野鳥の位置づけはどうだろうか。さきにわたしは95年11月から96年10月まで、朝日新聞の「朝日俳壇」を一年間概観して、鳥に関係ある俳句をひろってみた。その結果、野鳥を詠みこんだ句は81句であった。全体の4パーセントほどである。ただちにこれを少ないと決めつけることはできないが、さきに紹介した7人の俳人の例と比較すると興味深い。また詠まれている野鳥の種類などは昔と比較してどうなのだろうか。たとえば最早、トキの俳句などは日本の自然のなかで、写生されることはありえないのだ。

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追記
 本文中でわたしは、悟堂と秋桜子のはじめての出会いは昭和11年の1月か2月のはじめ、場所は山谷春潮邸とした。その後、『野鳥』誌をみていて、前年の暮れにすでに出会っていることを知った。『野鳥』3巻2号、昭和11年2月号の工房日記にみえている。「12月27日……一日、年賀状を書き、夜、村田氏を訪ねて水原秋桜子氏に逢ふ。……」。村田氏とは彫刻家の村田勝四郎で、野鳥の会のバッジの図案を描いている。いつから悟堂と親交があるか、正確なところはまだ調べていない。『定本野鳥記』14巻の「村田勝四郎君の鳥の彫刻と五十年の友誼」によると、昭和初頭からは俳句を作り始め「ホトトギス」「馬酔木」に投句をしている。秋桜子とはそのなかで出会っているのだろう。
 わたしが、悟堂と秋桜子のはじめての出会いは、昭和11年の1月か2月のはじめ、場所は山谷春潮邸としたのは、のちの悟堂自身の著述「野鳥を中に水原秋桜子さんと」(『定本野鳥記』12巻)によるが、それは悟堂の記憶ちがいということになる。
 なお、野鳥俳句については『野鳥』№472、1985年12月号に特集がある。なかで俳人の堀口星眠氏が江戸時代から現代までの野鳥俳句を概観していて参考になる。実はこの特集を知ったのは「『野鳥俳句運動』のころ」を書いた後だった。そして、ミソサザイの季語のあつかいについてのところなど、一部似たようなことを書いている箇所があるのだが、あえてそのままにした。もし先に知って読んでしまったら野鳥俳句運動とはそういうことであったかと納得して、それ以上は調べようとしなかっただろう。
2000年5月1日

アカショウビンは衝突する

2007年09月19日 10時00分23秒 | いろんな疑問について考える
アカショウビンは衝突する
木村 成生        1999年10月7日
 
 ここは羽村市内に残された最後のまとまった農耕地。西側は多摩川を堤防で隔て、北から東にかけては阿蘇神社から一峰院のさきへと緑地になっている。南へ開けている農地は長辺でも400mほどしかなく、稲田とハスの田んぼ、それに野菜などが栽培されている。
 この春からわたしは羽村市内を鳥を見がてら散歩しており、ここもそのコースの一部になっている。9月14日早朝のこと。その一角で耕地に下りているアカショウビンを見た。正確には右の翼を傷めて半開きにし、近づく外敵、つまりわたしから逃れるためにおぼつかない足取りで、すぐ横の枝豆の畑にもぐろうとしているのを見たのだった。自分の見ているものがほとんど信じがたい気がして、わたしはアカショウビンの数歩手前で、立ち止まったまま、じっと見つめていた。まもなく枝豆の繁みにもぐってしまい、どの辺にいるのかぜんぜんわからなくなった。しばらくはあまり広くない枝豆の畑の様子をみていたが、出てきそうもないので、後ろ髪ひかれる思いでとりあえず立ち去った。20分ほどして、また畑にもどり静かに近づいてみる。すると5mくらい幅のある枝豆畑の反対側にアカショウビンがでていた。近づくとぎこちない足つきで離れていき、また枝豆の繁みへもぐっていった。
 跳びつけば捕まえられそうなものだが、そうは身体が動かなかった。捕まえることよりも見つめることばかり思っていた。なにしろ、アカショウビンの声は以前聴いたことはあるが、見るのは初めて、しかもこんな意外な出会い方になったのでいくらか呆然としていたのだった。
 農家の人が現れたので聞いてみると、3日前からいるのだという。その後、何回か様子を見に行ったが姿は見えなかった。畑の中で息絶えたか、それともネコにでもやられたかもしれない。収穫前の枝豆畑に踏みこんで荒らしまわるわけにもいかないので、結局見過ごすことになった。
 意外なところでアカショウビンに出会って、思い出すのは以前声を聴いた時のことだった。それは福生市内北田園にある福生高校のうらの林でのこと。95年7月10日、梅雨の最中、霧の濃い早朝だった。多摩川沿いの道で最初に声を聴き、何度か鳴くのをたよりにかなり接近できたのだが、はっきりと間近に二声聴いたら、次には遠い声になって、それきり聞こえなくなった。このあたりはやや緑は多いがふつうの住宅地で、声の出どころは稀にまとまって残された林地だった。その林も現在では、十数軒の建売住宅に変わって、あのときの面影はまったくない。
 アカショウビンといえば深山幽谷の鳥、というのが一般的なイメージだと思う。それが渡りの時には案外町の中も通過するらしい。そこで各地の野鳥の記録を調べてみようと思った。こんなときに一番役に立つのが日本野鳥の会神奈川支部発行の『神奈川の鳥-神奈川県鳥類目録』で、手元にある第2集、第3集をひらいた。まず第2集を見ると、7件のデータがあり、そのうち4件までが山間部でのさえずりを聞いた記録。そしてあとの3件は落鳥記録だった。それも伊勢原市、茅ヶ崎市、平塚市の市内で、伊勢原と茅ヶ崎では市街地となっている。第3集では11件のデータのうち10件は繁殖やさえずりの記録で、いずれも山間部のもの、そして1件落鳥記録がのっている。愛川町中津という場所で、地図で見ると丹沢山地の東のはずれ、丘陵から平野部へ出たところで、建物の窓ガラスに衝突した個体となっている。
 わたしのアカショウビンとの2回の出会いは、どうも稀でも特別でもないらしい。しかも、記録件数の少ない中でこの落鳥記録の多いのはどういうことだろう。『神奈川の鳥-神奈川県鳥類目録』の他種の鳥のデータをざっと見てもアカショウビンの落鳥記録は際立って多いといえる。第1集ではどうなっているだろうか。
 それにしてもアカショウビンは衝突しやすいらしい。そこでさらにほかの文献を見ていくとつぎつぎに落鳥記録や記載がみつかった。それをつぎに書き出してみよう。
 ○毎年、落鳥を見るのでかなりの数が通過していると考えられる。『熊本県の野鳥』1978年 熊本野鳥の会 その中の「2 熊本市の野鳥」
 ○主として秋季、都内の平地でも、事故死したものが拾われることがある。1941.9.28 港区西久保 幼鳥1羽採集。『東京の鳥-東京都産鳥類目録』1975年 日本野鳥の会
 ○1949年 伊藤英樹:東京旧市内でアカセウビン採集さる。鳥- 第12巻58号.pp.172-173『日本鳥類大図鑑Ⅲ』昭和27年 清棲幸保 巻末の文献目録に
 ○野鳥歌人隅田葉吉君の作中にも、この鳥の歌は、さすがに洩れていない。
  野づかさの落葉松林若葉ふけ水恋鳥が来て鳴きにけり
 この歌の詠まれた場所から近い喜連川町では、しばしば稲田を越えて屋敷に飛来し、白壁の土蔵に大きな嘴をうちつけて、ぶらさがったまま死んでいることがあるとも書かれているが、~(以下略)「一鳥一題」昭和21年。『定本野鳥記』第3巻所収 中西悟堂
 ○この鳥は大きな図体をしながら、よく人家の灯火に迷って飛び込んでおどかすことがある。それが見当が外れると軒の壁に、ヂョッキリ長い嘴の半分も突刺したまま、ぶらりと下がって死んでいる。~略~その現象が灯火も何もない土蔵の壁などでも行われるのは不思議である。『自然と伝承 鳥の巻』1943年 武藤鉄城
 ○渡りの季節に山間ので夜間に白壁に衝突して落ちたと云ふ報告が少なくないから、この種は夜間に渡るのであらう。『日本の鳥類と其生態』第2巻 昭和16年 山階芳麿 昭和60年の復刻版
 以上のようなぐあいになった。案外アカショウビンは町の中をしかも低く飛んでいくらしい。今年も春秋の夜、ある町のだれかの家の軒先を通過していったかもしれないこの鳥を想像すると心が引き締まるような思いがする。
  
 ちょうどこの一編を書き上げたころ、『野鳥』99年9/10月号の会員フォーラム欄に落鳥アカショウビンの投書がのった。偶然なのか、これも神奈川のこと。
 

「野鳥」ということばをめぐって―柳田国男と野鳥―

2007年09月19日 09時57分57秒 | いろんな疑問について考える

「野鳥」ということばをめぐって
―柳田国男と野鳥―
木村 成生       1999年10月18日

悟堂に先行する柳田の「野鳥」
 昭和9年、中西悟堂が日本野鳥の会を興すさいに、鳥学者や文化人の支援を受けたのはよく知られている。なかでも柳田国男の援助の大きかったことは悟堂自身、『定本野鳥記』その他で何度か書いている。柳田もまた『野鳥雑記』などでつづっているとおり、鳥との縁の浅からぬところがあり、そうしたことから悟堂への協力を惜しまなかったことがうなずける。
 では、実際に柳田は野鳥とどうかかわってきたのだろうか。そんな興味から、柳田の野鳥に関係ある行動や著作を追ってみようと思った。そして思いがけず、「野鳥」ということばに注目することになった。
 それというのも『定本柳田国男集』別巻5の総索引を手がかりに野鳥に関する項目をさがすことにして、まず「野鳥」ということばを引いたのだった。すると索引に示されたいくつかのうちの3ヶ所は『遠野物語』と『明治大正史世相篇』のものだった。『遠野物語』は明治43年に世に出ているし、『明治大正史世相篇』も昭和6年に刊行されている。しかし、野鳥の会は昭和9年の創立であり、「野鳥」ということばはその際に悟堂がつくったといわれている。そのことは悟堂も『定本野鳥記』や『愛鳥自伝』(『アニマ』1973-1977年まで連載、のち平凡社ライブラリー所収)でくりかえしているし、一般的にも「探鳥会」ということばとともに悟堂の造語として知られている。その「野鳥」が柳田によってすでに明治43年には使われていたのだった。それは『遠野物語』の序文の中ほどに出てくる。
細き田中の道を行けば名を知らぬ鳥ありて雛を連れて横ぎりたり。雛の色は黒に白き羽まじりたり。始めは小さき鷄かと思ひしが溝の草に隠れて見えざれば乃ち野鳥なることを知れり。
 前年の8月に遠野をおとずれた柳田は、その印象をのべる中で野鳥との出会いのひとこまを記したのだった。ここではごく普通の名詞のように「野鳥」が使われている。
 また『明治大正史世相篇』の第4章の「7 家に属する動物」では「近頃の飼鳥の流行」をとりあげて「……斯ういふ趣味に遊び得る者は僅かで、しかもその多数は必ずしも野外の鳥の声に、耳を傾けようとして居た人たちでは無かつた」と批判し、珍しいものを愛でたりウグイスやメジロのようなふつうの鳥でも、「啼きを比べて優種を珍重し始め」て、「つまり人間の技能の加はつた特別のものを愛したので、此点は寧ろ野鳥を疎外した大建築物などの芸術と似て居る」として、鳥を飼うことと野外の鳥に興味や理解を持つこととはつながらないという。つぎの「8 野獣交渉」にも「野鳥」の文字が現れる。
……明治大正は世間話の莫大なる材料を供給したのである。しかし幼い者には其大部分は解釈が面倒であつたから、尚暫くの間は自分の周囲の事実、殊に古くからの天然の野鳥や獣の話をよくしたのであつた。
 それどころか昭和15年発行の『野鳥雑記』に収録された「野鳥雑記」は昭和3年、「絵になる鳥」は原題がこれも「野鳥雑記」で昭和5年の初出となっている。それに「村の鳥」は昭和9年1月の初出で文中に「椋鳥とか雲雀とかいふ地面を恋しがる鳥は、もう段々退去したが、松のある為に枝移りをして、意外な野鳥までがめいめいの庭へ入つて来る」という記述がある。悟堂が雑誌の誌名を「野鳥」と決めたのは昭和9年3月のこと。
 ところで悟堂は『愛鳥自伝』によると鳥の雑誌を出すにあたりその誌名を2ヶ月苦しんで考えた末に「野鳥」と決めて、柳田邸を訪ねて披露する。それに対して柳田は「よい名前をつけられたねえ。どこから引いたの?」と聞き返し、悟堂は自分の「独創」であるとこたえると、柳田は「よかったよ。これでいよいよ発足だね」とこの名を高く買ったという。「どこから引いたの?」という柳田の言い方も奇妙だが、このあたりのやりとりは悟堂の記憶ちがいかもしれない。いずれにしても、柳田は「野鳥」ということばを自らこれまで使っていたことを忘れているはずはないだろうがそれには触れなかったらしい。
 考えてみれば「野鳥」ということばは「飼い鳥」に対して当然あっていいと思う。なぜ悟堂の独創といわれるのか不思議なくらい普通の名詞のように思える。そこで「野鳥」命名当時にもっと近い悟堂の証言をさがしてみた。
 『定本野鳥記』第5巻の「竹友藻風氏と『鶺鴒』」(昭和19年)のなかで当時をふりかえっている。それによると、雑誌の題が決まらずに2ヶ月も経過していて考えに疲れていたころ、書棚の目と水平の棚にあった翻訳書の背文字に「野鳥の……」と題があるのに気づき、「これだ!」とひらめいたという。「今まで、なぜこの言葉に気がつかなかったのだろうと私はおもった。~略~この『野鳥』という言葉はまだ日本人の通念にはなっていない。~略~『野の鳥の何々』はあっても、『野鳥』という熟語は、もし使用例がどこかにあったとしても、まだ私の目に触れていないほど一般的ならざるものだ」。こうして「野鳥」ということばに決まった。ここでは悟堂は「野鳥」ということばを自分で作ったとはいっていない。
 では当時の鳥の本にはほんとうに「野鳥」の熟語を使った例がないのか。そう思ってさがしてみると、あった。竹野家立著『野鳥の生活』、昭和8年の刊行で、野鳥の会創立の前年のこと。竹野家立は雑誌『野鳥』の創刊から3号まで連載された「野鳥の会座談会」における12人の出席者のひとりでもある。『野鳥』1巻2号の「執筆諸家の横顔」によると、新宿御苑内動物園で鳥類研究をし、野鳥巣引きを20年、成功したもの30余種、この座談会当時は東京朝日新聞社員となっている。そして『野鳥の生活』(大畑書店刊行)の著があると紹介している。
 悟堂はこの竹野の『野鳥の生活』を見ていないのであろうか。悟堂と竹野の関係はどうなっているのか。『愛鳥自伝』によると「野鳥の会座談会」の準備は当時鳥学会の大御所といわれていた内田清之助がすすめていたという。松山資郎の『野鳥と共に八〇年』(文一総合出版1997年)によると、野鳥の会創立にあたっては「内田先生は、自然科学者や鳥の専門家達、またそれらの方々を通じて多くの知己、学者を中西会長に結びつけることに腐心されていたようである」としているので、あるいは野鳥の会創立準備以前には、悟堂と竹野の間には交友関係はなかったのかもしれない。『定本野鳥記』からは、索引で追ったかぎりでは会創立以前の悟堂と竹野の交渉はわからなかった。
 竹野の本の書名にすでに「野鳥」が使われていること、そして「野鳥」命名を報告したときの柳田の反応についての『愛鳥自伝』の記述もやや不可解なのだが、ここではその辺の事情にこだわるのが目的ではないので、話をさきへ進める。

「野鳥」はさらにさかのぼる
 さて、柳田が悟堂に先立つこと20数年前に『遠野物語』ですでに「野鳥」を使っていたということになると、このことばはさらに時代をさかのぼる可能性がある。そして1603年(慶長8)までさかのぼった。というのは、小学館の『日本国語大辞典』を引いたら、「野鳥」の項に「『日葡辞書』yachoノノトリ」との記載があるではないか。『日葡辞書』とはイエズス会宣教師らが日本布教のために編纂した辞書で、室町時代の日本語について話し言葉を中心に、3万2000語を採録したもの(『岩波書店出版図書目録』1998年)。さっそく図書館へ行き、『日葡辞書』のその部分を確認してきた。『日本国語大辞典』の「野鳥」の項には、ほかにも「俳諧・笈日記」「艸山集」「賈誼・鵬鳥賦」と、何の本かよくわからないがそれぞれ「野鳥」の文字を引用している。
 それならば鷹狩に関する史料の中に「野鳥」が出てくるにちがいないと、とりあえず本間清利著『御鷹場』(埼玉新聞社1981年)をみる。引用されている史料を読んでいくのはむずかしくて時間がかかるので、とにかく「野鳥」の二文字だけみつけることにしてページをめくっていく。するとあった。
 元禄2年(1689)、5代将軍綱吉の時代。その2年前に「生類憐れみの令」が出されているというころのこと。関東郡代伊奈半十郎の覚書として、飼い置きの鳩・「鶏やあひるなどの家畜が犬や猫に食い殺されたり傷つけられた場合は、まず伊奈半十郎役所に届け出て指図を受けること」として、「差図なき前ニ御鳥見衆中へ申上候儀無用と致すべく候、申すには及ばず候得共野鳥之分は只今迄之通り……」と引用している。死んだり傷ついたりした野鳥についてはこれまで通り鳥見衆と伊奈役所に申し出よとの趣旨で、飼われている鳥に対する野の鳥として「野鳥」と記している。
 『御鷹場』の最後まで史料の引用箇所を見ていったがほかには「野鳥」はみつからなかった。また、この場合「のどり」と読んだ可能性もないとはいえないが『日葡辞書』で「やちょう」という読みの存在したことはあきらかになっている。
 これで「野鳥」ということばがかなり古くからあったことはわかった。しかし一般的なことばとしては使われていなかったようだ。『図説日本鳥名由来辞典』(柏書房1993年)を見てみると、といってもおもにその中で扱っている文献の書名について見ただけなのだが、たいていは鳥譜、禽譜といった具合で、題名に「野鳥」とつくものはなかった。
 明治以後はどうだろうか。当時、野鳥のことをなんと呼んでいたのか、いくつかの事典類にあたってみた。まず昭和初期の百科事典を調べてみる。『日本家庭大百科事彙』は、昭和2年冨山房の刊行、『国民百科大辞典』は昭和13年で同じく冨山房、『図解現代百科辞典』は昭和7年三省堂から出ている。この3者いずれも「野鳥」ということばは当然見あたらなかった。一般に鳥類、鳥獣といういい方がされていたらしいのは現在とそうちがわない。「飼鳥」についてはにわとりなどの家畜もふくめて「家禽」という項目を立てている。
 
「禽」と「鳥」
 「禽」という漢字は現在ではあまり使われなくなっている。これは「禽」の字が「鳥」で置き換えがきくからだろう。鳥に親しむ人々の間でさえせいぜい「猛禽類」をいうときに使う程度だろうか。
 昭和初期のころはまだ「禽」の字はけっこう使われていたらしい。「家禽」に対するに「野禽」は3者の百科事典とも項目はなかったが、悟堂の著作には『野禽の中に』という昭和16年に刊行された本がある。この当時、悟堂は野鳥と野禽の両方を使っていたようだ。
 ではこの時代の国語辞典には「野鳥」は出てくるだろうか。あいにく手元にも近くの図書館にも大正、昭和初期ころの国語辞典がほとんど無く、はっきりしたことはいえないのだが、ひとつだけ「野鳥」の文字のある辞典があった。『日本大辞典改修言泉』全6巻、昭和4年の刊行で、その復刻版、昭和56年のものを見た。
 「やてう=野に居る鳥、のとり、野禽」となっている。その第6巻索引には、「野鳥=ぬっとり、のっとり、のどり、ヤテウ」と並んでいる。
 国語辞典にも「野鳥」はあるにはあるのだった。しかし、悟堂が「今まで、なぜこの言葉に気がつかなかったのだろう」というくらいだから、ほとんど実際には使われていなかったのはまちがいない。 
 「飼鳥」に対して野外の鳥は一応「野禽」といういい方があるから用はたりるのだが、悟堂は雑誌命名のさい「飼鳥と一線を画し得る誌名」である必要があるということで「禽」の字もつかいたくなかっのではないか。「禽」の字を漢和辞典で引くと、「鳥をとらえる、転じて『とり』の意を表わす。鳥獣をとらえる。いけどる。とりこにする」(『角川新字源』)となっており、捕らえられた鳥をイメージする漢字であることがわかる。
 そこで今度は『定本柳田国男集』の総索引に「禽」の字をさがしてみた。引いてみたのは禽獣、野禽、家禽、鳴禽、渉禽、猛禽、禽舎、さらに漢和辞典で熟語をさがして、「禽」のつく語を求めたが、ひとつもなかった。わずかに「禽島姫神」というのがあったがこれは『出羽風土略記』に出てくる神の名だった。
 『定本柳田国男集』の総索引には「鳥」に関する語がふんだんに登場する。その中で「禽」が無いのはいかにも不自然なことだ。あるいは柳田はかごの中の鳥をイメージする「禽」の字を悟堂と同様、意識的に避けていたかもしれない。かりにこの推測があたっていれば柳田も野にあるべきものとしての鳥をやはり相当意識していたといえるのではないか。
 「明治維新は鳥獣の一大受難期」(『野鳥』532号1991年1月)といわれる。鳥は自由に捕るもの、撃つもの、飼うもの、食うものとして認識されていたらしい。加藤秀俊他による『明治大正昭和世相史』(社会思想社1980年)によると何回も飼鳥ブームがくりかえされ、ペットブームの波があり、鳥のほかにも、うさぎ、狆、モルモットなどの動物の流行があり、愛玩され、あるいは投機の対象になったという。それらの流行の中から鳥に関するものだけ紹介する。
 明治12年東京で小鳥の飼育流行。
 明治13年東京でウズラが流行。
 明治20年伝書鳩の飼養はじまる。ウグイスの愛好流行。
 明治25年ウグイス、メジロの飼育流行。カナリヤ等がそれに続く。
 明治26年カナリヤの飼育流行。
 これらの流行がどの程度の社会現象だったのか、具体的な資料を持たないのでなんともいえないが、そうした時代のなかにあって、柳田が早く鳥を野にあるべきものとして認識していたとすれば、悟堂にさきがけて「野鳥」ということばを使ったというのもうなずける。では柳田はどのように野鳥にかかわったのか。

柳田国男と野鳥
 いまよりはるかに身の回りに自然が満ちていた時代であれば、ことに少年にあってはたいてい多かれ少なかれ野の鳥との交流はあっただろう。そのなかには容易に忘れがたい体験もあって、後年まで鳥への興味が続いていく場合もあったにちがいない。柳田の幼少年期にも、やはりかなり濃い野鳥体験があったことは『野鳥雑記』や『故郷七十年拾遺』などをひらくと、いくつかのエピソードとして書かれていることからわかる。
 たとえば、8歳か9歳のとき偶然ヒバリの卵をみつけたという話がある。
一羽の雲雀が、ぱたぱたと羽ばたきをしながら飛んでゐる。幼な心にも不思議に感じられたので、ひよいと麦畑に踏み込んでみると、その雲雀の羽ばたいてゐた真下が巣であつた。……どうしても獲らずに居られなくて、それをとつて家に帰つて来た(「小鳥日記」『故郷七十年拾遺』に所収)。
 また、オオヨシキリの聞きなしについて少年時の体験を次のように記している。
此鳥をココチンなどゝ謂ふ私の郷里でも、子供の頃に父から聴いた前生譚が一つあつた。昔々ココチンは或る御屋敷に奉公をして居た下郎であつた。主人の草鞋をたつた半足盗んだばかりで、罰せられて打首になつた。それで鳥に生まれかはつて、今でもワランジカタシデクビキラレと啼くのだ云々。私には 此昔話がいつまでも腑に落ちなかつた。といふわけは何処で何べん聴いて見ても、何としてもワランジカタシとは聞えなかつたからである(「鳥の名と昔話」『野鳥雑記』に所収)。
 メジロやマヒワなどの小鳥を飼ったりヒヨドリを捕ったりする一方、教えてもらった鳥の声を実際に野に出て、場所を変えて何べんも聞き比べずには済まない少年柳田の姿が浮かんでくる。
 『野草雑記』の「記念の言葉」のなかで柳田は「小鳥の嫌ひな少年もあるまいが、私は其中でも出色であつた。川口君の『飛騨の鳥』、『続飛騨の鳥』を出版して、それを外国に持つて行つて毎日読み、人にも読ませたのは寂しい為ばかりではなかつた。少なくとも私の鳥好きは持続して居る」と述べている。
 このような関心の持ち方が後年、野鳥の会への支援、そして自らも『野鳥雑記』を書くにいたるなど、生涯にわたって野鳥に興味を持ちつづけることになったとみられる。柳田国男研究会による『柳田国男伝』(三一書房1988年)の別冊年譜によると、昭和30年4月20日、81歳の柳田は自宅で野鳥の会を催している。いったいどのような会だったのだろうか。
 柳田は『遠野物語』の序文でさきにあげたほかにも、さらに2ヶ所で鳥を登場させている。それは最後のほうに出てくる。
今の事業多き時代に生まれながら問題の大小をも弁へず、其力を用ゐる所当を失へりと言ふ人あらば如何。明神の山の木兎の如くあまりに其耳を尖らしあまりに其眼を丸くし過ぎたりと責むる人あらば如何。はて是非も無し。此責任のみは自分が負はねばならぬなり。
  おきなさび飛ばず鳴かざるをちかたの森のふくろふ笑ふらんかも
 国をあげて近代化の時代に『遠野物語』を著わし、あえて古いもの、隠されてあるもの、消えようとしているものに眼を注ごうとする柳田の姿勢が現れている。その2ページほどの短い序文の中には3回鳥が登場する。そのうちの2回は比喩として使っているにしても、柳田の野鳥への関心の強さがここにも現れているといえるのではないだろうか。

「しのび音」起源考―ホトトギスのしのび音について(4)完結

2007年09月18日 16時49分08秒 | いろんな疑問について考える
卯の花に隠れるホトトギス
 これまで「しのび音」が発生し、定着する過程をたどってきた。ここで最初の疑問にたち返ってみよう。佐佐木信綱の作詞で唱歌「夏は来ぬ」のなかでは、なぜホトトギスは卯の花に来るというのか、どうして卯の花で「しのび音」をもらすのか。
 まず、なぜホトトギスは卯の花に来るのか、という疑問については万葉集から平安時代の歌集へという和歌の歴史のなかで、多くのホトトギスと卯の花を組み合わせた歌があるということ。このことはすでに多くの人の言及があるので深入りしないが。
 万葉集には卯の花の歌は24首あり、そのうちホトトギスとの組合せの歌は18首ある。代表的な取り合わせとなっている。しかし、そこでのホトトギスは「しのび音」をするものはなく、どれも盛んに鳴いている。卯の花との取り合わせばかりではなく、万葉集のホトトギスはいずれもそうなのだ。そんな中で一風変わった歌がある。その盛んに鳴くホトトギスに懇願するように、まだ鳴いてくれるな、という歌がある。

1465 ほととぎすいたくな鳴きそ汝が声を五月の玉にあへ貫くまでに  藤原夫人

時鳥よ、今からあまりはげしく鳴くな。お前の声を五月の玉に交えて糸に通すことができる日までは。
 五月の玉というのは頭註によると5月5日の節句に飾る薬玉(くすだま)のことで、節句が来るまでは、つまり卯月のうちはあまり鳴かないでくれ、という意味になる。のちのち、卯月には忍んでいるという平安時代の観念に通じるものがある。作者は藤原の夫人、藤原鎌足の娘五百重娘(いおえのいらつめ)という。とするとこの歌は600年代半ばか。
 節句に薬玉を飾り、その時期にホトトギスがさかんに鳴く。人々の思いとしても、薬玉を飾るその時期にこそ、さあ夏が来たとばかりに、さかんに鳴いてほしいという願いがあった。だから卯月、卯の花の咲いている時期にはまだ忍んでいなければ、という発想があったとみられる。一方五月の橘や、花橘の歌は万葉集のなかで、71首、そのうちの32首にホトトギスがいっしょに歌われている。橘とホトトギスの結びつきの強さもかなりのものがある。
 そのように、橘とホトトギスの組合せと同じように、卯の花に盛んに鳴いていたホトトギスが平安時代には現実を無視して、卯月には卯の花に忍ぶようになる。これには卯の花の「う」を「憂」にかけるという言葉遊びの習慣が背景にある。それはつぎの歌のように、

1501 ほととぎす 鳴く峰(を)の上の 卯の花の 憂きことあれや 君が来まさぬ  小治田朝臣広耳

と、いうように、すでに万葉集に見られるのだが、歌の様式化、観念化がすすんだ古今集以後の時代にはますます、自然を直接表現することが少なくなった。卯の花は「憂」なのだから、そこにくるホトトギスが盛んに鳴きたてていては具合がわるいわけで、やはり忍んでもらうことになる。したがってありもしない「しのび音」をさせることになったようだ。自然からはなれた宮廷世界での歌の上の約束事だから、現実にあるかないかは問題にはされない。
 同じ時期に「しのふ」と「しのぶ」の混同化があり、どちらも「しのぶ」と表現されるようになった。しかし、そのことが「しのび音」の成立に関係しているのかどうか、結局そこまであとづけることはできなかった。大伴家持がくりかえし「しのひ」、つまり賞美し、たたえていたホトトギスが「しのふ」と「しのぶ」の混同化によってのちの「しのび音」につながるかどうか、はっきり辿ることはできなかった。「しのび音」の起源はどうにか900年代の始め、あるいは800年代の終わりころまではさかのぼれたものの、万葉集までにはなお、隔たりがある。
 では、平安時代、「しのび音」が卯の花との組合せで実際にどれくらい使われていたろうか。八代集が成立した905年の古今集から1205年の新古今集まで300年間ある。その間には古今集から新古今集までのなかで、「しのび音」または「しのび音」を意味することばがどれだけ出てくるか。じつは厳密には「しのび音」と卯の花との組合わせは新古今和歌集の柿本人麿の作といわれる歌がひとつだけだ。この歌は、わたしは平安時代の歌人の作と考えているのは前述のとおり。

190 鳴く声をえやは忍ばぬ郭公初卯の花のかげにかくれて  

だけということになる。さきに紹介した後拾遺和歌集の

1096 しのびねを聞きこそわたれほとゝぎすかよふ垣根のかくれなければ  六条斎院宣旨

に垣根が出てくるが、これはおそらく卯の花の垣根だろう。強いていえば、このふたつの歌が「しのび音」と卯の花の組合せとなる。そしてホトトギスと卯の花の組合わせということでいえば、万葉集の卯の花の歌24首中にホトトギスが入っている歌が18首もあるのに比べて、実は八代集全部で卯の花の歌49首中にホトトギスが入る歌はわずか8首にすぎない。
 むしろ平安女流日記文学のほうと関係が深そうだが、それでも「しのび音」と卯の花の直接の組合せは今回調べた作品にはないようだ。しかし佐佐木信綱の作詞が作りだした情景は、万葉集から平安文学へのホトトギスと卯の花の関係をうまく取り込んだ傑作といえるだろう。
 新古今以後の歌集、その他の古典では「しのび音」はどうなっているか。これについては調べていない。そうとうの数があろうし、江戸時代の作品にも多そうだ。明治以後ではどうなのか。そして、いつ消滅したか、あるいは消滅してないのか。
 今回はこれまでにして、可能なところまで起源をさかのぼったというところで、まとめておくことにする。

「しのび音」起源考―ホトトギスのしのび音について(3)

2007年09月18日 16時48分00秒 | いろんな疑問について考える
八代集の「しのび音」
 いっぽう三代集以後の勅撰和歌集を見てみると、時代が下って、集められた歌も多くは「しのび音」の起源に相当する時代よりも新しくなる。しかし、古い歌も無くはないので、一応すべてに目を通してみた。それは八代集のうち、後拾遺和歌集、金葉和歌集、詞花和歌集、千載和歌集、新古今和歌集である。新古今和歌集は岩波の『日本古典文学大系』、それ以外は同じ岩波の『新日本古典文学大系』によった。その結果、「しのび音」またはその意味のことばが出てくるのは、後拾遺和歌集で4首、金葉和歌集、詞花和歌集には無く、千載和歌集で3首、新古今和歌集には3首だけ、と意外に少なかった。
 後拾遺和歌集は4首あるうちの3首ではホトトギスは詠われておらず、もはや、「しのび音」だけでひとり歩きしている。その3首、

777 あやしくもあらはれぬべきたもとかな忍び音にのみ泣くと思ふを  和泉式部
778 うち忍び泣くとせしかど君こふる涙は色に出でにけるかな  西宮前左大臣
1100 しのびねのなみだなかけそかくばかりせばしと思ふころのたもとに 大弐三位

 そして1首だけ「しのび音」とホトトギスがいっしょに詠われている。

1096 しのびねを聞きこそわたれほとゝぎすかよふ垣根のかくれなければ  六条斎院宣旨

時鳥の忍び音を聞き続けています。時鳥が通う垣根は隠れようがないので、あなたがたの秘め事はずっとわかっていますよ、高定はおおっぴらに通っているのですもの。
 後撰和歌集の人名索引によると、六条斎院宣旨(ろくじょうさいいんせんじ)は999年から1004年頃の生れで、1092年に没した女性。ホトトギスの歌に「しのび音」という語そのものがついて勅撰和歌集に出たのはこれが最初であろう。正確な作歌の年はわからないが、若い時の作としても、1020年より後だろう。他の3首も、和泉式部は不明としても、いずれも990年前後から1000年の後半あたりの人物であるから1000年の前半から中ばの時期の歌と思われる。
 つぎに千載和歌集の3首のうちホトトギスがでてくる2首、

150 ほとゝぎすしのぶるころは山びこのこたふる声もほのかにぞする  賀茂重保

時鳥がまだ忍び音に鳴くころは、山彦のこだまもあるかなきか、ほのかに聞えることだ。

157 ほとゝぎす猶はつ声をしのぶ山夕ゐる雲のそこになくなり  仁和寺法親王守覚

ほととぎすは、初声をまだ忍び音で信夫山の夕暮の雲の中で鳴いていることだ。
 この2首の作者の生涯は、賀茂重保が1119年から1191年、仁和寺法親王守覚は1150年から1202年で、どちらも「しのび音」がすでに定着したあとの歌。
 そして新古今和歌集の3首、

190 鳴く声をえやは忍ばぬ郭公初卯の花のかげにかくれて  柿本人麿

もう鳴くことを我慢していることができなくなったのであろうか。まだととのわぬ、卯月の忍び音をしているのである。

198 郭公まだ打ちとけぬ忍びねはこぬ人を待つ我のみぞ聞く  白河院御歌

(ほととぎすの)まだ鳴き馴れない、かすかな初声。人を待つ折なればこそ聞きつけた忍び音であるが、世の常人は聞かなかったであろう。

1046 ほとゝぎす忍ぶる物をかしは木のもりても声の聞えけるかな  馬内侍

郭公はこっそり鳴いているのに。柏木の森を洩れて。人知れず思っていたのに、あなたに声を聞かれてしまった。
 190の歌は柿本人麿となっているが、「この歌、万葉集にも、人麿集にも見えない」と頭注にある。確かにホトトギスが声を忍ぶとか、卯の花のかげに隠れるという表現は万葉時代にはまだないもので、この歌は柿本人麿の作とは考えられない。おそらく、ホトトギスの「しのび音」の表現が定着して以後のもので、早くても900年台後半、平安歌人によって作られたものであろう。卯の花とホトトギスの関係については後でもう少しのべる。
 白河院は1053年から1129年、馬内侍(うまのないし)は生没年不詳ではあるが、巻末の作者略伝によると1000年前後に生きた歌人らしい。だから馬内侍の歌はやや早い時期、「しのび音」定着の比較的始めごろの作かもしれない。
 では、勅撰和歌集以外で「しのび音」ということばそのものはなくても、「しのび音」を認識していると思われるものはないか。そして作歌あるいは著作時期の特定できるものはないか。それで伊勢物語、土佐日記、蜻蛉日記を調べてみた。
 その結果、伊勢物語、土佐日記にはなかったが、蜻蛉日記には興味深いものがみつかった。
 
蜻蛉日記の「しのび音」
 蜻蛉日記には「ほととぎす」や「しのぶ」という単語はいくつも出てくるが、「しのび音」そのものはない。その中から1首の長歌と2首の短歌に注目した。それは「しのんでいる」状態のホトトギスにちがいがあるからだ。日記のこの部分が書かれたのが969年から973年のわずか5年の時間的幅であるにもかかわらず「しのぶ」ということばの意味が表わすホトトギスの状態が別の意味に使われているのだ。ではその3首を見ていこう。

~~ 世をう月にも なりしかば 山ほととぎす たちかはり 君をしのぶの 声絶えず いづれの里か なかざりし ~~

~~ 物憂い世の中も、やがて四月になりますと、鶯と入れかわりに山ほととぎすがおとずれて、どこの里でも鳴くように、巷には、(九州へ流された)殿さまを偲ぶ人々の嘆きが満ち満ちておりました。
 この長歌は蜻蛉日記の安和2年(969年)6月のところに出てくる。そして頭注にいう。「ほととぎすがしきりに鳴く意と、人々の泣く意を掛ける」と。
 ここでのホトトギスはしきりに鳴く、はっきり鳴く。ホトトギスが鳴くように、殿さまを偲んで泣く人々の声が巷に満ちた。つまり「ほととぎす」には「しのぶ」を取合わせのように付けてはいるが、ひっそりと忍び鳴きしているのではなく、ホトトギスは盛んに鳴いているらしい。しかも、その鳴いているのがまだ4月で、4月、つまり卯月になるとホトトギスが盛んに鳴く、というのは万葉集時代の卯月とホトトギスの関係である。平安時代になってからは、つぎの歌のように、しだいに五月になるまでは、忍んでいるということになってゆく。

   うちとけて今日だに聞かむほととぎすしのびもあへぬ時は来にけり

郭公(ほととぎす)もおおっぴらに鳴く五月になりました。せめて今日なりと、腹蔵ない御本心を承りたいものです。
 という意味で、4月には「しのび音」で鳴く、あるいは忍んでいる、ことを前提にしている。これは天延元年(973年)の歌で、作者は道綱、蜻蛉日記の著者の息子。蜻蛉日記の著者の名は不明ということで、道綱の母となっている。
 それに対する返歌がつぎの、

   ほととぎすかくれなき音を聞かせてはかけはなれぬる身とやなるらむ

あからさまに色よいお返事(結婚の承諾)などいたしましては、すぐ飽きられて、とどのつまり見捨てられ、泣きを見るのがおちでございましょう。「かけはなれ」は「蔭離れ」すなわち、郭公が卯の花蔭を離れて自在に飛翔するように軽はずみなことをして、見捨てられる(懸け離れ)の意。
 つまり、道綱がほととぎすに掛けて「五月になったのだから、もうしのんでいる必要はないのですよ」と結婚の承諾を催促したのに対して、相手の「大和だつ女」は「かくれなき音」、つまり、はっきりした声ですぐに鳴いたのでは飽きられてしまうという返事になっている。どちらの歌も「しのび音」の存在が共通の認識になっている。
 この3首の歌から「しのび音」の使い方について、万葉時代からの古いタイプと、新しい、いわば当時はやりだしたタイプの両方が使われていることが推測される。しかも、最初に紹介した歌は作者、道綱の母、そして後のふたつは若い世代の歌。つまり、若い世代が新語、流行語をまず使いだす、あるいは作り出すという法則にのっとっているように見える。
 ただ、やっかいなことに、これら3つの歌の制作年は日記の記述の年月そのままではない。蜻蛉日記そのものも成立年自体、諸説あるというのだ。新潮日本古典集成本の解説によると、もっとも考えられるのは、最初の歌を含む蜻蛉日記の中巻が執筆されたのは、天禄2年(971年)の8月以後。あとの2首を含む下巻は天延3年(975年)に書き終わったと推定している。しかも、「大和だつ女」の歌は解説によると、「当の女性が幼少らしく、その返事も大方は侍女の代作である」という。その侍女の年齢まではわからない。それに道綱の歌も多分に母の手が加わっているらしい。
 となると、世代のちがいによる新語、流行語の使い分けと決めつけるわけにはいかないということになる。
 でもさらに、その世代間の「しのび音」の使い分け、あるいは認識のちがいを現わしている歌がもうひとつみつかった。それを確認できる例として拾遺和歌集のつぎの歌を引く。

102 宮こ人寝で待つらめや郭公今ぞ山べを鳴きて出づなる  右大将道綱母

都の人は、まだ寝ないで、待っていることだろうか。時鳥は、今まさに、山辺を鳴きながら出て行くところのようだ。
 新日本古典文学大系本の脚注によると、この歌は寛和2年(986年)6月10日の内裏歌合に出詠したもの。それも藤原道綱が母の旧作を出詠した、というもので、したがって詠まれたのは986年かそれ以前ということになる。この中では、ホトトギスは山から鳴きながら出てくる、としており、都の人に先駆けてその初音を聞いたという意味になっている。つまり、おおっぴらに鳴く五月が来るまえは「しのび音」をしているということではなく、山にいる、山から出てきてはっきりと初音を聞かせるという認識になる。これは自然を比較的ありのままにとらえていた万葉の時代のホトトギス観に近いといえる。ホトトギスがその年はじめて現われるさいの現われ方の解釈として、古いタイプである。
 さらに、この102番の歌は蜻蛉日記では、「巻末歌集」のなかに若干手を入れたものが集録される。「巻末歌集」の成立は寛弘4年(1007年)以後、編者は不明だが、その歌、

  都人寝で待つらめやほととぎす今ぞ山ベを鳴きて過ぐなる

となり、最後「出づなる」を「過ぐなる」に改めている。山から鳴きながら出てくるのではなく、たんに鳴きながら飛んでゆくというホトトギスの状態を詠った意味に変わっている。寛和2年(986年)6月10日の内裏歌合に出詠した後、道綱か、あるいは道綱の母自身が手を入れたと考えられる。すでに、ホトトギスは山から出てきて初音を聞かせるのだという従来からの通念が変わってしまったことを意味しているのではないか。
 さらに日記の天禄3年(972年)の本文中につぎの文がみえる。

かくて、つごもりになりぬれど、人は卯の花の蔭にも見えず、おとだになくて果てぬ。

郭公が卯の花の花蔭に隠れて鳴く季節となったが、夫は姿も見せない。手紙一本来ないでその月も終わった。
 蜻蛉日記のこの部分をふくむ下巻が書きおわったのは、天延3年(975年)であろうと推定されている。ほかに成立年は諸説あるらしいが、いずれにしても、970年代の前半には、作者自身すでに、ホトトギスは卯月には卯の花にしのぶという当時の言わば新しいホトトギス観を受け入れていることになる。だから、翌年、天延元年(973年)の息子道綱の歌とそれに対する大和だつ女の返歌が「しのび音」を共通認識とした歌になっていることを受納しており、その表現を受け入れた形で日記を書いたものといえる。
 このように道綱の母というひとりの人物が「しのび音」という新しいことばを受け入れていく過程を、蜻蛉日記をたどることで読めるのではないだろうか。


「しのび音」起源考―ホトトギスのしのび音について(2)

2007年09月18日 16時46分15秒 | いろんな疑問について考える
「しのふ」と「しのぶ」
 それなら、「しのび音」は辞書ではどう説明されているのか。そして「しのふ」と「しのび音」の「しのぶ」はいったい、どうちがうのか。まず手元にある『岩波古語辞典』をひく。
 しのび音は「しの・び」の見出し語のなかで「忍び音」として出ている。その①として、「忍び泣きの声。また、声をひそめて泣くこと。~~」とあり、例を更級日記と山家集から一つずつひいている。つぎにその②として、「《姿を隠してかすかに鳴くところから》ホトトギスの初音。『ほととぎす世に隠れたる―を』」として、和泉式部日記から1首紹介している。
 この和泉式部の歌は、

  時鳥世に隠れたる忍び音をいつかは聞かん今日も過ぎなば

で、小町谷照彦『古今和歌集と歌ことば表現』(岩波書店1994年)によると、この時代の通念では時鳥が忍び音で鳴くのは4月晦日までで、「この日(5月1日)から時鳥は梢高く声を張り上げて鳴く」ということにされている。そして「和泉式部は忍ぶ恋の相手の敦道親王を時鳥に見立てて、もし今日が過ぎてしまったならば、親王の人目を忍ぶ通い姿をもう見ることができないから、今日はぜひお越しください」と誘った歌だという。この歌は長保5年(1003年)の4月晦日、5月1日の条に出ている。
 『岩波古語辞典』では、ホトトギスの初音は上のように「姿を隠してかすかに鳴く」ものといい、その鳴き方を習性上のこととして当然の前提と見なしているようだ。それはたとえば、春の鳴き始めのウグイスが、最初はぎこちなく、ヘタな鳴き方をしているという実際の経験からの影響を受けているのではないか。当時ホトトギスはその時期になると山から里へ、さらに都へ出てくると考えられていた。だから、ウグイス同様に最初ははっきりしない声で鳴き出すのだということにされたのではないか。
 しかし、それは観念上のことで、実際にはひっそりと忍んで鳴く「しのび音」なる鳴き声を聴いたものはいなかったはずだ。なぜなら、ホトトギスは夏鳥だから、春先の鳴き初めの時期は東南アジアにいて、日本に来るころにはすでに充分に鳴き慣れているだろう。それは、他の夏鳥についてもおなじだ。たとえばオオルリ、キビタキ、センダイムシクイなど、それらは、みな日本への渡来時期の最初から、みごとなさえずりを聞かせてくれる。それに対して冬鳥として日本に滞在し、春になって北上する鳥、たとえばツグミやシロハラなどは、行った先の繁殖地では夏鳥ということになるが、越冬地では春先にぎこちない声でさえずりがはじまる。
 『岩波古語辞典』の見出し語の「しの・び」については「【忍び・隠び】①じっとこらえる。じっと我慢する。②隠す。秘密にする。」と意味を説明している。そのひとつ前の見出し語が同じく「しの・び」で、「【偲び】《奈良時代にはシノヒと清音》①賞美する。②遠い人、故人などを思慕する。」となっており、いくつかの用例を引いている。そのあと「奈良時代にはsinofiという音で、「忍び」sinobiとは全くの別語だったが、平安時代に入って、それぞれsinofi →sinobi, sinobi→sinobi という音変化を経た結果、連用形どうし、終止形どうしが同音になり、「思慕」と隠忍」という意味上の近似もあって、両語は多少混同され~ 」との説明がつづく。
 つまり、平安時代にはこのふたつのことばはいっしょになってしまったのだ。しかし、それがホトトギス自身の声、「しのび音」に転化するだろうか。「しのふ」と「しのぶ」がいっしょになったということはわかった。しかし、声を聴く側の家持の心の動きである「しのふ」がなぜ時代を経て「しのび音」、つまり鳥の声そのものを形容することになっていったのかの説明にはならない。しかしいまは、そのことはひとまず置いて、「しのび音」という言い方がいつ始まったのか、その時期の特定が可能かどうかを探ってみよう。それによって、なぜ意味がホトトギスそのものの声に転化したのかが、わかるかもしれない。

「しのび音」はいつから現われるか
 ホトトギスの鳴き声について「しのび音」ということばが最初に現われるのはいつか。これまでにはっきりしているのは、先に紹介した、

  時鳥世に隠れたる忍び音をいつかは聞かん今日も過ぎなば

の和泉式部による長保5年(1003年)の歌である。
 そこで、わずかに早い西暦1000年ごろの成立といわれる枕草子を調べてみた。新潮日本古典集成本の索引にでている「郭公(ほととぎす)」5件をあたったのだが、「しのび音」という言葉そのものはなかった。わずかにひとつ、卯の花・花橘に忍ぶという意味の箇所が第38段にある。

郭公は、なほさらにいふべきかたなし。いつしかしたり顔にもきこえて、卯の花・花橘などに宿りをして、はた隠れたるも、妬げなる心ばへなり。

 しかし和歌の作品中に急に「しのび音」がでるはずはないので、もっと以前に「しのび音」を使った作品があるはずだ。
 これまでに「しのび音」を探してみた和歌集は、古今和歌集、後撰和歌集、拾遺和歌集のいわゆる三代集、それと、和歌集以外では、枕草子より早いところで伊勢物語、土佐日記、蜻蛉日記をあたったがいずれも「しのび音」はなかった。ただ、蜻蛉日記には「しのび音」そのものは無いが、関連することばはあった。これについては後述。枕草子以後には和泉式部日記(1003年)、更級日記(1020年~1059年)を調べたが、どちらも「しのび音」は出てくる。
 このあたりまで調べて、日本野鳥の会の奥多摩支部の会員で構成するメール仲間にホトトギスの「しのび音」について調査中であると、呼びかけてみた。そしたらすぐに源氏物語と落窪物語の「しのび音」を見つけて、教えて下さる人がいた。それによって新日本古典文学大系の源氏物語5をみる。
 源氏物語の巻52「蜻蛉」にその歌がある。

  忍び音や君もなくらむかひもなき死出のたおさに心かよはば

薫の歌。ほととぎす同様あなたも忍び音をもらして泣いていることであろう、嘆いても仕方のない亡き浮舟のことを思っているならば。
 この歌は4月のホトトギスの「二声ばかり鳴きてわたる」という場面で詠われる。現実のホトトギスが鳴きながら飛んでいったという情景とみえる。しかし歌のほうはそれとは無縁に「忍び音」をもってくる。しかも、忍んでひっそりと鳴く意味の「しのび音」ではない。亡き人を嘆き悲しむ声をホトトギスに掛けている。それはあとで紹介するように、万葉時代からある表現なのだが、そこに「しのび音」をつけた意味がよくわからない。4月だから「しのび音」というすでにできている慣例をそのまま持ってきた感じがする。当時、もうそれだけ使い古されたことばになっていたためか。
 というのも、源氏物語は作品の成立年代自体がはっきりしないので、「しのび音」の登場年を明らかにできないが、一応書いておくと、源氏物語の成立は1001年から1005年の間に起筆されたらしく、全巻の成立は1014年と考えられるという(『日本文学鑑賞辞典-古典編』東京堂出版)。
 もうひとつ、落窪物語の「しのび音」は、

  卯月
  ほとゝぎす待ちつるよひのしのび音はまどろまねどもおどろかれけり

ほととぎすが鳴くのを待つところだった宵のその忍ぶ鳴き声は、(今か今かと期待して)まどろみもしないのにはっと目がさめる思いがしたことだ。
 冒頭に「卯月」としてあり、4月だから「しのび音」ということばを持ってきたらしい。この歌もやはり忍んでひっそりと鳴く意味の「しのび音」ではない。「はっと目がさめる思いがした」くらいはっきり鳴いているわけだから。
 落窪物語の成立はおなじ『日本文学鑑賞辞典-古典編』によれば998年から999年に書かれたとしている。新日本古典文学大系本の解説では「980年代半ばか遅くとも990年代はじめ」ではないか、と推定している。やはり、もうすでに「しのび音」がかなり普及していて、使われ方が拡大した、あるいは乱雑になったとみるべきか。ともあれ、この歌はさきの和泉式部の歌より4~5年はさかのぼっている。
 ではそれ以前には「しのび音」はどうなっていたのか。「しのび音」そのものがなくても、「しのび音」の意味を表わすことば、あるいは、「しのび音」をするという認識を背景にしている歌があるはずだ。それがどういうかたちであらわれるのか。すでに述べたように、当時の和歌の殿堂である古今和歌集、後撰和歌集、拾遺和歌集の三代集には「しのび音」ということばそのものはないのだが、「しのび音」を意味する内容の歌はあるのだった。
 ただし、この3集の成立はそれぞれ古今集905年(他説あり)、後撰集951年、拾遺集1005~1007年だが、その中の歌が作られた年代はまちまちで、万葉集の時代のものもあるし、年代不明の歌も多い。だから歌それぞれは和歌集の成立順ではないので、うっかり「これがしのび音のもっとも古い歌だ」というわけにはいかないのだった。
 まず、古今和歌集であるが、ホトトギスと「しのび音」を結びつける歌はなかった。しかし、ひとつだけ気になる歌をみつけた。

855 なき人の宿に通はば郭公かけてねにのみなくと告げなむ  よみ人しらず

 註釈によると、かけてねにのみなく、の「かけて」は「心を寄せ、慕って」の意で、ねにのみなくは「声をあげて鳴く」の意で、通して「偲びつつ声を張りあげて悲しく鳴く」の意となるという。つまり、ここでのホトトギスは悲しそうに忍び鳴くのではなく、声に出して鳴く、声張りあげて鳴いている。実際に鳴いているのは、人のほうである。ホトトギスのように、大声を張り上げて泣いたというのだ。
 この歌はよみ人しらず、となっていて、年代不祥なので万葉集の時代か平安時代になってからの歌か残念ながらわからない。実はこの「なき人の宿に通はば郭公かけてねにのみなくと告げなむ」の歌は さきの源氏物語の巻52「蜻蛉」のなかの歌、「忍び音や君もなくらむかひもなき死出のたおさに心かよはば」のすぐまえに「宿に通はば」として登場し、亡き人を偲ぶ歌としてふまえている。
 亡き人を偲ぶ場面で声張りあげてはっきり鳴くというのは、万葉時代のホトトギスの歌に近い。
たとえば、万葉集には、

4437 ほととぎすなほも鳴かなむ本つ人懸けつつもとな我を音し泣くも  元正天皇

時鳥よ、どうせ鳴くならもっともっと鳴くがよい。お前は亡き人の名をむやみに呼んだりして、私をやたらと泣かせる。

1956 大和には鳴きてか来らむほととぎす汝が鳴くごとになき人思ほゆ  出典未詳歌

家郷大和には、もう時鳥が来て鳴いていることであろうか。時鳥よ、お前が鳴くたびに亡き人が偲ばれてならない。

 このふたつの歌にみるように、万葉の時代にあっては、あくまでもホトトギスははっきりと、さかんに鳴くと表現される。
 つぎに後撰和歌集を見てみる。「しのび音」はやはりないものの、

150 ほととぎす声待つほどは遠からでしのびに鳴くを聞かぬなる覧  よみ人しらず

ほととぎすの声を待っているとおっしゃるあなたは遠い所にいるわけでもないのに、こっそりと鳴いているほととぎすならぬ私の声をどうしてお聞きになってくださらないのでしょうか。
 つまり、ホトトギスは「しのび音」をするということを前提にしているらしいが、しのびに泣くのはここでは、実はホトトギスにかけて作者、つまり人のほう泣いているのである。しかしこの歌もよみ人しらず、制作年も不明。
 また、4月のうちは木の蔭に隠れて、忍んでいる、ということを前提にしている歌がある。

159 木がくれて五月待つとも郭公羽ならはしに枝うつりせよ  伊勢

まだ四月なので、木の蔭に隠れて五月の来るのを待っている時期だとしても、ほととぎすよ、羽のウォーミング・アップのために枝から枝へ飛び移ってみなさいよ。
 この歌では、ホトトギス自身が忍んでいる、木の蔭に隠れているという意味になっている。ホトトギスは4月のうちはこっそりと、おとなしくしていることになる。この歌も制作年不明だが、「伊勢集」から採られているという。その「伊勢集」も年代がはっきりしないが、後撰和歌集の成立した951年より以前にできた歌ということは確かだ。新日本古典文学大系の後撰和歌集の巻末にある作者名・詞書人名索引によると校注者、片桐洋一氏は、伊勢の「生没年は未詳だが、私は貞観14年(872年)の生れで天慶元年(938年)以降の没と見ている」という。
 これで、ホトトギスには盛んに鳴くまえに忍ぶ時期があるものと考えられていた時代が900年代の前半までさかのぼった。
 さらにもうひとつ、

549 数ならぬみ山隠れの郭公人知れぬ音をなきつゝぞふる  春道の列樹

物の数でもない我が身は山に隠れているほととぎすのようなもの。誰にも知られないような声でこっそり泣きながら過ごしております。
 この歌では、泣いているのは人の方、ホトトギスは隠れている。隠れているから鳴くのにもこっそりと鳴く、という前提になるのだろうか。
 同じ新日本古典文学大系の後撰和歌集の、作者名・詞書人名索引によると、列樹は「つらき」で、春道列樹。「延喜10年(910年)文章生となってから、漢字の知識を必要とするポストを歴任していたが、延喜20年(920年)に没した」とある。これで、少なくとも920年より以前から、和歌の中ではホトトギスはこっそりと隠れている時期がある、と認識されていることになる。
 ただ、「み山隠れ」ということばがちょっとひっかかる。というのは、ホトトギスは五月になってはじめて山から里へ下りてきて鳴くと当時はいわれていたので、「しのび音」というよりは、遠いから、声が届きにくいというほどの意味かもしれない。それはつぎの拾遺和歌集の111番の歌からもうかがえる。

111 葦引(あしひき)の山郭公今日とてや菖蒲の草のねにたてゝ鳴く  延喜御製

 新日本古典文学大系本によると、この歌はあやめの5月になると音を立てて声高く鳴く、という解釈になっている。そして、頭注では「時鳥は、五月になると山から里へ飛来し、声高く鳴くというのが、当時の通念」としている。この歌では、4月に卯の花で忍ぶ、というよりも、4月のうちはまだ山にいるという前提になっているのだ。
 この「延喜御製」というのは、おなじ大系本の人名索引によると、醍醐天皇の作ということで、延喜の年代は901年から923年まで。このあたりが「しのび音」を発生させる前段階、または先駆けのころではないだろうか。
 拾遺和歌集からもうひとつ取り上げておきたいのは、

391 五月雨にならぬ限は郭公何かはなかむしのぶ許に  仙慶法師

 意味は、五月雨のころにならなければ鳴きはしない。(今は)忍び音で鳴くだけで、となる。4月のうちは「しのび音」で鳴くということを前提にしている。この仙慶法師という人物は不詳で、したがって、いつ頃の歌なのかわからない。ほととぎすはしのぶもの、という認識ができてから以後ということになるから、900年代の半ば以降の歌ではないか。
 三代集にはホトトギスの歌は多いものの、「しのび音」に関係のある歌は以上の6首だけだった。
 「しのび音」のはじまりをさらに遡ることはできるのか。その痕跡なりともさぐることはできないか。それには万葉集以後、古今和歌集の成立までのあいだの和歌を調べる必要がある。しかし、その時代、いったいどんな歌集があるのか。岩波や新潮、小学館などの古典文学の全集では万葉集と古今和歌集のあいだを埋めるものがない。万葉集の詠作時期のはっきりしている歌の最後は、大伴家持の、

  新しき年の始の初春の今日降る雪のいや重け吉事

という歌で、これが天平宝字3年(759年)。古今和歌集の成立が905年、この間じつに150年もある。歌の歴史の上にも相当変化していいだけの時間がある。そこで、その間の古典文学の歴史に関する本を見てどんな歌集があるのかさがしてみた。それでわかったのが、『新撰万葉集』上巻寛平5年(893年)下巻延喜13年(913年)、『句題和歌』寛平6年(894年)、『在民部卿行平歌合』(884年から887年の間の成立)といった歌集があることだった。ホトトギスに関しては『新撰万葉集』には13首載っているが、「しのび音」も卯の花も花橘もなく、特に見るべきものは無かった。『句題和歌』もホトトギスの歌が3首あったが、見るべきものはなし。『在民部卿行平歌合』というのは在原業平の兄である行平が主催した歌合ということで、現存する最古の歌合だという。これは全部で23首しかない歌のなかでホトトギスを詠んだ歌が19首ある。そのなかでひとつだけ注意したい歌があった。

  住む里はしのぶの山のほととぎすこのした声ぞしるべなりける

 これは『新編国歌大観』第5巻歌合編に「在民部卿家歌合」という題で収録されているもの。歌のみの羅列で註も解釈もないからどう訳したらいいのか、自信がない。それでも一応試みてみよう。「このした」は木の下、つまり木陰ではないだろうか。「しるべ」は古語辞典によると道案内、道しるべ。木陰でホトトギスの声、その声が道案内になっている。山深い里に忍び住んでいますが、訪ねてくれば山のホトトギスが木陰で鳴いて道案内をしてくれますよ、と解釈してみた。あるいはホトトギス自身に托した歌で、ホトトギスが住んでいるのはしのぶの山で、木陰で鳴いているのがそのしるしです、とでもするか。いずれにしても、木陰で鳴く声とか、しのぶの山といった表現にのちの「しのび音」につながっていきそうな関係性を感じさせる。
 といったわけで、はなはだ曖昧。はっきりとこの時点が、この歌が、「しのび音」発生の源だというわけにはいかなかった。