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ケガレの起源と銅鐸の意味 岩戸神話の読み方と被差別民の起源 餅なし正月の意味と起源

ケガレの起源は射日・招日神話由来の余った危険な太陽であり、それを象徴するのが銅鐸です。銅鐸はアマテラスに置換わりました。

「しのび音」起源考―ホトトギスのしのび音について(2)

2007年09月18日 16時46分15秒 | いろんな疑問について考える
「しのふ」と「しのぶ」
 それなら、「しのび音」は辞書ではどう説明されているのか。そして「しのふ」と「しのび音」の「しのぶ」はいったい、どうちがうのか。まず手元にある『岩波古語辞典』をひく。
 しのび音は「しの・び」の見出し語のなかで「忍び音」として出ている。その①として、「忍び泣きの声。また、声をひそめて泣くこと。~~」とあり、例を更級日記と山家集から一つずつひいている。つぎにその②として、「《姿を隠してかすかに鳴くところから》ホトトギスの初音。『ほととぎす世に隠れたる―を』」として、和泉式部日記から1首紹介している。
 この和泉式部の歌は、

  時鳥世に隠れたる忍び音をいつかは聞かん今日も過ぎなば

で、小町谷照彦『古今和歌集と歌ことば表現』(岩波書店1994年)によると、この時代の通念では時鳥が忍び音で鳴くのは4月晦日までで、「この日(5月1日)から時鳥は梢高く声を張り上げて鳴く」ということにされている。そして「和泉式部は忍ぶ恋の相手の敦道親王を時鳥に見立てて、もし今日が過ぎてしまったならば、親王の人目を忍ぶ通い姿をもう見ることができないから、今日はぜひお越しください」と誘った歌だという。この歌は長保5年(1003年)の4月晦日、5月1日の条に出ている。
 『岩波古語辞典』では、ホトトギスの初音は上のように「姿を隠してかすかに鳴く」ものといい、その鳴き方を習性上のこととして当然の前提と見なしているようだ。それはたとえば、春の鳴き始めのウグイスが、最初はぎこちなく、ヘタな鳴き方をしているという実際の経験からの影響を受けているのではないか。当時ホトトギスはその時期になると山から里へ、さらに都へ出てくると考えられていた。だから、ウグイス同様に最初ははっきりしない声で鳴き出すのだということにされたのではないか。
 しかし、それは観念上のことで、実際にはひっそりと忍んで鳴く「しのび音」なる鳴き声を聴いたものはいなかったはずだ。なぜなら、ホトトギスは夏鳥だから、春先の鳴き初めの時期は東南アジアにいて、日本に来るころにはすでに充分に鳴き慣れているだろう。それは、他の夏鳥についてもおなじだ。たとえばオオルリ、キビタキ、センダイムシクイなど、それらは、みな日本への渡来時期の最初から、みごとなさえずりを聞かせてくれる。それに対して冬鳥として日本に滞在し、春になって北上する鳥、たとえばツグミやシロハラなどは、行った先の繁殖地では夏鳥ということになるが、越冬地では春先にぎこちない声でさえずりがはじまる。
 『岩波古語辞典』の見出し語の「しの・び」については「【忍び・隠び】①じっとこらえる。じっと我慢する。②隠す。秘密にする。」と意味を説明している。そのひとつ前の見出し語が同じく「しの・び」で、「【偲び】《奈良時代にはシノヒと清音》①賞美する。②遠い人、故人などを思慕する。」となっており、いくつかの用例を引いている。そのあと「奈良時代にはsinofiという音で、「忍び」sinobiとは全くの別語だったが、平安時代に入って、それぞれsinofi →sinobi, sinobi→sinobi という音変化を経た結果、連用形どうし、終止形どうしが同音になり、「思慕」と隠忍」という意味上の近似もあって、両語は多少混同され~ 」との説明がつづく。
 つまり、平安時代にはこのふたつのことばはいっしょになってしまったのだ。しかし、それがホトトギス自身の声、「しのび音」に転化するだろうか。「しのふ」と「しのぶ」がいっしょになったということはわかった。しかし、声を聴く側の家持の心の動きである「しのふ」がなぜ時代を経て「しのび音」、つまり鳥の声そのものを形容することになっていったのかの説明にはならない。しかしいまは、そのことはひとまず置いて、「しのび音」という言い方がいつ始まったのか、その時期の特定が可能かどうかを探ってみよう。それによって、なぜ意味がホトトギスそのものの声に転化したのかが、わかるかもしれない。

「しのび音」はいつから現われるか
 ホトトギスの鳴き声について「しのび音」ということばが最初に現われるのはいつか。これまでにはっきりしているのは、先に紹介した、

  時鳥世に隠れたる忍び音をいつかは聞かん今日も過ぎなば

の和泉式部による長保5年(1003年)の歌である。
 そこで、わずかに早い西暦1000年ごろの成立といわれる枕草子を調べてみた。新潮日本古典集成本の索引にでている「郭公(ほととぎす)」5件をあたったのだが、「しのび音」という言葉そのものはなかった。わずかにひとつ、卯の花・花橘に忍ぶという意味の箇所が第38段にある。

郭公は、なほさらにいふべきかたなし。いつしかしたり顔にもきこえて、卯の花・花橘などに宿りをして、はた隠れたるも、妬げなる心ばへなり。

 しかし和歌の作品中に急に「しのび音」がでるはずはないので、もっと以前に「しのび音」を使った作品があるはずだ。
 これまでに「しのび音」を探してみた和歌集は、古今和歌集、後撰和歌集、拾遺和歌集のいわゆる三代集、それと、和歌集以外では、枕草子より早いところで伊勢物語、土佐日記、蜻蛉日記をあたったがいずれも「しのび音」はなかった。ただ、蜻蛉日記には「しのび音」そのものは無いが、関連することばはあった。これについては後述。枕草子以後には和泉式部日記(1003年)、更級日記(1020年~1059年)を調べたが、どちらも「しのび音」は出てくる。
 このあたりまで調べて、日本野鳥の会の奥多摩支部の会員で構成するメール仲間にホトトギスの「しのび音」について調査中であると、呼びかけてみた。そしたらすぐに源氏物語と落窪物語の「しのび音」を見つけて、教えて下さる人がいた。それによって新日本古典文学大系の源氏物語5をみる。
 源氏物語の巻52「蜻蛉」にその歌がある。

  忍び音や君もなくらむかひもなき死出のたおさに心かよはば

薫の歌。ほととぎす同様あなたも忍び音をもらして泣いていることであろう、嘆いても仕方のない亡き浮舟のことを思っているならば。
 この歌は4月のホトトギスの「二声ばかり鳴きてわたる」という場面で詠われる。現実のホトトギスが鳴きながら飛んでいったという情景とみえる。しかし歌のほうはそれとは無縁に「忍び音」をもってくる。しかも、忍んでひっそりと鳴く意味の「しのび音」ではない。亡き人を嘆き悲しむ声をホトトギスに掛けている。それはあとで紹介するように、万葉時代からある表現なのだが、そこに「しのび音」をつけた意味がよくわからない。4月だから「しのび音」というすでにできている慣例をそのまま持ってきた感じがする。当時、もうそれだけ使い古されたことばになっていたためか。
 というのも、源氏物語は作品の成立年代自体がはっきりしないので、「しのび音」の登場年を明らかにできないが、一応書いておくと、源氏物語の成立は1001年から1005年の間に起筆されたらしく、全巻の成立は1014年と考えられるという(『日本文学鑑賞辞典-古典編』東京堂出版)。
 もうひとつ、落窪物語の「しのび音」は、

  卯月
  ほとゝぎす待ちつるよひのしのび音はまどろまねどもおどろかれけり

ほととぎすが鳴くのを待つところだった宵のその忍ぶ鳴き声は、(今か今かと期待して)まどろみもしないのにはっと目がさめる思いがしたことだ。
 冒頭に「卯月」としてあり、4月だから「しのび音」ということばを持ってきたらしい。この歌もやはり忍んでひっそりと鳴く意味の「しのび音」ではない。「はっと目がさめる思いがした」くらいはっきり鳴いているわけだから。
 落窪物語の成立はおなじ『日本文学鑑賞辞典-古典編』によれば998年から999年に書かれたとしている。新日本古典文学大系本の解説では「980年代半ばか遅くとも990年代はじめ」ではないか、と推定している。やはり、もうすでに「しのび音」がかなり普及していて、使われ方が拡大した、あるいは乱雑になったとみるべきか。ともあれ、この歌はさきの和泉式部の歌より4~5年はさかのぼっている。
 ではそれ以前には「しのび音」はどうなっていたのか。「しのび音」そのものがなくても、「しのび音」の意味を表わすことば、あるいは、「しのび音」をするという認識を背景にしている歌があるはずだ。それがどういうかたちであらわれるのか。すでに述べたように、当時の和歌の殿堂である古今和歌集、後撰和歌集、拾遺和歌集の三代集には「しのび音」ということばそのものはないのだが、「しのび音」を意味する内容の歌はあるのだった。
 ただし、この3集の成立はそれぞれ古今集905年(他説あり)、後撰集951年、拾遺集1005~1007年だが、その中の歌が作られた年代はまちまちで、万葉集の時代のものもあるし、年代不明の歌も多い。だから歌それぞれは和歌集の成立順ではないので、うっかり「これがしのび音のもっとも古い歌だ」というわけにはいかないのだった。
 まず、古今和歌集であるが、ホトトギスと「しのび音」を結びつける歌はなかった。しかし、ひとつだけ気になる歌をみつけた。

855 なき人の宿に通はば郭公かけてねにのみなくと告げなむ  よみ人しらず

 註釈によると、かけてねにのみなく、の「かけて」は「心を寄せ、慕って」の意で、ねにのみなくは「声をあげて鳴く」の意で、通して「偲びつつ声を張りあげて悲しく鳴く」の意となるという。つまり、ここでのホトトギスは悲しそうに忍び鳴くのではなく、声に出して鳴く、声張りあげて鳴いている。実際に鳴いているのは、人のほうである。ホトトギスのように、大声を張り上げて泣いたというのだ。
 この歌はよみ人しらず、となっていて、年代不祥なので万葉集の時代か平安時代になってからの歌か残念ながらわからない。実はこの「なき人の宿に通はば郭公かけてねにのみなくと告げなむ」の歌は さきの源氏物語の巻52「蜻蛉」のなかの歌、「忍び音や君もなくらむかひもなき死出のたおさに心かよはば」のすぐまえに「宿に通はば」として登場し、亡き人を偲ぶ歌としてふまえている。
 亡き人を偲ぶ場面で声張りあげてはっきり鳴くというのは、万葉時代のホトトギスの歌に近い。
たとえば、万葉集には、

4437 ほととぎすなほも鳴かなむ本つ人懸けつつもとな我を音し泣くも  元正天皇

時鳥よ、どうせ鳴くならもっともっと鳴くがよい。お前は亡き人の名をむやみに呼んだりして、私をやたらと泣かせる。

1956 大和には鳴きてか来らむほととぎす汝が鳴くごとになき人思ほゆ  出典未詳歌

家郷大和には、もう時鳥が来て鳴いていることであろうか。時鳥よ、お前が鳴くたびに亡き人が偲ばれてならない。

 このふたつの歌にみるように、万葉の時代にあっては、あくまでもホトトギスははっきりと、さかんに鳴くと表現される。
 つぎに後撰和歌集を見てみる。「しのび音」はやはりないものの、

150 ほととぎす声待つほどは遠からでしのびに鳴くを聞かぬなる覧  よみ人しらず

ほととぎすの声を待っているとおっしゃるあなたは遠い所にいるわけでもないのに、こっそりと鳴いているほととぎすならぬ私の声をどうしてお聞きになってくださらないのでしょうか。
 つまり、ホトトギスは「しのび音」をするということを前提にしているらしいが、しのびに泣くのはここでは、実はホトトギスにかけて作者、つまり人のほう泣いているのである。しかしこの歌もよみ人しらず、制作年も不明。
 また、4月のうちは木の蔭に隠れて、忍んでいる、ということを前提にしている歌がある。

159 木がくれて五月待つとも郭公羽ならはしに枝うつりせよ  伊勢

まだ四月なので、木の蔭に隠れて五月の来るのを待っている時期だとしても、ほととぎすよ、羽のウォーミング・アップのために枝から枝へ飛び移ってみなさいよ。
 この歌では、ホトトギス自身が忍んでいる、木の蔭に隠れているという意味になっている。ホトトギスは4月のうちはこっそりと、おとなしくしていることになる。この歌も制作年不明だが、「伊勢集」から採られているという。その「伊勢集」も年代がはっきりしないが、後撰和歌集の成立した951年より以前にできた歌ということは確かだ。新日本古典文学大系の後撰和歌集の巻末にある作者名・詞書人名索引によると校注者、片桐洋一氏は、伊勢の「生没年は未詳だが、私は貞観14年(872年)の生れで天慶元年(938年)以降の没と見ている」という。
 これで、ホトトギスには盛んに鳴くまえに忍ぶ時期があるものと考えられていた時代が900年代の前半までさかのぼった。
 さらにもうひとつ、

549 数ならぬみ山隠れの郭公人知れぬ音をなきつゝぞふる  春道の列樹

物の数でもない我が身は山に隠れているほととぎすのようなもの。誰にも知られないような声でこっそり泣きながら過ごしております。
 この歌では、泣いているのは人の方、ホトトギスは隠れている。隠れているから鳴くのにもこっそりと鳴く、という前提になるのだろうか。
 同じ新日本古典文学大系の後撰和歌集の、作者名・詞書人名索引によると、列樹は「つらき」で、春道列樹。「延喜10年(910年)文章生となってから、漢字の知識を必要とするポストを歴任していたが、延喜20年(920年)に没した」とある。これで、少なくとも920年より以前から、和歌の中ではホトトギスはこっそりと隠れている時期がある、と認識されていることになる。
 ただ、「み山隠れ」ということばがちょっとひっかかる。というのは、ホトトギスは五月になってはじめて山から里へ下りてきて鳴くと当時はいわれていたので、「しのび音」というよりは、遠いから、声が届きにくいというほどの意味かもしれない。それはつぎの拾遺和歌集の111番の歌からもうかがえる。

111 葦引(あしひき)の山郭公今日とてや菖蒲の草のねにたてゝ鳴く  延喜御製

 新日本古典文学大系本によると、この歌はあやめの5月になると音を立てて声高く鳴く、という解釈になっている。そして、頭注では「時鳥は、五月になると山から里へ飛来し、声高く鳴くというのが、当時の通念」としている。この歌では、4月に卯の花で忍ぶ、というよりも、4月のうちはまだ山にいるという前提になっているのだ。
 この「延喜御製」というのは、おなじ大系本の人名索引によると、醍醐天皇の作ということで、延喜の年代は901年から923年まで。このあたりが「しのび音」を発生させる前段階、または先駆けのころではないだろうか。
 拾遺和歌集からもうひとつ取り上げておきたいのは、

391 五月雨にならぬ限は郭公何かはなかむしのぶ許に  仙慶法師

 意味は、五月雨のころにならなければ鳴きはしない。(今は)忍び音で鳴くだけで、となる。4月のうちは「しのび音」で鳴くということを前提にしている。この仙慶法師という人物は不詳で、したがって、いつ頃の歌なのかわからない。ほととぎすはしのぶもの、という認識ができてから以後ということになるから、900年代の半ば以降の歌ではないか。
 三代集にはホトトギスの歌は多いものの、「しのび音」に関係のある歌は以上の6首だけだった。
 「しのび音」のはじまりをさらに遡ることはできるのか。その痕跡なりともさぐることはできないか。それには万葉集以後、古今和歌集の成立までのあいだの和歌を調べる必要がある。しかし、その時代、いったいどんな歌集があるのか。岩波や新潮、小学館などの古典文学の全集では万葉集と古今和歌集のあいだを埋めるものがない。万葉集の詠作時期のはっきりしている歌の最後は、大伴家持の、

  新しき年の始の初春の今日降る雪のいや重け吉事

という歌で、これが天平宝字3年(759年)。古今和歌集の成立が905年、この間じつに150年もある。歌の歴史の上にも相当変化していいだけの時間がある。そこで、その間の古典文学の歴史に関する本を見てどんな歌集があるのかさがしてみた。それでわかったのが、『新撰万葉集』上巻寛平5年(893年)下巻延喜13年(913年)、『句題和歌』寛平6年(894年)、『在民部卿行平歌合』(884年から887年の間の成立)といった歌集があることだった。ホトトギスに関しては『新撰万葉集』には13首載っているが、「しのび音」も卯の花も花橘もなく、特に見るべきものは無かった。『句題和歌』もホトトギスの歌が3首あったが、見るべきものはなし。『在民部卿行平歌合』というのは在原業平の兄である行平が主催した歌合ということで、現存する最古の歌合だという。これは全部で23首しかない歌のなかでホトトギスを詠んだ歌が19首ある。そのなかでひとつだけ注意したい歌があった。

  住む里はしのぶの山のほととぎすこのした声ぞしるべなりける

 これは『新編国歌大観』第5巻歌合編に「在民部卿家歌合」という題で収録されているもの。歌のみの羅列で註も解釈もないからどう訳したらいいのか、自信がない。それでも一応試みてみよう。「このした」は木の下、つまり木陰ではないだろうか。「しるべ」は古語辞典によると道案内、道しるべ。木陰でホトトギスの声、その声が道案内になっている。山深い里に忍び住んでいますが、訪ねてくれば山のホトトギスが木陰で鳴いて道案内をしてくれますよ、と解釈してみた。あるいはホトトギス自身に托した歌で、ホトトギスが住んでいるのはしのぶの山で、木陰で鳴いているのがそのしるしです、とでもするか。いずれにしても、木陰で鳴く声とか、しのぶの山といった表現にのちの「しのび音」につながっていきそうな関係性を感じさせる。
 といったわけで、はなはだ曖昧。はっきりとこの時点が、この歌が、「しのび音」発生の源だというわけにはいかなかった。


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