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ケガレの起源と銅鐸の意味 岩戸神話の読み方と被差別民の起源 餅なし正月の意味と起源

ケガレの起源は射日・招日神話由来の余った危険な太陽であり、それを象徴するのが銅鐸です。銅鐸はアマテラスに置換わりました。

「しのび音」起源考―ホトトギスのしのび音について(1)

2007年09月18日 16時44分17秒 | いろんな疑問について考える
「しのび音」起源考

はじめに
♪うの花のにおう垣根に、時鳥早もきなきて、忍音もらす 夏は来ぬ。
 
 唱歌「夏は来ぬ」は佐佐木信綱の作詞、小山作之助の作曲により、明治29年発行の『新編教育唱歌集5』によって発表された(『日本唱歌集』岩波文庫)。以来こんにちまで永く親しまれている。しかし、この歌詞の意味する情景をよくよく思い浮かべると、一見ありそうにみえるが、実はありそうもない情景となる。
 まず、卯の花の垣根がない。それについて筆者はさきに「卯の花垣はどこにある」のなかで、昔はよくある風景だったらしいが、最近では見られなくなったことについて書いた。その卯の花にほんとうにホトトギスは来るのだろうか、というところで「卯の花垣はどこにある」を終えている。なぜホトトギスが卯の花に来るというのだろうか。しかも、そこで「しのび音」をもらすというのもわかりにくい。そもそも「しのび音」とはどんな鳴き方なのか。そこで「しのび音」ということばの起源を中心にして和歌のなかのホトトギスについて考えてみよう。
 なお、ホトトギスの表記は古典やその註釈の引用は原文にしたがい、それ以外は野鳥の場合も文学上のときもカタカナのホトトギスとした。おなじく、「しのび音」も引用については原文のまま、それ以外は「しのび音」とした。

万葉集のホトトギス
 「夏は来ぬ」の歌詞についてのこれらの疑問は野外で野鳥をみるのを楽しみとするものにとっては当然の疑問ではないか。なぜなら、この歌詞の情景はホトトギスの生態とひとつも結びつかないからだ。ホトトギスは確かに観察のしにくい鳥だ。自然の中でその姿をじっくり見られる機会はすくない。たいていは声が聴こえるだけで終ってしまう。しかし、それにしても「しのび音」なる鳴き声も、思い当たる鳴き方も聞いた事がない。野鳥に関する本でもそんな鳴き方について解説したものには出会ったことがない。
 では多くのホトトギスを詠った和歌のなかで「しのび音」はどう詠われているのか。どういう情景で詠われているのか。どんな声を「しのび音」と表現しているのか。それを確かめることによって、「しのび音」とは何か、そしてその起源はどこにあるのかをさぐってみることにした。
 古来、ホトトギスは数多くの歌人に詠われている。なかでも万葉集には156首の歌があるという。まずは万葉集にホトトギスの「しのび音」をさがすことにしよう。これには川口爽郎著『万葉集の鳥の歌』(北方新社1982年)という便利な本がある。巻末には各鳥ごとにまとめた歌の索引があるので、これを使って、新潮日本古典集成の『万葉集』を見ていくことにした。
 そして、まもなくわかったことは、意外な事に「しのび音」なることばがひとつもないということだった。なぜないのか。万葉の時代、まだホトトギスの「しのび音」という習性に気づいていなかったのか。それとも、やはり「しのび音」などという習性はないということか。いったいそれではどこから、いつの時代から「しのび音」ということばが使われたのだろうか。しかし、万葉集のなかに手がかりが無かったわけではない。
 万葉集の編纂に大きくかかわっていたとされる大伴家持は、またホトトギスの歌を多く詠ったことでも知られている。その家持のホトトギスの歌には、「しのふ」ということばが、しのふ、しのはむ、しのひ、しのひつつ、しのはく、しのはゆ、偲はく、うち偲(じの)ひ、と8つ現われる。うちふたつはホトトギス以外の鳥の声について使っている。「しのふ」は他の歌人によるホトトギスの歌には無く、家持だけに使われていた。これらの家持の歌がいかにも「しのび音」と関係ありそうに思われる。
 新潮日本古典集成の『万葉集』の訳注によると「しのふ」のところは賞美する、めでる、なつかしむ、心引かれる、思い慕うなどと訳している。以下にその8首の歌とその訳を紹介する。各歌の最初の数字は『国歌大観』の歌番号である。

4089 ~百鳥の 来居て鳴く声 春されば 聞きのかなしも いづれをか 別きてしのはむ 卯の花の 咲く月立てば めづらしく 鳴くほととぎす~
さまざまな鳥がやって来て鳴く声、その声は、春になると、聞いてひとしお心にしみる。とりわけどの鳥の声を賞(め)でるというわけにはいかない。やがて卯の花の咲く四月ともなると、懐かしくも鳴く時鳥、~

4090 ゆくへなく ありわたるとも ほととぎす 鳴きし渡らば かくやしのはむ
先の見通しもなく日を送るようなことがあっても、時鳥が鳴きながら飛び渡って行きさえしたら、やはり今と同じに聞き惚れることであろう。

4119 いにしへよ しのひにければ ほととぎす 鳴く声聞きて 恋しきものを
都に住んでいた昔からずっと賞でてきたので、時鳥が今しも鳴く声を聞くと、かえって都恋しい気持でいっぱいになる。

4166 ~鳴く鳥の 声も変らふ 耳に聞き 目に見るごとに うち嘆き 萎(しな)えうらびれ しのひつつ~
鳴く鳥の声も変ってゆく。その鳥の声を耳に聞き、その花の姿を目にするたびに、溜息をつき、深く心打たれて賞でながら~

4168 毎年(としのは)に 来鳴くものゆゑ ほととぎす 聞けばしのはく 逢はぬ日を多み
毎年来て鳴くものなのに、時鳥の声を聞くと何とも懐かしい。その声を耳にしない日が多いので。

4180 ~鳴くほととぎす 初声を 聞けばなつかし あやめぐさ 花橘を 貫き交へ かづらくまでに 里響(とよ)め 鳴き渡れども なほししのはゆ
時鳥は、その初声を聞くと、たまらなく心ひかれる。菖蒲や花橘なんぞを混ぜて糸に通し、蘰にして遊ぶ五月まで、里中響きわたるほどに鳴き渡っているけれども、それでもやっぱり心ひかれてならない。

4195 我がここだ 偲はく知らに ほととぎす いづへの山を 鳴きか越ゆらむ
私がこんなにもひどく恋い焦がれているのも知らないで、時鳥は、今頃どの辺の山を、鳴いて飛び越えているのであろうか。

4196 月立ちし 日より招(を)きつつ うち偲(じの)ひ 待てど来鳴かぬ ほととぎすかも
月が改まった日から、早く来てほしいと心待ちに待っているけれども、いっこうに、来て鳴いてはくれないな、時鳥は。

 4089と4166は一般的に鳥の囀りを「しのふ」つまり賞でると詠んでいるが、それ以外はホトトギスと「しのふ」の組合せである。以上の歌の中の「しのふ」はどれも家持が鳥の声、なかでもホトトギスの声に心を動かされる様、あるいはホトトギスの声をたたえるというもので、ホトトギスの声を聴く立場の家持の気持を現わしているのであって、ホトトギスや鳥の声そのものの鳴き方を表現しているのではない。
 はたして、これが後になって、「しのび音」に転化するのだろうか。その転化していく道すじをたどることができるだろうか。だとしたら、いつ、どのように変化するのか。家持の「しのふ」を起点にして推理してみよう。

シロハラともぐら

2007年09月18日 16時33分04秒 | いろんな疑問について考える
シロハラともぐら
(シロハラはツグミ科の冬鳥で体長24cm、おもに林内で過ごす)
2004年1月28日
 神社への登り道はこのあたりから木の階段になる。階段といっても実質は土留めで、歩幅よりもかなり広い間隔で浅間神社まで続いている。道の脇は落ち葉の斜面で、樹冠をおおっているのはおもにコナラ。林内はヒサカキやアオキが低木層を形成している。
 この付近で今シーズン越冬しているシロハラが、今朝も道のわきにいた。習慣的に双眼鏡をのぞく。と、レンズの中で、シロハラのすぐそばの落ち葉が上下に動いている。息をするように動いている。もぐらが土を盛り上げようとしているのだった。シロハラは自分の目の前のその動く土のほうを見ている。まもなく、ほぐれた土の間からまんまと12~13cmのミミズをつまみとった。つづいて何かわからないが、小さい虫もとった。落ち葉の動きがとまった。もぐらが地上の不審に気づいてやめたのだろうか。
 ルリビタキらしい小鳥が1羽そばを横切った。シロハラはすかさず追って藪へ入ったが、まもなく戻ってきた。
 戻ってきたところは先のモグラのうごめきのところから3mくらい離れていた。すぐ双眼鏡をのぞく。落ち葉が動いている。土が上下に動いている。シロハラは新たなもぐらの動きをとらえて、そこへ直接下りたのだった。
 さらに50cmほど隣りへシロハラは移動。今度はそこの落ち葉が上下している。シロハラはまた小虫をとった。
 この場合、シロハラは確かにもぐらの動きに注目しているし、そこで食事にありつけることを見込んでいたと思える。周囲にはもぐら塚が多い。ここのシロハラはこの冬、何度かはこの手で餌を調達していた可能性もある。
 シロハラには地表のわずかな動きを正確にとらえる能力があるらしい。シロハラのこうした採食法に筆者が気づいたのはこれが初めてである。もぐらを利用するということをシロハラは習性として持っているのか。もぐらの棲息状況とシロハラの越冬場所の選択との間に関係はあるのだろうか。

浪子のやまい-その後-十六六戸の首切り番について-

2007年09月18日 16時30分42秒 | いろんな疑問について考える
浪子のやまい-その後
-十六六戸の首切り番について-

 2年くらい前になるが、古書組合の地元支部の機関誌に「浪子のやまい」と題して拙文を掲載してもらった。その時にひとつの疑問が残って
いた。それについて、新知見が得られたので、ここに続編をつづる。短い文章なので、まずは以前書いたものの全文を載せる。

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浪子のやまい
 仕事がら、よく各地の民俗誌や民俗報告書をあつかう。そういう本でも子どもの民俗にはあまり力を入れていないようにみえる。しかし、なかには昔の子どもの手まり唄や毬つき唄を採集しているのもある。これが読んでみるとなかなか調子がよく、節はわからなくても、数え唄などは口ずさんでみるとおもしろいものがある。こういう唄の歌詞は子どもが思い思いに足したり、替えたり、その時はやっていた言葉を入れてみたりするわけで、これに筋の通った意味など求める必要はない。しかし、なんでこんな文句がついたのだろう、と考えるのもまたおもしろい。で、そんな中で出会った疑問から。
 一番はじめは一の宮 二また日光東照宮 三また佐倉の宗五郎 四また信濃の善光寺 五つは出雲の大社 六つ村々鎮守様 七つ成田の不動様 八つ八幡の八幡宮 九つ高野の弘法さん 十は東京本願寺 これほど信願かけたのに 浪子の病は治らない(『上暮地の民俗』富士吉田市民俗調査報告書5)。
 浪子の病ってなんだろう。浪子っていったいだれのことか。唐突に現われたこの文句が気になってしょうがない。それ以後も各地の民俗誌などを手にするたびに、ついでにわらべ唄が載っていないか注意していた。
 しばらくして同じ種類の数え唄の中で、あとに「鳴いて血をはくほととぎす」という歌詞が続いているのに出会ってハッとした。『日本文学鑑賞辞典近代編』(東京堂出版)を調べたら、やはり徳冨蘆花の小説『不如帰』の浪子だった。数え唄の「浪子の病」は肺結核だった。明治の女の子はお手玉をしながらそう歌っていたのだ。「鳴いて血をはくほととぎす」がどこの報告書に載っていたのか、残念ながら記録しておかなかったが、とにかく疑問がこれでとけたのだった。この数え唄は各地に伝わっているが、たいていは10番までで、内容も似たり寄ったり。でもなかにはもっと長く続くのもあった。10番まではほぼ同じなので省略するが、その先はこうなっている。
 十一越後の信濃川 十二に日本の富士の山 十三笹目のお稲荷さん 十四は四国の金平(金毘羅)さん 十五は五月の幟り立て 十六六戸の首切り番 十七七月お盆様 十八八里の箱根山 十九は栗島すみ子さん 二十で東京二重橋(『惣右衛門の民俗』戸田市史調査報告書4)。
 また唐突に現われたのが「十九は栗島すみ子さん」。これはいったいなんだろう。いきなり脈絡もなく固有名詞が現われるのが、この種の唄の特徴らしい。『不如帰』の浪子がでたりするのだから、やはりこの唄が歌われた当時、有名人で社会的に話題になっていた人物で、それが子どもの遊びの世界にまで入り込んだのだろう。そう思って、こんな時便利なインターネットで検索をかけてみた。すると、簡単に答が出てしまった。ある程度年配の人や映画通ならハナからぴんときたのだろうが、わたしはさっぱりわからなかった。
 ネットの検索によると栗島すみ子は松竹の人気女優で、日本映画界初のスター女優ということで、映画「船頭小唄」や「虞美人草」その他多くの作品に出演していたという。1922年、大正11年には蘆花原作の『不如帰』の映画化で、主役を演じたというわけで、なるほど、それが数え唄に入ってきたのだ。
 だから20番まである『惣右衛門の民俗』のほうの唄は大正11年以後に少なくともその部分が付け加わったということになる。そうするとさきの『上暮地の民俗』に出てくる唄に「浪子の病は治らない」とくっつけて子どもたちが歌ったのは必ずしも原作が世に出た明治33年のあとまもなくとは限らないわけか。『不如帰』は刊行後、社会的反響が強く、劇にもなっていることから、当時の子どもたちに気づかれて、取り入れられた可能性はあるが、むしろ原作よりも映画の影響かもしれない。映画化されてからのほうが、子どもの遊びに取り入れられやすかったとも考えられる。すると、この数え唄の元唄はずっと古いとしても、「浪子の病は治らない」も「十九は栗島すみ子さん」もどちらも映画化以後の子どもたちによって付け加えられた歌詞かもしれない。
 『上暮地の民俗』によると、この数え唄のなかで「浪子の病は治らない」と唄っている伝承者は、滝口かねという人で大正12年生まれ。すでに明治の『不如帰』刊行から20数年たち、映画化された当時の栗島すみ子を知るにも幼すぎる。母親か姉の世代から聴いて受け継いだ唄なのだろう。
 ところで、「十三笹目のお稲荷さん」の笹目は戸田市内の地名だが「十六六戸の首切り番」がわからない。
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 さて「十六六戸の首切り番」について。
 最近手にした本のなかに、「草加市史研究」3号(草加市史編さん委員会 昭和59年)というのがあり、目次を見ていたら、「ロクドウ」という言葉が目に入った。もしや「六戸の首切り番」に関係ないか、戸田と草加は近いではないか、と思ったのだ。論文の題は「葬式組とロクドウ」著者は大塚修二氏という。
 さっそく読んでみて、以下は知り得たこと。
 ロクドウというのは土葬を行なっていた時代の墓穴掘りの名称だった。そして棺桶かつぎもやはりロクドウという。たいていは4人で担当し、村の中を家ごとに順番に役がまわってくる。
 ロクドウという名称は埼玉県東南部、荒川右岸一帯に分布する呼び方で、対岸の千葉県の野田、流山、松戸あたりもそうで、大きくみると、葛飾地方を中心とするあたりの千葉、茨城、埼玉、東京にまたがる地域にひろがる。ただこの論文のもとになっている調査では、ここで問題にしたい戸田市の分布は確認されていない。でも、戸田市の北どなりの浦和市の東部、東どなりの川口市の東部、さらに東の鳩ケ谷市には分布しているので、充分伝わっている可能性がある。
 埼玉県内の他の地方では墓穴掘りのことをトコホリ、アナホリ、タイヤクなどという。タイヤクとは葬式のなかで、もっとも大変な仕事だからそういわれる。アナホリということばは秩父地方で使われているという。
 ロクドウという名称がなぜこの地域に分布しているのかは不明としているが、「アナホリなどという名称とは異なり、<六道>と多分に仏教的な名称であるところから、この名称の普及にはお寺が関与しているようにも思われる」と大塚氏は推定している。
 読んでみてこのロクドウということばの由来はわからないものの、墓穴掘りについての、他のトコホリ、アナホリなど直接その行為を現わしている命名よりも、新しくついたことばのような気がする。それに埼玉県でも東南部というと東京に近く、交通の行き来も北部、西部などよりも密であろうから、新しいことばとしてロクドウが入ってきたと考えられないか。それがいち早く子どもの世界にも入り込んだ。その際ロクドウは数え歌では音が余るのでロクドとつまり、六戸とあてた。ロクドウ、葬式、墓穴、棺桶かつぎ、人の死。人の死といえば首切りという連想は近い。それで「十六六戸の首切り番」。
 念のため広辞苑で六道をひくと「③葬式で棺をかつぐ役の人」と出ている。そうするともっとずっと広く行き渡っている言葉だろうか。六道といえばほかに、六道の辻、辻斬りなどということばが時代劇にでてくる。そのへんからも首切りという子どもらしい残酷さの連想遊びが感じられる。
 『お言葉ですが…⑥イチレツランパン破裂して』(高島俊男2002年)という本に出会った。そのなかで、「イチレツランパン」という数え歌を取り上げている。その十六は「十六牢屋の番兵さん」となっている。この「イチレツランパン」は日本中で流行った数え歌で、各地に替え歌が相当あるので、「十六牢屋の番兵さん」がどれくらいの地域で唄われたのか不明だが、埼玉県の子どもも歌っていたかもしれない。紹介されている歌詞は著者高島俊男氏の出身地兵庫県。ちょっと遠すぎるが、どこそこの番兵さん、なになにの番人などの替え歌もあるのかもしれない。「番」についてはこの番兵さんの「番」が「首切り」にくっついた可能性もある。
 筆者がロクドウに出会う以前に推定したのは、踏切番。むかし、鉄道の踏切ごとに踏切番がいて、手回しのハンドルをまわして遮断機の上げ下げをしていた。ふだんはすぐ脇にある小屋のなかで待機していたものだ。通学の行き帰りの子どもに親しい存在だった。踏切番から首切り番へのことば遊び。六戸は踏切のある地名。その地名が実在すればという仮定である。そう考えたのだが、もうこの推定は棄てていいと思う。

「鳩ぽっぽ」の罪―キジバトの名誉のために―(後)

2007年09月17日 20時26分31秒 | いろんな疑問について考える
④鳩の声と民俗
 ハーンの例が出ているので、まずキジバトから。ハーンの「テテ ポッポー カカ ポッポー」というキジバトの声の聞きなしは島根県松江周辺らしい。それとは少し違う聞きなしだが、「鳩不孝」という昔話がある。『定本柳田国男集』第22巻「野鳥雑記」から紹介する。

昔々ひどい凶作の年に、父は山畑に鋤踏みに出て居り、母は家に居て炒麦の粉を搗いた。それを子供に持たせて遣つた所が、途中の小川を渡らうとして其粉をこぼし、それを川の雑魚が浮いて来て食つた。子供は面白いので今度はわざと少しこぼすと、雑魚がもやもや浮いて来て食つてしまふ。又こぼすと又来て食ふ。そんなことをするうちに時が経つて、哀れ父は餓ゑて山畠で死んでしまつた。少年は之を悔い悲しんで、忽ち山鳩になつたといふので、今でも其季節が来ると斯ういつて啼くと伝へられて居る(奥南新報)。
   デデコーケー、(父よ粉を食へ)
   アッパーツーター(母が搗いた)

 『日本昔話事典』(稲田浩二他編 弘文堂 昭和52年)の「鳩不孝」の項によると、「青森県に採集例が多く、ついで岩手・秋田の2県で、食物不作の年の多かった地域的条件によるものと考えられる」という。これもキジバトの声の哀しさ、寂しさ、切なさを感じる気持ちが背景にあってのことだろう。
 『日本俗信辞典 動植物編』(鈴木棠三 角川書店 昭和57年)の「鳩」の項をみる。鳩の声による天気占いが日本各地にあるが、声を聞くと晴れる、曇ると各地ばらばらである。ほかに「ハトが夜鳴きをすると孕み女が死ぬ」(栃木)、「ハトは鳴き声が病人の唸り声に似ているからハトを飼ってはならない」(神奈川)などがある。
 「相州内郷村話」には「デデッポッポー、マミョォ(豆を)喰いたい」という聞きなしがある(『日本民俗誌大系』8巻 関東)。

 つぎにアオバトについて民俗方面から見ていく。おもにアオバトを見ることの困難さ、にしぼってみる。
 今年2006年2月1日に95歳で死去した高橋喜平。雪の研究でよく知られているが、『遠野物語考』(創樹社 1976年)のなかで「馬追い鳥考」と題して、マオウドリ、つまりアオバトについて書いている。『遠野物語』では第52話にアーホー、アーホーと鳴く馬追い鳥として出てくるが、民俗学方面ではこの鳥が何であるか、不明だった。高橋は「馬追い鳥考」の中で、これより22年まえ、つまり1954年ごろ「不思議な鳥」という随筆を書いており、馬追い鳥つまりアオバトのことを「この鳥をはっきり見たという人は一人もいなかった。もちろん、私も見たいと思いながら、ついに見ることができなかった」とアオバトをみることの困難さを書き留めている。結局は馬追い鳥はアオバトであることを究明する。それは『注釈遠野物語』(遠野常民大学編著 筑摩書房 1997年)にも引用されている。
高橋は調査の過程で川口孫治郎の『自然暦』(日新書院 昭和18年)も調べており、この本で馬追い鳥はアオバトと確信を持ったようだ。
『自然暦』には「423 マオが鳴くと必ず天気がわるくなる。陸奥恐山山中。マオはアオバトの方言。アオバトは霧深き夕方頻りに鳴く」というのがある。さきに菅江真澄の例で紹介したマオドリである。
その川口孫治郎はどうしてマオはアオバトと知ったのだろうか。自分の観察によってか、ひとに教えられてか。というのは、鳥類学者の内田清之助が『野鳥』誌3巻11号掲載の座談会記事で、席上、柳田国男のマオドリとは何か、との質問に答えて、アオバトのことで、東北では一般にそう呼んでいると答えている。川口は『野鳥』誌にも寄稿していたから、この昭和11年11月発行の『野鳥』誌の座談会記事も読んでいたと考えられる。ただし『自然暦』の423が採集されたのがいつだったのかわからない。すでに野鳥観察歴の永い川口だったから、ずっと早くに知っていたかもしれない。川口は翌12年3月19日に65歳で死去している。
では、柳田国男が馬追い鳥はアオバトのことと知る過程はどうだったのか。
『定本柳田国男集』の索引には「青鳩」が1件だけ載っている。第2巻の「秋風帖」、そのなかの「木曽より五箇山へ」に、

鳩啼く。声が里の山鳩とは異なり。青鳩ですよと文六は云ふ。今一人の同行者、あの位うまい鳥はありませんと云ふ。鳩は之に構はず平気で啼く。所謂妻を呼ぶ季節なりと見ゆ。

と、簡潔に記す。「木曽より五箇山へ」は初出が明治42年、雑誌「文章世界」11月号に載ったという。
最初に声を聞いてハトの一種とわかったのか、それとも教えられたから、そののち文章化のさいに初めから鳩としたのか、わからない。ちょっとおどろくのは「里の山鳩」とは異なるというところ。山鳩とはいうが、キジバトは実は山中に入るといない、ということを柳田はすでに知っている。鳩は平気で鳴いているところからして、近くはないようだ。時期は「妻呼ぶ季節」で繁殖期。正確には明治42年5月30日。木曽御岳の山懐、王滝川の上流部。しかし、この時のアオバトの鳴き声と『遠野物語』の馬追い鳥とは柳田のなかで結びつかなかった。
 『注釈遠野物語』によると、この年、明治42年、前年の11月から柳田は佐々木喜善による遠野の話を聞きはじめ、42年の5月におよんで、草稿本を書き終えたところで、5月25日から7月8日まで木曽、飛騨、北陸路の視察旅行に出る。この旅の途中の部分が「木曽より五箇山へ」である。8月には遠野へも行き、その後は『石神問答』の準備から草稿までかかり、43年4月10日以降『遠野物語』の「清書本」を書く。『遠野物語』初版の発行が43年6月。
 昭和5年10月発行の「九州民俗学特輯号」に柳田は「九州の鳥」と題して、寄稿している(定本22巻「野鳥雑記」に収録)。このなかで『遠野物語』の馬追い鳥を紹介しているが、和名についてなどは言及していない。
 そして先の昭和11年、『野鳥』誌での座談会で、内田清之助に質問し、永くわからずにいた馬追い鳥がアオバトであることを知る。さらに昭和13年6月2日となっている松原湖から出された『野鳥』誌の「書信函」欄への手紙で、確認した野鳥の名をあげている。

(松原湖より)六月二日
 この湖岸では色々の鳥をききました。ホトトギス、カッコウ、ツツドリ、オホヨシキリ、ホホジロ、ウグヒス、クロツグミ、カハセミ、カケス、アヲバト、ムクドリ、モズ、サンセウクヒなどはわかりますが、この以外、六つ七つ、わからぬ啼声があります。
昇仙峡では水の音が高くて、鳥の声がきこえませんでした。

『野鳥』(5巻8号 昭和13年)の記載だが、この旅行は『柳田国男伝』(三一書房 柳田国男研究会編 1988年)の別冊年譜には見られない。ささやかな一泊旅行だったか。年譜のその前後には、4月14日に高尾山へ、6月18~21日は信州へ「鳥の声を聴きに行く」との記載がある。してみると、6月20日とするところを『野鳥』誌のは2日にまちがえたか。

 西行ははたしてアオバトを知っていたか。アオバトの見えづらさ、わかりづらさをフィールドでの筆者の経験、それに文献などからいくつかの例を示して、見てきた。

古畑の岨の立つ木にいる鳩の友呼ぶ声のすごき夕暮

 この鳩がアオバトである可能性がほとんどないことは明白になったと思う。「すごき」声だからアオバトだ、というのはまったく拙速な判断と言わざるをえない。

⑤「はとぽっぽ」の罪
 さて、ではなぜ「はとぽっぽ」は罪なのか。それはキジバトとドバトを間違えているからだ。一般に幼児などを相手にして「はとぽっぽ」と呼びかけている、よく群れる鳩はドバトである。ドバトは「ぽっぽ」とは鳴かない。「クックックッ」あるいは「クウクウ」という。
 このまちがいは、明治34年発表の唱歌「鳩ぽっぽ」の作詞者、東くめに始まる。東くめ女史の罪つくりである。

鳩ぽっぽ 鳩ぽっぽ
ポッポポッポと 飛んで来い
お寺の屋根から 下りて来い
豆をやるから みなたべよ
たべてもすぐに かえらずに
ポッポポッポと 鳴いて遊べ

キジバトの声をしたドバトが豆を食べに来るというおかしな詞を作ってしまった。『日本のわらべ唄-民族の幼なごころ』(上笙一郎 三省堂 昭和47年)でこのまちがいを指摘している。「父(でで)っぽっぽ 母(かか)っぽっぽ」というわらべ唄が全国にあるという。作詞者の東くめは和歌山県の出身である。子どものころの記憶か東京へ出てからのことかは不明だが、このわらべ唄が「ぽっぽ」の元であろう。『謎とき名作童謡の誕生』(上田信道 平凡社新書 2002年)も「鳩ぽっぽ」の歌の誕生について詳しいが、鳩の声のまちがいについては触れていない。
 さらに10年後、明治44年に尋常小学唱歌「鳩」が発表される。

ぽっ ぽっ ぽっ 鳩ぽっぽ、
豆がほしいか、そらやるぞ。
みんなで仲善く食べに来い。

 むしろこの歌のほうが「ぽっぽっぽ」を全国民的に普及させたのだろう。このまちがいについては柳田国男も早く「山バトと家バト」(昭和22年)で指摘している(『少年と国語』に所収 定本20巻)。
 街中でよく群れて人に依存しているドバトといっしょにされ、その上声が「ぽっぽっぽ」ではキジバトの声の哀しさ、寂しさ、切なさなど感じられないかもしれない。もはや西行の歌う孤高の鳩ではなくなってしまった。そしてのんびりした声としか思わない人も出てきた。しかしそれは現在でも、キジバトの声に対する感じ方の一面にすぎない。少なくとも詩歌にとってのキジバトは今に至るまでずっと寂しかった。八木説に引用している「その意外さが西行のすごさ」でもなんでもない。歌人にとってはふつうの詠み方感じ方だった。
 それを最近の朝日新聞の歌壇から紹介しよう。

郭公のこえが遠くより聞こえ来て鳩も孤独を知らずごと啼く
(秋田県)山仲 勉 2004年7月19日
図書室の窓まどはもう葉桜で鳩は真昼の孤独を告げる
(横浜市)折津 侑 2005年7月4日
子をあやす娘の唄は低音で裏山に聞く山鳩の声
(姫路市)藤井恵一 2005年8月7日

 最後に秋田県が生んだ鳥類学者、仁部富之助はキジバトをどう聞いたかを紹介しよう。仁部は「キジバトの生態」(『野の鳥の生態』第4巻 大修館書店 昭和54年)の中で「男性的で豪壮なキジバトの鳴き声」と表現している。

ドドッドット、ドドッドット

 こういう感じ方もあったのだ。

「鳩ぽっぽ」の罪―キジバトの名誉のために―(中)

2007年09月17日 20時25分04秒 | いろんな疑問について考える
 『山家集』ではこの歌について季節を明らかにしていない。晩秋か初冬の時期とするのが妥当と思うが、たとえば絵巻ではどうなっているのか。試みに『日本の絵巻19 西行物語絵巻』(中央公論社 1988年)のなかで、この歌の絵がどういう季節になっているかを調べてみることにした。
『西行物語絵巻』によると、西行が葛城山の麓を通って、やがて大和の国にさしかかったところで、時期でもないのに紅葉している木があるので、あれは何かとたずねると「柾の葛」(まさきのかずら)だという。柾の葛というのはテイカカズラ(定家葛)のこととするのが定説で、テイカカズラは実際、4月から初夏にかけてちらほらと紅葉する。しかし絵巻のなかの柾の葛はつる性ではなく喬木で、そこに鳩が2羽描かれている。その場面に3首の歌がある。

かづらきやまさきの色はあきににてよそのこずゑはみどりなるかな
ふるはたのそばのたつきにゐるはとのともよぶこゑのすごきゆふぐれ
ゆふされやひばらがみねをこへゆけばすごくきこゆるやまばとのこゑ

 そうなると、時期は初夏でも木が違う。絵巻のその場面自体は、どうも冬ざれた感じにみえる。絵巻ではもっと前の場面で残雪の吉野や、吉野の桜が出てきたりするので、早春らしい。
それに、西行の歌を任意にかどうか、いろいろ組み合わせて絵巻は構成されているようなので、「古畑のそばの立つ木」の歌と、柾の葛とがおなじ場所である保証はない。
「かづらきや」の歌は「秋に似て」だから秋ではない。「よその梢のみどりなる」ということは春か夏のことになる。場所は葛城と出てくる。一方「古畑のそばの立つ木」の歌の歌われた実際の場所は明らかではない。そのあたりの事情について絵巻ではないが、『西行物語 全訳注』(桑原博史 講談社学術文庫 1999年)では、その解説で「多くの歌を、とか、有名な歌を、とかいう以上に、『物語』の構成上必要な歌を歌集から選択するという作業が」行なわれたと述べている。絵巻についても同様であろう。
 和歌、国文研究者の解釈はどうだろうか。たとえば、『西行法師』(窪田空穂評釈)によると、「秋の夕暮、収穫後の畑の続いてゐるあたりで見懸けた光景である。“古畑のそばの立つ木”といふ荒涼たる境に、群居を習ひとする鳩の一羽だけゐて、友を呼んで啼いてゐるとして、それがさみしい秋の夕暮の中に捉へ直して“凄き”といってゐるのである。」『西行山家集全注解』(渡部保 風間書房 昭和59年)という。「群居を習ひとする鳩」というのはキジバトの習性としてはおかしいが、これは評釈者の空穂自身が、鳩といえば寺社や公園に群れるドバトの様子を先入観としてもっていたものであろう。
 『西行歌の「すごし」-心情表現の様相-』(糸賀きみ江)という論文があった『日本文学研究資料叢書 西行・定家』(有精堂出版 昭和59年)。引用する。

 いったい「すごし」は、背筋に戦慄が走る感じ、また一瞬息をのむ感じをいう語である。それは、荒涼たる寂寞の趣によるもの、嫌悪・恐怖等の不快な感情によるもの、すぐれた風情に対する感動によって惹起される感情で、どちらかというと否定的感情を表わす語であると思われる。

 糸賀氏はそのうえで、つづいて『源氏物語』に現われる36例の「すごし」を分析し、「つまり、季節では秋・冬が多く、時間的には夕暮や夜、気象状態としての風・雨・雪に、また読経の声等に用いられている」と解き明かしている。そして、さらに「古畑のそばの立つ木」の歌について以下のように述べる。

夕暮は何時のそれか不明であるが、先に『源氏物語』の例でも見られたように、「すごし」は、秋や冬の冷えた凄涼の美感であった。また窪田空穂氏の「「古畑の」は、荒れた畑で、今は何も作ってはいない、即ち収穫後の畑と取れる」という指摘もあるので、晩秋初冬の夕暮と考えたい。問題の「すごし」は、「鳩の友呼ぶこゑ」であっても、つまりは、山鳩の声を封じ込めた晩秋初冬の夕暮が「すごし」なのであろう。夕暮の空に、陰にこもってもの憂げになく山鳩の声を「友呼ぶこゑ」と捉えているが、『西行上人集』には「述懐の心を」とあって、これは、孤独感に苦悶する作者自身の声とも看取できよう。

 以上の考察はまことに順当だと思う。冒頭に紹介した八木氏の主張する「~ところがある研究者は、その意外さが西行のすごさなのだ、と勝手に解釈しているのである」という決め付けは的外れであろう。とくに『西行上人集』には「述懐の心を」という添え書きがあって、孤独感に苦悶する作者自身の声でもあると解釈できるとしている。その声がアオバトの「オーアーオー アオー」では台無しである。
 ここまでは現在のキジバトとアオバトの生息状況を根拠にして、西行の「古畑のそばの立つ木」の鳩がアオバトではなく、キジバトであることを検証してきた。それはあくまでも、キジバト、アオバトの基本的な習性が現代と当時とが変っていないことを前提にしている。
 3つ目の歌でも西行は鳩を歌っている。

夕されやひはらの嶺を越え行けば凄くきこゆる山鳩の声

 これも夕方、そして鳩は山鳩である。山鳩というとふつうはキジバトをさす。その山鳩の声が凄く聞こえるのだという。であれば、「古畑のそばの立つ木」の鳩もキジバトにちがいないではないか、といいたいが、「山鳩」はアオバトをさす場合もあるというから簡単にはいかない。それについては③で述べる。

③古典や詩歌に現われる鳩
 まずアオバトについて。
 そもそも西行はアオバトを知っていただろうか。「オーアーオー アオー」と奇妙に、あるいは不気味に鳴いているのを、それが鳩の一種の声だと、はたしてわかっていただろうか。もしわかっていたとすれば、山鳩を詠った「夕されやひはらの嶺を越え行けば凄くきこゆる山鳩の声」の山鳩がアオバトである可能性はある。そうすれば「古畑のそばの立つ木」の鳩も同じくアオバトの可能性がある。
 しかし、西行にはアオバトを知っていた形跡はない。それどころか、西行に限らず、アオバト自体の記録が歴史上非常に少ない。アオバトの存在がはっきりしているのは江戸時代になってからである。声の史料はさらに少ない。『アオバトのふしぎ』(こまたん HSK 2004年)に歴史的にどこまでアオバトの存在をたどれるのかを述べた一章がある。それと『図説日本鳥名由来辞典』とによると、文献記録では13世紀の『平家物語』と11世紀に著された『兼澄集』という書物に「山鳩色」という色名が出て、まさしくアオバトの羽色だという。
 しかし、『アオバトのふしぎ』によると、そのアオバトの色が中国から「山鳩色」という言葉として伝えられたのでなく、わが国のアオバトを見て、そこから生まれた色だと立証できれば、日本にアオバトがいたという証明になるだろう、と慎重である。
 まちがいなく、日本のアオバトだとはっきりしているのは、江戸時代までないらしい。『本朝食鑑』(東洋文庫版)に「山鳩」としてアオバトの特徴が記されている。「頂(あたま)や背は深緑、目の前、觜(くちばし)の後から臆(むね)にかけては黄色、臆(むね)に緑斑毛がある。腹は白くて緑の文(もよう)があり、羽尾は黒く、啄(くちばし)は蒼く、脛・掌は紅い。」
 アオバトの姿にちがいない。しかも、これには声も記されている。もっとも古いアオバトの声の記録かもしれない。だが、それがどうもヘンだ。「声は短く、小児が竿(ふえ)を吹くようだといわれる」としている。それについては島田勇雄訳注の注1で『和漢三才図会』のアオバトが紹介されており、その声は「比宇比宇」と言う如し、という。「ひうひう」と鳴くというのだろうか。だいぶ実際のアオバトとちがうので、ちゃんと声と姿が一致した記録かどうかあやしい。
 そうなると、アオバトの声の記録は菅江真澄までないのだろうか。『アオバトのふしぎ』からの孫引きになるが、菅江真澄の日記、寛政5年(1793年)5月27日「奥の浦うら」に「下北半島の深山で木々の繁みにかくれて、人がものを呼ぶような鳴き声で、あやしく鳴くマオドリを知ったが、この時は実物を確認していなかった」と記されているそうである。はたして、のちには真澄はアオバトの声と姿の一致をみたのだろうか。
 マオドリはアオバトの方言、これも「マオー」と鳴くからで、「魔王鳥」と漢字を当てることもあるのは、声の無気味さによる。
 アオバトの最後に、ちょっと気になる発見があったのでそれを書き留めておこう。『出雲国風土記』の鳩を調べていたら、島根の郡のところに鳩島という名の島があった。場所は島根半島の日本海沿岸、美保関町。合併して松江市になったというが、旧美保関町の方江湾、風土記では「方結(かたえ)の浜」のさきに、鳩島という島があるという。現在もあるのかどうかわからない。2万5千分の1の地形図で見たところ、方江湾付近に鳩島という名はなかった。地図によると湾内に、海岸線が2ヶ所コブ状に張り出しているので、どちらかがあるいは鳩島かもしれない。風土記の記述によると周囲200mほど、いちばん高いところで30mくらいの小島らしい。沿岸で鳩島というのなら、大磯町の照ヶ崎海岸のようにアオバトが海水を飲みに集まる島なのかもしれない。

 つぎにキジバトについて、とくにその声について古典や詩歌の中から見ていこう。古来よりキジバトは日本人にとってどういう鳥だったのか。ことにその声をどんな気持ちで聞いてきたのかがわかる。取り上げる史料は、たんに鳩、山鳩という記述であるが、アオバトである可能性は非常に少ないので、キジバトと見なして差し支えないだろう。
 古事記、日本書紀にはひとつずつ鳩の記述があるが、同じ内容である。『日本国語大辞典』の「した-なき」の項に「~波佐の山の鳩の斯多那岐(シタナキ)に泣く」というのがあり、「した-なき」とは下泣で、心のうちで泣くこと、ひそかに泣くこと、しのびなき、となっている。キジバトのくぐもった感じの声を表しているのであろう。
 『日本国語大辞典』「こもり-ごえ」の項に「新撰六帖2 茂りつつ木深き山の夕暮はこもりこゑにぞ鳩は鳴きける(藤原信実)」とある。「こもり-ごえ」は籠声で、中にこもって外にそれとはっきりわからない声、くぐもり声、ふくみ声、となっている。これもいかにもキジバトの声らしい。藤原信実は鎌倉時代の宮廷画師で歌人。
 「鳩の声身に入(し)みわたる岩戸哉」芭蕉の俳句、身にしむで秋の季語。
 「啼きに来る山鳩寒し柿の色」栗田樗堂。樗堂は芭蕉より約100年後(1749年~1814年)で伊予の俳人。
 近世まではこれしか探せなかったので、これからは近代の作品。

秋さむき唐招提寺鵄尾の上に夕日うすれて山鳩のなく
  佐佐木信綱
ほのかなる通草の花の散るやまに啼く山鳩のこゑの寂しさ
  斉藤茂吉
山鳩の声聞きがたし松原をとよもす風の絶えまなくして
  島木赤彦
ほうほうと山鳩の鳴く村越えて売薬売りは過ぎゆきにけり
  熊谷龍子
堂の扉(と)はかたく閉(さ)したり山鳩のこゑのさみしく屋根に聞ゆる                    窪田空穂

 そして、隅田葉吉に山鳩5首。これは隅田の歌集『野鳥詠草』(日新書院 昭和18年)のなかで、本文にキジバトとことわっている。

家裏に山鳩の声聞ゆなり子よ出て遊べ日あたる庭に
山鳩は夕早く閉(さ)す草家(くさいへ)の外の面(とのも)明りにいまだ啼きをり
篁(たかむら)にまだきより啼く山鳩の一つの声はまぎれやすしも
青桐の林にこもる山鳩は明(あか)き月夜を啼きてやみたり
汝(なれ)も早や老(ふ)けぬと思ふ家妻よ月夜を啼ける山鳩の声

 隅田葉吉の歌集『野鳥詠草』にはアオバトの歌も1首ある。「青鳩の声聞きとめてま淋しき天幕の中に飯食ひをれば」、奥多摩山中での作とある。姿を見ることはできなかったという。
 中西悟堂の『定本野鳥記』にはキジバト3首、アオバト2首がある。野鳥観察者の作だけあってその鳥のいた環境がよく現われている。

白樺の幹ひといろのあたりには雉鳩が鳴くふふみ声あり
原ゆけば翔(た)つ雉鳩が尾の先の白線ひろげ木の方(かた)へゆく
樺の木に鳴く鳩もゐる原ありて先祖(おほおや)杳(とほ)し旅の日ゆけば(雉鳩)
緑鳩(あをばと)が無気味に鳴いて過ぎしより疾(と)き風音が山湖を掠む
   「緑鳩¬=緑色の鳩。オワオー、ワーオと赤児が締め殺されるやうに鳴く」
梅雨くらき伊豆の猿山登るとき陰気に緑鳩(あをばと)の声するまひる

 『賢治鳥類学』によると、宮沢賢治には2首のキジバトの歌があるし、童話にも登場するらしい。アオバトは出てこない。

またひとりはやしに来て鳩のなきまねしかなしきちさき百合の根を掘る
わが眼路の遠き日ごとに山鳩はさびしきうたを送りこすかも

 「グスコーブドリの伝記」では山鳩は睡そうに鳴き出すという。眠そうといえば、改造社の『俳諧歳時記 夏』に「山鳩の声の眠さよ若葉頃」(蓮之)というのがあった。のんびりとした、あるいは眠そうな、というのも確かにキジバトの声から受ける感じだ。
 ラフカディオ・ハーンは『虫の音楽家 小泉八雲コレクション』(池田雅之編訳 ちくま文庫 2005年)の「日本の庭にて」のなかで、キジバトの声を聴くときの心地よさをつぎのように表現している。

 裏の森から毎日のように聞こえてくる山鳩の声は、これまで耳にしたどんな声よりも甘い哀愁を帯びている。出雲の百姓からその鳴き方を教わったが、それを知ってから改めて聞き直してみると、なるほどたしかにそう言っているように聞こえる。
  テテ ポッポー カカ ポッポー
  テテ ポッポー カカ ポッポー
  テテ……(急に鳴き止む)
「テテ」とは「父親」「カカ」は「母親」を意味する赤ん坊言葉で、「ポッポー」も同じように、赤ん坊が「ふところ」を指して使う言葉である。

それから、いつもきまって緑の松林から、夕暮れ時の金色の大気を貫いて、哀愁を帯びた山鳩の包みこむような心地よい声が耳元まで届いてくる。
  テテ ポッポー カカ ポッポー
  テテ ポッポー カカ ポッポー
  テテ……
 西洋の鳩ならこんな鳴き方はしない。日本の山鳩の声を初めて聞いて、心に新たな感動を覚えない人はこの幸せな国に暮らす資格がないといえよう。

とまで言っている。ここまでキジバトの声を賞賛した例を知らない。
 巻末の解説によると、「日本の庭にて」が発表されたのは1900年前後のことらしい。1900年なら明治33年にあたる。童謡の「鳩ぽっぽ」が東くめの作詞、滝廉太郎の作曲で発表されたのが明治34年、ほとんど同じ時期になる。それについては後の⑤で触れることにして、つぎに鳩の声に関する民俗について見てみよう。


「鳩ぽっぽ」の罪―キジバトの名誉のために―(前)

2007年09月17日 20時18分54秒 | いろんな疑問について考える
「鳩ぽっぽ」の罪
―キジバトの名誉のために―

★図表はUPできず★
西行の鳩の歌
 西行の『山家集』に載り、『新古今和歌集』巻十七雑歌にも採られた

  ふるはたのそばの立木にゐるはとの友よぶ声のすごき夕暮

という歌がある。解釈はたとえば新潮日本古典集成の『山家集』では「古畑の近くの崖に立つ木にとまっている鳩が、友を呼んで鳴いている。その声がいかにも荒涼とした感じがする夕暮だよ」。とくにむずかしいところはない。この鳩は山鳩、つまりキジバトを詠っている。ふつうはそう解釈されている。
ところが、いやそうではない、この鳩はアオバトにちがいないと主張する著書に出会った。『鳥のうた-詩歌探鳥記』(八木雄二 平凡社 1998年)である。
 以下に八木氏がアオバトであると主張する部分を紹介しよう。

 古畑(ふるはた)の岨(そば)の立つ木にいる鳩の友呼ぶ声のすごき夕暮

古畑とは、人手を失って荒れた畑。「岨」は切り立った崖。全体に荒涼とした雰囲気である。問題は「鳩」なのだが、このハトをキジバトのことだと思い込んでいる研究者が多いのである。「すごき」というのは、「ぞっとする(冷たさを含んで)感じ」である。あのキジバトのどちらかと言うとのんびりした声からは、そんな思いは到底伝わって来ない。ところがある研究者は、その意外さが西行のすごさなのだ、と勝手に解釈しているのである。
 しかし、このハトはどう見てもアオバトである。アオバトというのは、キジバトと同じ大きさのハトだが、全身新緑の色をしている美しい鳥。南のほうでは留鳥になるが、一般的には夏鳥で、まさに新緑の頃に山で見聞きする。その声を聞いたことのある人なら、このハトはアオバトに違いないと思うはずである。
 実際、アオバトの発する「アーオー」というあの声には、気のふれた女の発する声の甲高さがある。それは間違いなく人をぞっとさせるものである。

 なるほどそうか、と最初は思った。さすがに鳥を知るものだ……。だが、考えてみると、そんな開けたところにアオバトが現われて鳴くなんていうところは見たことがない。
たしかにキジバトの声はいい天気の暖かな午後など、けだるくなるような暢気な声に聞こえる。だからきっと、西行の歌はのんびりしたキジバトなんかの声ではなく、「声のすごき」アオバトであると八木氏は主張している。そしてアオバトの声は異様だ。「オーアーオー アオー」という鳥の声とは思えないような、へんに凄みのある声で、ひとりで山の中で聞くと心細くなるくらいだ。
 しかし、この歌の鳩をアオバトとするには無理がある。だいいちあの「オーアーオー アオー」という鳥の声を西行は鳩の一種の声であるとわかっていただろうか。これもおおいに疑問だ。アオバトの声の異様さに頼りすぎた解釈ではないか。童謡に「ぽっぽっぽっ 鳩ぽっぽ」というのがあるが、このソフトでのんびりした、あるいはやや滑稽な印象を持たせる歌詞の文部省唱歌「鳩」が広く知られていることも影響しているかと思う。くわえて最近のキジバトはドバト化しているといわれる。そんな緊張感のない鳥、童謡にうたわれる鳥、という印象がさきに立っているのではないか。だからこれはキジバトではなくアオバトに違いないと。
 そんな先入観を取り去って、キジバトの声を聞くと、これもすごいのである。ことに、小雨の中や夕方など、1羽くぐもった声で孤独に鳴く姿などは、かなり寂しく、もの悲しく、真に迫るものがある。筆者はやはりこの西行の鳩の歌はキジバトと解釈したい。しかし個人の思いを述べても仕方がない。
 そこで、冒頭の歌の鳩をアオバトとするのは無理で、キジバトであること。その検証とキジバトの名誉のために、アオバトとキジバトについてさまざまな角度から考えてみよう。
 まず、①と②でキジバトとアオバトの野鳥としての生態的な比較を試みる。つぎに③で、古典や詩歌に現われる鳩から、日本人がキジバトの声をどう聞いてきたのかについて。④では民俗の方面からキジバト、アオバトの声を辿ってみる。そして⑤では童謡にある「ぽっぽっぽ 鳩ぽっぽ」の罪、そのまちがいについて考える。

①野鳥としてのキジバト、アオバト
 キジバトはどこにでもいるので、今さら説明するまでもないようだが、アオバトはそうでもない。そこで、一応両種の鳥について図鑑の説明の中から生息環境に関するところを引用しておこう。『フィールドガイド日本の野鳥 増補版』(日本野鳥の会 1994年)によると、キジバトは、

全国的に留鳥として分布し、平地から山地の林にすみ、市街地の庭や公園にもいる。(略)地上を歩いて植物質の餌をとるが、樹上で木の実を食べることもある。

アオバトは、

種子島以北の平地から山地のよく茂った広葉樹林にすみ、北の地方のものは冬は暖地へ移る。樹上で木の実を食べるが、地上に下りることもある。海岸の岩に下りて海水を飲む例が多く知られている。

 以上の説明では大まかすぎて、どちらがどの程度多いのか、いつ多いのか、どんな環境に多いのか、よく鳴くのはいつなのかなど、この問題における比較の材料にはならない。そこで、筆者が日ごろ野外観察で集めたデータを使って比較をしてみよう。

表1:草花丘陵での全観察日数におけるキジバト、アオバトの出現率(2005年は11月まで)
年 キジバトの記録日数 出現率 アオバトの記録日数 出現率 全日数
2003 138 0.47 20 0.07 295
2004 115 0.37 25 0.08 313
2005 93 0.35 12 0.04 265

表2:鷹ノ巣山での鳥類センサスにおけるキジバト、アオバトの記録数
キジバトを記録した5件の標高は610~760m。アオバトを記録した18件の標高は630~1650m。
年 キジバトの記録件数 アオバトの記録件数 センサス日数
1994~98 5 18 48

 表1は早朝散歩をしている近くの草花丘陵での最近の3年間の記録。キジバトは1年中いつもいるのだが、歩いている1~2時間の間に声でも姿でも、とにかく存在を確認する率は2~3日で1日の割合。これは個体数ではないから、1日といっても1羽ではない。複数羽、あるいは複数回の出会いのこともある。毎回記録されてもよさそうなものだが、丘陵の中だけ歩いていると、案外出会わない。むしろ、林縁や森の外の開けた環境に多い鳥で、すぐ下の多摩川の堤防でもついでに歩けば、ぐっと記録数は増えるはずだ。
それに対してアオバトの存在を確認する率はキジバトより一けた少ない。10回歩いても1回もないかもしれない。しかも、姿が見られることは滅多にない。草花丘陵の場合で、アオバトの記録日数の合計は約3年間で57日、そのうち姿を見たのは4件にすぎない。あとは声の確認だけ。尾根の上のほうで鳴いているのを沢筋で聞いたり、樹林の奥のほうから聞こえてきたり、どちらか方向さえわからないような聞こえ方をしたり、たいていは遠くで鳴いている。しかも姿と声が一致したことはない。つまり鳴いているアオバトを見たことがない。草花丘陵に限らず、鳴いているアオバトを筆者はまだ見たことがない。
 表2は奥多摩の鷹ノ巣山で野鳥の数を数えたときの記録のうち、キジバトとアオバトの件数。3年8ヶ月の間に月1回を目安に歩いた。鷹ノ巣山は標高1736m、登山口の標高は610m。いったん日原川へ下りるので、実際には550mから登り始める。そのうちキジバトの記録はわずかに5件で、全部山麓部のこと。キジバトは通称山鳩ともいうが、実際には山の中にはあまりいない。アオバトは多くはないが、18件あった。標高は630~1650m。ただしたいていは声が遠いので、実際にいた地点の標高は、観察地点とずれがある(第2図参照)。でもデータを見ると、山の上から下までよく分布している。18件のうち見たのは1回だけで、ほとんどは遠くに声を聞いただけ。なお、表2と表4でデータ数が1件ちがうのは1350mの2件がダブルため。
 街中の記録としては、羽村市内で野鳥の数をかぞえていたとき、まる3年のうちに1回だけアオバトの声を聞いた。2000年7月12日。調査日数216日分の1日。それも遠くに聞いただけだった。
 つまり、アオバトは樹林にいる鳥で、開けた場所にはなかなか出てこないということ。声が非常に印象的だが、海岸で海水を飲むという場所ならともかく、姿を見ることは稀。だから知らないとハトの声とは思えないかもしれない。
 キジバトとアオバト、その生息状況の違いについて、『Strix』 VOL.17(日本野鳥の会 1999年 藤巻裕蔵:北海道中部・南東部におけるキジバトとアオバトの生息状況)からも紹介しよう。調査地は北海道だが、おおよその状況は似ている。

キジバトは森林から農耕地、住宅地まで広い範囲にわたって生息しており、生息数は森林より農耕地で多かった。これに対し、アオバトはおもに森林に生息しているが、全般にキジバトより少なく、農耕地では森林におけるよりさらに少なく、住宅地には生息しなかった。

 以上のように、キジバトに対してアオバトは農耕地などの開けたところへ出ない、山でも姿はなかなか見られない。したがって「古畑の岨の立つ木にいる鳩」がアオバトである可能性は非常に少ない。くわえてキジバトはあまり群れないが、アオバトは単独でいることは少ない。まして周囲から良く見える立ち木に1羽で止まって鳴いているという情景は、ほとんど考えられない。
 日本野鳥の会の戦前の『野鳥』誌が復刻されている。アオバトの記事は少ない。そのなかで10巻2号、昭和18年2月号に「海と緑鳩(あをばと)」(佐々木勇)と題して小樽の張碓海岸に海水を飲みに集まるアオバトの生態観察記録がある。
 記事のなかに「張碓の土地の者はマオ又はマオドリと呼んで居て、鳩だとは思つて居ない。何か別な種類の鳥として取扱はれて来たのである」と記し、「オーアーオー アオー」と鳴くこの鳥とハトとを一般の人は結びつけていないのだと述べている。また、この当時でも未だアオバトの巣が発見されていない。警戒心が強く、非常に観察のむずかしい鳥だからである。
 これより先、同じく『野鳥』誌6巻5号(昭和14年)にアオバトの営巣の記事がある。野鳥研究家で写真家の下村兼史が高知県へヤイロチョウの巣を撮影に行き「幸運と云ふか、皮肉と云ふか、そのときアヲバトの巣はヤイロテウの巣の殆んど真上と云ひたい位の箇所にあつた」と偶然に発見された時の状況を伝えている。しかし高木の枝先で登ることは不可能、樹木の上部を切り落とすこともできず、直接観察も撮影も断念した、とある。

②キジバトとアオバトのさえずる時期
 つぎに「古畑の岨の立つ木にいる鳩」が鳴いていたのはいつだったのか。その季節を考えてみよう。
 まずキジバトはほぼ1年中鳴く。正確には11月から12月にかけて滅多に鳴かなくなる時期はあるが、それでもまったく鳴かないということはなさそうだ。第1図では羽村市内の観察データを使ってその状況をグラフに示した。9月まではよく鳴いていたのが、10月からぐっと減って11月が底になり、その後春にかけてまた鳴くようになる様子がわかる。春よりも秋口へかけてむしろよく鳴くという結果になっている。こういう曲線を描く囀り習性はめずらしいかもしれない。ほかの鳥種ではたいてい春から初夏に囀りのピークが来るし、全く囀らない期間があるのだが。キジバトの永い繁殖期を象徴しているのか。3年ともほぼ同じ曲線を描いているので、これがキジバトの囀り習性といっていいのだろう。












 

表3:草花丘陵でのアオバトの囀り記録数
月 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12
囀り数   1 3 5 17 12 6 4 6 4 5  

つぎにアオバトの囀り時期を見てみる。
 表3は草花丘陵でのアオバトの囀りの記録。5、6月を中心に春から夏に多いが、秋にも稀ではないことを示している。ただアオバトの囀り記録の少ないなかでのこの秋の傾向で、聴ける機会の稀なことに変わりはない。
 第2図の鷹ノ巣山では4月から10月に記録がある。春から夏にかけて多いのは草花丘陵とも、また他の鳥種とも似るが、秋へかけてもやや囀る傾向がここでも見える。だがしかし、9月10月で計3回であるから、やはり稀なことに変わりはない。冬には記録がない。ただし、11月から3月まで記録がないのは、その間いないということではない。冬に、まだ新しい落ち羽をひろったことがある。
 また、日本野鳥の会神奈川支部の『神奈川県鳥類目録』の2集、3集の2冊には11月から冬期の間に合計5件の囀り記録がある。
 なぜ秋冬のアオバトの囀りにこだわるのか。それは西行が「古畑の岨の立つ木にいる」鳩を見たのは晩秋から初冬と考えられるからだ。

アオサギは青くない

2007年09月17日 10時38分31秒 | いろんな疑問について考える
アオサギは青くない

 早朝散歩で行き会う知人に「青くないのにどうしてアオサギって言うんでしょうね」と質問された。
 「昔は青という色の意味にはかなり幅があったらしいです」というような答えをしておいたが、なぜそうなのか、自分でもよくわからない。灰色っぽいのを青ともいうし、緑の葉を青葉というし、青信号は緑だし(最近はそうでもないが)、青臭い、青二才などともいう。
なぜ「アオ」がそんなに幅のある、あいまいな言葉だったのか。そこで「アオ」について調べてみたので、この辺で少し整理してみよう。
 例によって辞書を引いてみる。まず『広辞苑』では「あお」の項目で括弧つきで、(一説に、古代日本語では、固有の色名としては、アカ・クロ・シロ・アオがあるのみで、それは明・暗・顕・漠を原義とするという。本来は灰色がかった白色をいうらしい)として「アオ」はもともと漠として、はっきりしない、ぼんやりした色調をいう言葉であるらしい。これはアオサギの羽色をよく現わしている。他の白鷺類にくらべると、確かに白っぽい灰色の地にやや青みのある灰色の濃淡をした背中や首の色をしている。
括弧つきのこの一説というのは、佐竹昭広氏の「古代日本語における色名の性格」(『萬葉集抜書』岩波書店 1980年)のことのようだ。
 『日本国語大辞典』の「あお」の項目では、「①本来は、黒と白との中間の範囲を示す広い色名で、主に青、緑、藍をさし、時には、黒、白をもさした。(略)」とし、こうなると赤系統以外はなんでも「アオ」でよかったという感じ。
 では実際にどんな「アオ」があるのか、『万葉集』からつぎの3首を引いてみよう。以下はすべて集英社文庫の『萬葉集釋注』(伊藤博 2005年)による。
161 北山に たなびく雲の 青雲の 星離れ行き 月を離れて
 北山にたなびく雲、その青い雲が、ああ星を離れて行き、月からも離れて行ってしまって……
補注によると、青雲は灰色の雲。
4204 我が背子が 捧げて持てる ほほがしは あたかも似るか、青き蓋(きぬがさ)
 あなたさまが、捧げて持っておいでのほおがしわ、このほおがしわは、まことにもってそっくりですね、青い蓋(きぬがさ)に。
補注によると、「蓋」は貴人のうしろからさしかける、絹などを張った大型の傘。一位の貴人が使う色は深緑と決まっているので、この場合の「アオ」は緑という。「ほおがしわ」はホオノキ。
4494 水鳥の 鴨の羽色の 青馬を 今日見る人は 限りなしといふ
 水鳥の鴨の羽の色のような青、そのめでたい青馬を今日見る人は、命限りなしと言います。
補注では、青馬は「葦毛の馬。中古以来「白馬」と書く」とあり、白ではあるが、他の色もまざっているらしい。『広辞苑』では、「葦毛」とは「~白い毛に黒色・濃褐色などの差し毛のあるもの」と説明している。この場合は白なのか、濁りのある白、あるいは青みのある白なのか、よくわからない。それに「水鳥の鴨の羽の色のような青」というのは真っ青なのか、緑なのか。補注ではマガモの雄の緑色に光る頭の羽色を想定しているが、それでは青馬であらわす「白馬」あるいは「葦毛の馬」の色と違いすぎるのではないか。
 灰色の雲、緑の傘、白馬あるいは葦毛の馬、これらをどれも「アオ」い色といっている。青い雲というのは違和感があるが、あとのふたつは現在でも実際こんな言い方をしている。青雲の志なんてのもあるか。青葉、青菜、青臭い、青ざめる、馬のことを単に「アオ」ともいう。この中で「青色」の青はひとつもない。
 ところで青くないアオサギがいつからアオサギと呼ばれているか。『図説日本鳥名由来辞典』によると、平安時代には記録があるという。奈良時代には「みとさぎ」という名が知られている。「アオサギ」とともに、永く「みとさぎ」の名も使われていて、明治時代の鳥類目録でも「アオサギ」と「ミトサギ」を並記するものがあったが、やがて「アオサギ」に統一された、という。「みとさぎ」の語源はたぶん「水門(みと)」にいる鷺だろう。「水門(みと)」とは「川のまん中」あるいは「川の流れ」を意味する。アオサギはよく川の流れの中に立っている。
 『大言海』では「緑鷺」みどりさぎ―みとさぎ、との説をとっているというが、緑色みはまったく無いのだから、「緑鷺」の名の起こりようがない。かりに「緑鷺」の名があったとしたら、緑は「アオ」というのだから、流れとしてはアオサギへの変化ではないか。
 「アオ」で現わす言葉は現在でも日常のなかにかなりある。鳥の名にかぎっても、アオアシシギ、アオゲラ、アオサギ、アオジ、アオシギ、アオツラカツオドリ、アオバズク、アオバト、ズアオホオジロ、などが図鑑を引くと出てくるが、青いのはアオツラカツオドリの雄の顔だけだった。
 ほんとに青い場合には「瑠璃」を使っている。オオルリ、コルリ、ルリビタキ、ルリカケス。「アオ」ではアイマイすぎて、「青」を表現できないらしい。

サイカチは刃褐(さいかち)ーサイカチの語源について

2007年09月17日 10時36分41秒 | いろんな疑問について考える
サイカチは刃褐(さいかち)
-サイカチの語源について-

 『動物のフォークロア-「遠野物語」と動物』(遠野物語研究所 2002年)という本を読んでいて、いくつか興味深い記述に出会った。
 そのなかのひとつが、「サイというのは刃物です。」(第2講 日本人の動物観-その構図と民俗 野本寛一)というくだりだった。では「カチ」とは何か。『岩波古語辞典』を引いたら「濃い紺色」とあった。サイカチは「濃い紺色をした刃物」。この数年抱いていた疑問が一気に氷解した瞬間だった。
 サイカチの木は当地ではあまり多くはないが、筆者の行動圏では存在感のある木が2本ある。6月ごろ咲く花は、細かく、うす黄色の目立たない花だが、秋になると20~30センチもある大きな莢ができて、熟すと青黒い褐色になり、それがゆがんで波打つ姿はかなり目立つ。
 従来、サイカチの語源については、たとえば『原色牧野植物大図鑑』(北隆館)では「和名は古名西海子(さいかいし)の転化」としてある。『山渓ハンディ図鑑4 樹に咲く花 離弁花2』では、「名前の由来」として「漢薬名の皀角子、または古名の西海子がなまったもの」となっていて、これらは『大言海』から引いているらしい。その『大言海』では「さいかくし―さいかいし―さいかち」と転化したと説明している。
 たいていの本は『大言海』の説を引いて、それで済ませている。『語源辞典 植物編』(吉田金彦 東京堂出版 2001年)では、
『大言海』には「皀角子(サウカクシ)、サイカイシ、サイカチと転じたる語」として皀は黒、角は莢(さや)、子(し)は実だと解しているが、角子(かくし)→カチの変化に無理がある。
として、異を唱え、代わりに
若葉が食用になることを考えると、備荒食品として考える余地がある。若葉を野菜(さい)として救荒食の糧(かて)とし糅飯(かてめし)などに使ったことから、サイカチ(皀莢)はサイカテ(菜糧)の変ではなかろうか
との説を提出している。
 一理あるが、サイ―カチのままで単純明快な説明が成り立つと思うと、もはや吉田説もこじつけのように見える。
 サイカチの語源は、「熟すと『紫褐色になる刃の形をした実』のなる木」でいいのではないか。

②「サイ」とは何か
 まず、「さい」を『日本国語大辞典』で引いてみると、「①刀や小刀の類。けずったりそいだりするために用いる小刀。剣。→鋤持神(さいもちのかみ)(以下略)②鋤(すき)の類。播磨風土記-揖保「佐比(さひ)岡、佐比と名づくる所以(ゆゑ)は、(~略~)佐比(サヒ)を作りて祭りし処を、即ち佐比岡と号(なづ)く」。
だいぶ省略したが、「鋤持神」というのは『日本書紀』にでてくる神で、『古事記』では「佐比持の神」といい、これは鮫のことで、刃物を持った神、つまり鮫の殺傷力を象徴していると思われると、さきの『動物のフォークロア-「遠野物語」と動物』で野本氏は述べている。
 「サイ」が刃物だというのは初めて知った。ではなぜ刃物のことを「サイ」というのか。その語源については『日本国語大辞典』でも、いくつか説があって、はっきりしていない。そこまでは見当がつかないが、「サイ」が刃物である理由は「鞘」という言葉からさかのぼって考えられる。
 なぜ刃物の入れ物を「サヤ」というのか。それは「サイの屋」だから、と考えられる。「サイ―ヤ」がつまって「サヤ」。これについても、『日本国語大辞典』の「さや」のところには複数の語源説が紹介されており、①サヤ(狭屋)②サヤ(小屋)またはサヤ(障刃)③サヤ(刃室)④サヒヤ(鋤屋)、その他にもいくつか説をあげている。
 押したいのは、④サヒヤ(鋤屋)である。刃がさきにある、すでにある、それでは物騒だからサイの屋が必要になる。それがサヤになった。
 では、なぜ「屋」なのか。「屋」は「屋根」の「や」。「や」には重なるという意味がある。両方からあるいは四方から寄ってきて重なる。寄って重なったものが「屋」となって、中に大事なものが納まる。これは豆類の莢に通じる。両方から合わさって、中に豆を納める。だから莢と鞘は共通している。
 「や」についてもう少し考えてみると、「谷」を「や」という。これもあるいは同じではないか。山の尾根と尾根が寄ってきて、合わさるところに谷が出来る。やち、やつ、やとの「や」である。『常陸国風土記』の「夜刀の神」の住むところ。「夜刀」は「谷戸」、『風土記』(平凡社ライブラリー 吉野裕訳 2005年)の「常陸国風土記」の注に「夜刀は谷戸。現在関東東北方言にいうヤチ・ヤツで、谷間の入口の低湿地帯をいう」とある。最近、見直されている里山の谷津田もこれで、かならず中を小川が流れている。
ついでに言えば、小川のこの水の流れが「谷戸」の「戸」ではないだろうか。「谷間の入口」としているのは「と」とは川門(かわと)、水門(みと・みなと)など、川の入口、河口を意味するからだろうが、ほかに、水が流れている所をも意味すると、これも『日本国語大辞典』にある。瀬戸の「戸」である。
 以上、刃物を意味する「サイ」を「鞘」から逆にたどることで、「サイ」が刃物であることを確かめてみた。

③「カチ」とは何か
 「かち」はたとえば『岩波古語辞典』をひくと、「「褐」濃い紺色。近世では墨で下染した上へ藍をかけて染める。転じて「かちん」とも。」と説明している。また『日本国語大辞典』では、「濃い、藍(あい)色。藍色の、黒く見えるほど濃いもの。濃紺色」であり、ほぼ同じ色合いを説明している。さらに『色の日本史』(淡交社 長崎盛輝 昭和51年)から引用すると、

「褐」 紺を更に濃くした藍染の色をいい、後世では勝色、かちん色と呼んでいる。「かち」は藍を濃く染めるために被染物を搗(か)つ(つくこと)からきた名称であり、「褐」は借字である。この色に「褐」をあてたことについて、江戸時代の『貞丈雑記』に「かちん色といふは黒き色をいふ。古異国より褐布といふもの渡りけり。其色黒きが故に黒色をかち色ともかつ色ともいふ」とあるが、褐はもともと粗い黒ずんだ茶色の毛布のことであるから、藍色に関係のないものである。「搗つ」と同音のために借りたものである。褐色というのはその織物の色からきた茶色を指す。
 
として、何度もついて、濃くした藍染の色だという。色見本帳を見ると、実際、濃紺色というか青黒い色で、これがサイカチの実の色に近い。
 サイカチの実、つまり莢は紫がかった黒褐色で、中の種はこれも紫みをおびた褐色をしている。だからサイカチとは「かち」色をした刃物に似た莢をならせる木、となる。
 こんなに単純で、しかも実物をそのまま表現している語源でいいのだろうか。あるいは、なにかとんでもない間違いをしていないだろうか。かえって不安になるくらいだ。
 「さいかくし―さいかいし―さいかち」と転化したという、これまでの語源説は、「さい―かち」のもとの意味がすでに忘れられて、のちに入ってきた中国産のシナノサイカチの実からとる漢方薬である角刺(そうかくし)または角子に音の近いのを幸いに、由来のよりどころとしたのではないか。元の意味が忘れられたために、中国名に付会された語源説。サイカチはサイカチのままでじつはよかったのではないか。なお引用した本のとおりに使っているが、と皀は別字という。サイカチに用いるのは正しくはのほうらしい。

オナガのいるところ、いたところ―斎藤茂吉の短歌から(後)

2007年09月17日 10時11分56秒 | いろんな疑問について考える

 つぎにインターネットのホームページから最近のオナガの状況をいくつか取り上げる。
○1994年~2003年の調査 飯田市環境情報ホームページ
指標動植物調査の分布図があり、オナガは市内の平野部に広く分布するが、天竜川の西側に多く、東側で少ない。
解説によると西側が人口の多い地域とのこと。1978年の全国鳥類調査では記録されなかったが、同じ年に別の調査で初めて確認されており、伊那谷南部に南下、進出しているという。果樹園の拡大とともに南下してきたとしている。
○1999年までの状況 福井県みどりのデータバンク
「本県では,奥越地域を含む嶺北地方で周年、観察され、嶺南地方では見られない。平野部の林地、河川敷や集落の屋敷林でよく見られる」と記述されている。これは『福井県のすぐれた自然(動物編、植物編、地形地質編)』福井県発行1999年、が出典となっている。嶺北地方というのは福井県の真ん中から北東の広い部分、嶺南地方が若狭湾に面した、南西の狭い部分のことだという。分布状況は1978年当時の『鳥類繁殖地図調査1978』のときとかわっていないようだ。
○日本野鳥の会の各支部から
オナガの分布が流動的な地域だけを見たのだが、石川県では2006年に記録があり、岐阜県では飛騨地方に1977年に繁殖した記録があるものの、その後の様子も現在の状況もわからなかった。
 
 それぞれの記録を紹介しながら気づいたことを書いてきたが、ここで全体をふり返ってみよう。
 たまたま書き留められていたような記録ばかりで、ある地域でのオナガの消長を示すような継続的なデータは見つからなかった。全体としてもデータが少なく、確実なことはいえそうもない。探し得たうちでもっとも古い1892年5月(明治25年)の和歌山県以来、オナガの分布は近年まで拡大していたように見える。各地の記録のなかから分布の拡大を示す内容の年を列記すると、1939年の軽井沢、1941年の御殿場、1945年から54年の三陸沿岸、1967年の諏訪盆地、1969年の山梨県内と御殿場、1970年の箱根や丹沢、1972年の山形県内、1980年の鎌倉、1998年の静岡、2003年までの飯田などがある。
 関東地方はともかくとして、長野や山梨ではいつごろからオナガはいたのか。長野県では1925年(大正14年)に松代町での若山牧水の歌があるように、また昭和10年代の県北や軽井沢でふつうの鳥だったらしいことから、遅くとも大正の初年ころにはすでに進入していたと考えられる。なにか資料があってもよさそうな気がするが。
山梨県では1969年ごろ、「各地で果樹栽培がさかんになってきたこのごろでは、著しい繁殖を見せて、全県下において見ることができるようになった」と記し、以前は数も少なく、分布も限定されていたという。永いあいだ細々と生息していたのか、それとも甲府盆地への進入があまり古いことではなかったのか、これもわからない。長野県への進入よりも後だったのかもしれない。桂川流域の郡内地方は甲府盆地と神奈川県との間にあり、東京都にも近いので、かなり古くからオナガがいたと考えられる。1934年(昭和9年)の山梨県山中湖畔で繁殖しているのだから、やはり大正時代にはすでにいたのだろう。
北陸をみると、川口孫治郎の記録に富山県大山町有峰のオナガがいる。1933年(昭和8年)よりかなりさかのぼるらしい。『野鳥』第4巻第9号(昭和12年)にある川口孫治郎の年譜をみると、富山県大山町有峰を訪れた記録は載ってないが、大正4年10月から7年3月までの2年半、岐阜県飛騨地方に赴任している。そのあとは九州に赴任する。だからたぶんこの期間内のいつかに訪れたのだろう。
それに『野鳥』第2巻第1号の川口による「有峰に於ける鳥類の過去と現在と未来」には、有峰にはほとんどの場合、岐阜県側から入ると述べている。「富山県庁の諸君でも、(高山本線で岐阜県との境に近い猪谷駅で下りて)一旦岐阜県に入つて」、岐阜県船津町を経由して入るのが唯一の道だという。そうすると有峰のオナガは大正4年から7年のことになる。『野鳥』に記載されている鳥相をみると、夏鳥も冬鳥も入っているので、おそらく大正5年と6年に複数回訪れたと思われる。ただ有峰のオナガが岐阜県側からの越境なのか、北陸沿岸から山間部に分布を拡げてきたものなのか、なんともいえない。川口の『日本鳥類生態学資料』では「大正5年1月中旬 飛騨大野郡上枝村中切(現高山市)此一例は飛騨に三ケ年間の唯一回の実験であつた」としているので、北陸沿岸から進入してきたと考えるほうが妥当か。
ただし山を越えたらしい記録もないわけではない。川口による昭和8年8月16日の秋田県鹿角郡宮川村坂比平の記録がある。ここは奥羽山脈の秋田県側の山間部で分水嶺はすぐ近く、あきらかに岩手県側から山脈を越えたと思われる。オナガらしくないと言えば、らしくないが、そういうオナガもげんにいるということだろう。昭和5年に茂吉の見たオナガもそうやって奥羽山脈を越えてきたのだろうか。
ほかに北陸での古い記録としては、川口の『日本鳥類生態学資料』にある大正14年初春の川村多実二が観察した加賀市の今江潟畔のオナガがある。そうすると有峰のオナガはともかくとしても、大正時代、すでに北陸にオナガがいるわけで、長野や山梨の記録とあまり違わない時期に、すでにいたのかもしれない。
それにしても、明治から昭和の初めまでの川口孫治郎の記録にあるように、北九州では一時期、かなりオナガは生息していたのに、なぜ消えたのだろう。オナガの生態からして開発などの環境変化の影響はあまり受けないと思うのだが。
最後にまとまらないまとめになるが。
オナガのいるところ、いたところをおもに文献資料から拾いだしてきた。以前から、オナガはどうして局地的な分布しかしていないのだろうと漠然と疑問に思っていたのだが、今回調べてみても、なぜそこにいるのか、なぜその先へ拡がらないのか、やっぱりよくわからない。
一応明治以後のこれらの記録から、オナガは分布を拡げてきていたようだ。そして西日本では最近ではいなくなってきた。
果樹栽培の拡大とともに分布が拡がったとの情報もあった。果樹との関係について言及した資料は1969年(昭和44年)の山梨県、1994年~2003年の調査による飯田市環境情報ホームページがある。考えてみれば、青森や長野にはリンゴ地帯があるし、山形だって果樹栽培はさかんだし、和歌山や北九州はミカンというぐあいに、果樹園とオナガの関係はたしかに一理あるようにみえる。しかし静岡では県西部のミカン地帯へ分布は拡がらないし、和歌山ではオナガは見られなくなったようだ。それに北陸や岐阜の県北、富士山麓などは果樹園とはあまり関係なさそうだし、だいいち関東平野は果樹地帯ではない。地域によっては果樹栽培の拡大がオナガの生息適地をつくっている、とはいえそうだ。オナガの生息適地といえば関東平野の屋敷森という印象が強い。果樹栽培地域はオナガにとっては擬似屋敷森だということになるのだろうか。
江戸時代には「くゎんとうをなが」(『図説日本鳥名由来辞典』)と呼ばれていたそうで、もともと関東のものという感じはするし、関東から拡がっていったと思っていた。この文章もそういう前提で書いてきた。しかし、案外古かった九州や北陸、それに東北の記録などを見ていると、そう単純なものではないのかもしれない。案外古いといったって、生物としてのオナガの歴史からすれば、ごく最近のごく一時期のちょっとした変化にすぎないだろう。もっとずっと過去に北陸や九州、あるいはそのほかの地域でオナガの大繁栄時代だってあったのかもしれない。

オナガのいるところ、いたところ―斎藤茂吉の短歌から (前)

2007年09月17日 10時09分45秒 | いろんな疑問について考える
オナガのいるところ、いたところ

 「ほっとすぺーす」で「茂吉のアマケラ」を書くために『歌集たかはら』を読んでいたら、なんとオナガの歌があった。茂吉たちの一行が上山から月山の麓へ向かう途中である。これはおもしろいものにぶつかった。というのは、山形県にオナガが棲むようになったのはそう古いことではないからだ。なにかで読んだような記憶があって、確か戦後のことだったように思っていた。茂吉はすでに東京暮らしが永いから、おもに関東平野に生息するオナガを見知っているはずで、この特徴のある鳥を誤認することはないだろう。

尾長鳥道のべの木に飛び交へりあはれ美しと吾はおもへる

 昭和5年7月21日のこと、歌集には「追分より岩根沢途上」と注記がある。岩根沢は月山の登山口の集落で、茂吉一行の最初の宿泊地である。地図で確認すると、山形県のほぼど真ん中。月山東南麓で、六十里越街道沿いからすこし山手に入ったところ。
 というわけで、この興味深い歌をきっかけにして、分布が関東平野を中心にした中部日本に局地的といわれるオナガについて、その分布状況を地理的に、そして年代を追ってさぐってみよう。
 その前にオナガはどんな環境を好むのか、図鑑や文献から確認しておこう。
 まずバーダーによく利用されると思われる日本野鳥の会発行の『フィールドガイド日本の野鳥』(高野伸二 1994年)によると、「低地から山地の村落付近の雑木林や松林にすみ、市街地の公園や庭にも群れが飛来する」と説明している。『ネイチャーガイド日本の鳥550山野の鳥』五百沢日丸 文一総合出版 2000年)では、「平地から低山の集落付近の雑木林・社寺林・河川敷の林・市街地の公園」となっている。
これをさらに観察者の実感から表現すると、「丘陵周辺部に普通であるが、丘陵の内部では小群が時々観察される程度である。(略)丘陵内部といっても、すぐ近くまで人家が進出している場所や、鴨場のようにかつて人間が活動していた場所などではオナガが定住している。人間臭さがどこまでも消えない鳥といえよう」(『狭山丘陵の鳥』荻野豊 さきたま出版会 1981年)。あるいは、「高尾山においても山麓部では容易に観察できるが、山中で見ることはまずない。表参道でいえば入口付近の国民宿舎高尾山荘付近でこそ観察することがあるが、それより上ではまだ確認していない」(『東京都高尾自然科学博物館館報第2号』「高尾山の鳥相」清水徹男 東京都教育委員会 1970年)。さらに、「海岸付近から山地の林に生息するが広い林の奥ではあまり見かけない」(『宮城県の鳥類分布2002年』日本野鳥の会宮城県支部 2002年)。というわけで、人の生活圏にある樹林と密接で、深い森林や山林のなかには入らない、という強い環境的な嗜好が見られる。
こうした性質が分布の拡がりにくい理由なんだろうか。なにしろ日本の場合どこへ行くにも山を越えるか、海を渡るかしなければならない。それにもかかわらず、というか、だからこそなのか、生息域が拡がったり消滅したり、短期間で変化しているようだ。世界的に見ても、ユーラシア大陸の極東と西のイベリア半島だけという変わった分布の仕方をするという。
生息域の中心といわれる関東平野では『常陸国風土記』にすでに見られるように、古くから定着していたらしいが、ずっと継続していたかどうかはわからない。江戸時代にもふつうにいたことは、『本朝食鑑』などでもうかがえる。
では、オナガの分布状況について、特にその変化がうかがえる記録を古い順から列挙していこう。○はオナガの生息が認められる年と場所。つづいて引用した箇所、『 』以下はその文献名、*は筆者の記述。

○1896年5月(明治29年)島根県
分布の項に記載あり。
『日本鳥類大図鑑』第1巻 清棲幸保 講談社 昭和27年
○1905年12月(明治38年)青森県三戸郡大館
分布の項に記載あり。
『日本鳥類大図鑑』第1巻 清棲幸保 講談社 昭和27年
○1921年(大正10年)青森県
オナガ、津軽地方、南部地方。可成多し。
『鳥』第3巻第12・13合併号。「青森県産鳥類目録」和田干蔵 日本鳥学会 1922年(大正11年)復刻版。
*大正11年3月の発行なので、おそらく大正10年までの数年間の記録のまとめと思われる。日本鳥学会の『鳥』からの引用はこれと昭和14年の軽井沢だけだった。しかし、復刻版の付録の総目次と総目録、それと『日本鳥学会誌』創立90周年記念特別号の「総目次集」から「オナガ」が題名に含まれるものや、その分布の境界あたりの地域についての鳥相の報告などを見ただけなので、ほかにもいくらか記録があるのかもしれない。
○1925年5月8日(大正14年)岩手県
ギャーギャー鳴いて飛び、尾の長い大きな鳥、青い紐、これはオナガであろう。賢治の表現は独特だが、森(森荘已池)のていねいな状況説明を読めば明白である。(略)賢治の時代、東北に記録はあるが普遍的ではなく、比較的少ないという記述もある(『野鳥』545号「特集・オナガ」日本野鳥の会)。
『賢治鳥類学』赤田秀子、杉浦嘉雄、中谷俊雄 新曜社 1998年。
*この引用文の前のページに5月7日、賢治と森荘已池は夜を徹して小岩井農場を抜けて、翌朝、岩手山の焼走り鎔岩流まで歩いた、その折りに見たオナガであると記している。賢治はオナガとは言っていないというが、著者の3氏からしてオナガという断定は正しいと思う。
○1925年(大正14年)長野県松代町(現長野市)
山に雪降り里は杏子の花ざかり尾長鳥あまた群れてあそべる  若山牧水
『野鳥の事典』清棲幸保 東京堂出版 昭和41年。
*インターネットで調べたところ、この歌は大正14年の作で、昭和13年に改造社より発行された『歌集黒松』に所収されており、「信濃揮毫行脚記」のなかの1首という。オナガの歌は全部で8首あり、この当時の長野県松代町でオナガはごくふつうの鳥であったらしい。
○1930年7月21日(昭和5年)山形県西川町
尾長鳥道のべの木に飛び交へりあはれ美しと吾はおもへる  斎藤茂吉
『歌集たかはら』斎藤茂吉 岩波書店 昭和25年
*冒頭に紹介した歌。山形県内のど真ん中に現われたということは、すでにかなり以前から越境していた可能性がある。
○1931年9月(昭和6年)岩手県胆沢郡金ヶ崎
分布の項に記載あり。
『日本鳥類大図鑑』第1巻 清棲幸保 講談社 昭和27年
○1933年(昭和8年)より以前 富山県大山町有峰
私の確かめ得た鳥類…として、その中にオナガ。
『野鳥』第2巻第1号「有峰に於ける鳥類の過去と現在と未来」川口孫治郎 日本野鳥の会 昭和10年
*この川口の鳥相報告は昭和8年よりかなり以前のものらしい(後述)。鳥相の列記につづいて「昭和9年10月15日遥々再び訪ひ来た」ときには電源開発のため離村がはじまっていて、環境はかなり変わっていたという。
○1934年(昭和9年)山梨県山中湖畔
ヲナガは須走村付近では見受けないが、山中湖畔平野村付近では、5月頃から7月頃まで、声高く鳴きながら尾羽をひいて飛んで行く姿を、林間でよく見掛ける。勿論此の付近では巣を作つて居る。
『野鳥』第1巻第2号「富士山麓鳥界巡り」松山資郎 日本野鳥の会 昭和9年
*山梨県内では古くからオナガはいたらしいが、静岡県と境を接する山中湖にはいても、一山越えた須走にはいなかったという。須走に現われるのは数年後か(1941年の項)。
○1938年より以前(昭和13年)長野県軽井沢
従前より視聴していた鳥の1種のなかに、オナガあり。
『野鳥』第5巻第8号「浅間山麓探鳥行」井村映老 日本野鳥の会 昭和13年
*すでにふつうにいた様子。
○1939年(昭和14年)長野県南軽井沢 
(6月30日、7月1日)ヲナガは2回目(の探鳥行で)に発見した。次第に増加して居る様であるが大して多いとは思へない。南軽井沢方面で多く見聞する。
『野鳥』第9巻第4号 「南軽井沢神津牧場の鳥界」藤原勢士 日本野鳥の会 昭和17年
○1939年(昭和14年)長野県善光寺平
ヲナガハ此ノ善光寺平ニ四時棲息スル。
『野鳥』第6巻第7号「長野地方の鳥」内山健三 日本野鳥の会 昭和14年
*善光寺平では一年中いるふつうの鳥という。
○1941年11月8日(昭和16年)長野県中野市か?
家から一町ほどの所に湯田中方面行の電車軌道がありますが、そこから向ふの畑や松林にはヲナガ、ホホジロが無数にゐて、(以下略)
『野鳥』第8巻第5号「野鳥雑信」細野善煕 日本野鳥の会 昭和16年
*無数は言いすぎとしても、かなりふつうにいたらしい。
○1941年11月8日(昭和16年)静岡県御殿場市
通信・報告欄で、御殿場の鳥のそれぞれの朝鳴時刻を紹介したあと、その他の見聞した鳥のなかにオナガあり。
『野鳥』第8巻第12号「御殿場より」古沢郁三 日本野鳥の会 昭和16年
*昭和9年にはとなりの須走村でオナガは見られないという報告があるので、それを信じれば、それ以後数年のあいだに山中湖側から山を越えてきたのか。それとも神奈川県側から酒匂川沿いに山北町、小山町のルートで入ってきたかもしれない。ただ、『神奈川の野鳥』(1955年代を参照)によると、1970年ごろから箱根、丹沢の山中でも見られるようになった、というので、戦前には神奈川県西部の静岡県境近くにはオナガはいなかったとみられる。
○1943年(昭和18年)富山県か?
凍て雪に日のしむ尾長鳥(をなが)なきわたり  金尾梅の門『古志の歌』
『鳥の手帖』尚学図書編 浦本昌紀監修 小学館 1990年
*金尾梅の門は富山県出身。句集の古志は「越」、オナガも富山のオナガと推察する。
○1945年(昭和20年)宮城県本吉町大谷
1945年頃は大谷地区内の生息だったが(立花)、各地区に生息圏を拡大、1954年頃より志津川地区にも見られる様になった。
『野鳥は空に花は野に-南三陸鳥類目録』田中完一 昭和57年
*宮城県北東部で三陸沿岸地方の野鳥の記録。石巻市から気仙沼市にあたる。大谷から志津川までは15~20km、南下したことになる。賢治の岩手県内陸部の記録が大正14年だから、内陸部に早く北上していたオナガが沿岸部にようやく生息地を拡大させたとも推察できるが、資料が少ない。
○1952年(昭和27年)より以前。
留鳥として本州と九州(福岡県、佐賀県)、四国(愛媛県)に棲息し、本州では特に宮城県、千葉県、茨城県、群馬県、埼玉県、栃木県、東京都、伊豆大島(輸入)、山梨県、長野県、和歌山県の各都府県に多く、本州の北部(例えば青森県三戸郡大館1905、岩手県胆沢郡金ヶ崎1931)、中部(例えば愛知県知多郡半田)、西部(例えば島根県1896、兵庫県)にも棲息する。
 また、「棲息環境」の項目のなかで、
北アルプス山麓の松本平ではその数が少なく、著者が数年(1932-1938)に亙る調査中1♂1♀(1933年)を採集したに過ぎないが、同県の埴科郡善光寺平の松代町付近ではその数が著しく多い。
『日本鳥類大図鑑』第1巻 清棲幸保 講談社 昭和27年
*出版は昭和27年だが、自序によると稿を起したのは昭和13年、ほぼ校了状態だった昭和20年5月に戦災で焼けたという。したがって「再起して内容も豊富にし」とあるが、オナガの分布状況は西暦の入った記録を別にして、昭和初年ころから昭和20年代前半までの間と考えられる。
○1955年代(昭和30年)神奈川県鎌倉市
1955年代には鎌倉では海岸部に少数見られた程度で、三浦半島などでもごく珍しい鳥であったものが、最近(初版は1980年)この付近ではごく普通の鳥となってしまった。
『神奈川の野鳥』日本野鳥の会神奈川支部編 有隣堂 昭56年
*『神奈川の野鳥』ではさらに、「いつの頃からか東京周辺にいた俗に関東オナガと呼ばれるグループが、おうせいな開拓者魂を発揮してその勢力範囲を伸ばし、一派は東北地方へ、また他の一派は信州から北陸方面へと棲息地を広げていった」と述べている。
○1962年(昭和37年)石川県
県下の平野に夏中見かけ、人家付近の森や竹薮ないし海岸の松林にとくに多い。(略)冬は雪を避けて比較的あたたかい海岸地方や七尾湾地方のものを除き、かなりが表日本に移る。
*一応留鳥として生息する。「かなりが表日本に移る」との記述には問題がある。憶測にすぎないと思う。というのは、春秋に季節的な移動があるとすれば、福井、滋賀、京都などで観察されるはずだが、福井の嶺北地方で生息が認められる以外は関西方面に渡っている様子がないからである。白山や飛騨山地を直接越えているとも考えにくい。越えたさきの岐阜や愛知でも生息の記録はごく少ない。太平洋側へ出ているということはないのではないか。それでも少なくなるというのであれば、考えられるのは富山、新潟への移動ということになる。『信濃川の野鳥』(長岡野鳥の会編発行 昭和63年)によると、オナガは「平野部流域の樹木の多い河川敷では、1年中普通に観察される」となっている。しかし、そもそも隣同士の同じ雪国だから、移る意味もない。新潟からさらに長野へ入り、太平洋側へ飛ぶことも考えられなくもないが、オナガがそこまでまめに動くというなら、そもそも局地的な分布にとどまるというのもおかしい。「海岸の松林にとくに多い」との記述があるが、冬季に多いのであれば、その程度の小さい移動があるのではないか。
○1966年(昭和41年)より以前。
分布は一様ではなくて同県内でも多いところと少ないところとがある。最も多いのは関東地方の東京・千葉・埼玉・茨城・栃木・群馬や山梨・長野・和歌山などである。その他青森県の大館、岩手県の金ヶ崎、富山県の泊、新潟県の高田市・直江津市・新井市・糸魚川市、宮城県や愛知県知多半島、島根県、兵庫県などにも棲息する。
九州では福岡・佐賀、四国では愛媛の諸県に分布するが数はあまり多くない。山地には少ないが富士山麓の山中湖畔では営巣し繁殖をする。
『野鳥の事典』清棲幸保 東京堂出版 1966年
*資料の多くは清棲自身の『日本鳥類大図鑑』によるものと思われるので、古いデータが多いかもしれない。しかし、富山県や新潟県の4市など『日本鳥類大図鑑』には載っていない地域も加わっているので、それらは新たに分布が広がったのだろうか。新潟の上越地域に集中しているのをみると、長野県から移入してきたように思われる。『信濃川の野鳥』(1988年刊行)では信濃川で年中普通に見られるとしているから、すでに全県的に分布しているらしい。その拡がり方は長野から上越へ、そして中越、下越へと北上していったか、あるいは、それとは別に遅れて長野県北部から信濃川沿いに移入していったのか。新潟県内での生息記録で年代のわかっている資料をまだ探せていないので、どの地域が最初なのか、わからない。
○1967年(昭和42年)長野県諏訪盆地
中央東線ぞいでは、富士見高原地方が境界線となって、山梨県方面から諏訪盆地へは永年移入しなかった。ところが昭和42、3年ごろぽつぽつ入りこみ、またたく間に諏訪盆地一円に生息繁殖するようになった。おそらく長野県では最後の移入地方となっているであろう。
『しなの野鳥記』小平万栄 信濃路 昭和50年
*諏訪盆地からさらに南下して飯田市に達するのは1978年である(後述)。長野県内での拡大の様子が読みとれるが、県北、信濃川流域のオナガとは別の集団で、山梨県から入っているようだ。
○1969年より前(昭和44年)山梨県
以前は数が少なく、分布も限られていたが、各地で果樹栽培がさかんになってきたこのごろでは、著しい繁殖を見せて、全県下において見ることができるようになった。とりわけ多く見ることができるのは、甲府市北部の山ろくで、(以下略)。
『甲斐の鳥たち』中村幸雄 山梨日日新聞社 1969年
*いつごろから生息していたのかは不明。なんらかの条件が整うと急に増えるというのは生物に良く見られる現象のようだ。山梨県内での生息地の拡大が一気に諏訪盆地まで及んだものか。上の項目(1967年)と考え合わせると興味深い。果樹栽培との関係はあとで紹介する「飯田市環境情報ホームページ」にも。
○1969年(昭和44年)静岡県御殿場市
御殿場市で初めて確認されたのは69年に市内滝ケ原。73年に幼鳥を確認。78年5月、7~8羽の群れを確認。
『静岡県の鳥類』静岡県環境部自然保護課 静岡の鳥編集委員会 1998年
*1969年の御殿場市での初確認が静岡県内の初記録ということらしいが、すでに「1941年11月8日(昭和16年)静岡県御殿場市」の記録が『野鳥』誌にある。この間28年たっているが、目立つ増加が無かったのか、たんに記録がないだけか。それとも絶えていたのか。その後の経過は1998年を参照。
○1970年頃(昭和45年)神奈川県箱根、丹沢
箱根や丹沢の山中でも、1970年頃から、時折り姿を見せるようになった。
『神奈川の野鳥』日本野鳥の会神奈川支部編 有隣堂 昭56年
*そうすると、御殿場での1941年の記録というのは、山梨県山中湖出身のオナガで、これがまもなく絶え、箱根か丹沢を経由した関東のオナガが1969年に御殿場市で「初記録」されたということかもしれない。
○1972年8月(昭和47年)山形県白鷹町荒砥
県内には以前は生息していなかった種類で数年前より留鳥として生息するようになったものである。確認地:村山市大淀1961年6月。西川町水沢1966年11月。尾花沢1971年6月。白鷹町荒砥1972年8月。
『山形県の野鳥』山形県生活環境部自然保護課 1974年
*1972年頃には留鳥化していたらしい。掲載されている確認記録は上の4件だけで、これで全部なのか、ほかにも記録があるのか不明。これで見る限り、県中央部の山形盆地の周辺部に限られている。茂吉のオナガも西川町で、同じ地域だが、「以前は生息していなかった」ということは、昭和5年、茂吉のころのオナガは前記の御殿場市のように一度絶えたとみえる。1960年前後に新たに進入してきて、10年ほどのあいだに留鳥化したらしい。
○1978年(昭和53年)全国調査の記録
(本文と分布地図を要約すると)生息地の北限は青森県、南限は房総半島、西限は福井県で分布の中心は関東地方。福井県東半部から岐阜県北部・長野県中部・山梨県西部・静岡県東部にかけて分布の西南の境界をなす。東北地方では、福島県は分布の中心に連なるが、それより北では奥羽山脈の東側に片寄り、西側では山形県の南東部と庄内平野のみ。新潟県では沿岸部を中心に広く分布し、長野県へ連なっている。
『鳥類繁殖地図調査1978』日本野鳥の会 1980年
*全国規模でははじめてとなる鳥類の繁殖分布調査で、信頼度が高い。過去に記録があるが、分布が飛んでいた九州北部、四国、島根県、和歌山県、兵庫県、愛知県では確認されていない。
○1980年(昭和55年)神奈川県鎌倉市
1955年代には鎌倉では海岸部に少数見られた程度で、三浦半島などでもごく珍しい鳥であったものが、最近(引用書の初版は1980年)この付近ではごく普通の鳥となってしまった。
『神奈川の野鳥』日本野鳥の会神奈川支部編 有隣堂 昭56年
*1955年代の引用の後半部分。
○1989年~90年ごろ 全国主要都市の状況
全国の41都市のうちオナガが鳥相リストに載っているのはつぎの10都市。宇都宮市、高崎市、八王子市、長野市、甲府市、長岡市、新潟市、上越市、富山市、福井市。『鳥類繁殖地図調査1978』には載っている県で、このリストには載っていないその県の都市は仙台市、福島市、金沢市、静岡市、浜松市、岐阜市。西日本もひとつも載っていない。
富山市の項で、「近年は生息数が減っている」。
『全国主要都市の都市鳥』都市鳥研究会編 1991年
*北海道から沖縄までの41都市に生息する鳥の繁殖、越冬、ねぐらなどについて、各地の状況にくわしい調査者が分担執筆している。生息していると思われる仙台市、福島市、金沢市がもれているのは、調査地域が市街地に限られているためかもしれない。
○1995年までの状況
本州と九州で留鳥として繁殖するが、最近、本州南部と九州では見られなくなり、本州中部以北で多く見られ、その分布範囲が変わってきた。
『原色日本野鳥生態図鑑 陸鳥編』中村登流、中村雅彦 保育社 1995年
○1998年までの状況 静岡県
(静岡県内での生息状況として)東部では普通に見られるが、中部では少ない。他地域ではまれに見られる。東部、中部では増加している。富士山麓周辺では普通に繁殖し、ほかに、伊東市吉田、清水市三保で繁殖例あり。
御殿場市で初めて確認されたのは69年に市内滝ケ原。(1969年の項参照)
『静岡県の鳥類』静岡県環境部自然保護課 静岡の鳥編集委員会 1998年
*御殿場市で確認されて以来、30年近くたっているが、分布は清水市、現静岡市までで西半部ではまれにしか見られない。地形的な障害は何もないのだが。
○1998年までの状況、1993年から。 長野県
(繁殖分布図によると)小諸、御代田、小海周辺と長野、須坂周辺に繁殖ランク上位のメッシュが多い。大町から松本盆地、諏訪、伊那谷へかけても生息している。『長野県鳥類目録3-繁殖鳥類分布図1999』日本野鳥の会長野支部 2000年
*それぞれの盆地を中心に分布しているように見える。木曽谷にはいないらしい。県北の新潟県へ通じる姫川沿いと信濃川沿いにも記録がない。諏訪から山梨県へかけての中央本線沿いにも記録がない。軽井沢と八ケ岳の東以外、他県に通じる地域に生息が認められないという片寄った分布をしている。これは単にそれらの地域で情報が不足しているのとは違うようだ。
○2000年までの状況、1981年から。宮城県
(分布図によると)平野部を中心に広く分布している。
『宮城県の鳥類分布2002年』日本野鳥の会宮城県支部 2002年
○2000年までの状況
本州北・中部(RB)、本州南西部(FB:兵庫、島根)、九州(FB)。
『日本鳥類目録 改訂第6版』日本鳥学会 2000年
*本州北・中部では繁殖、本州南西部(兵庫、島根)と九州では以前に繁殖していたと記載している。

 文献資料の最後に、川口孫治郎の資料がやや多くあるので、まとめて紹介しよう。
『日本鳥類生態学資料』川口孫治郎 巣林書房 昭和12年より、
明治25年初夏 和歌山市 和歌山城付近(吉田永二郎による)
明治37年~40年 佐賀市 佐賀城内、繁殖の観察。
大正5年1月中旬 飛騨大野郡上枝村中切(現高山市)此一例は飛騨に三ケ年間の唯一回の実験であつた。
大正10年3月9日 福岡県三潴郡(中村田君による)
大正13年6月18日 佐賀県三養基郡、繁殖の観察。
大正13年8月27日 熊本県球磨郡、観察。
大正14年初春 加賀今江潟畔(川村多実二による)
*今江潟は柴山潟、木場潟とともに加賀三湖といわれ、小松市にあったが、現在では全部干拓され消滅している。
昭和4年6月20日 久留米市、繁殖の観察。
昭和8年8月16日 陸中鹿角郡宮川村坂比平に於て。
*陸中となっているが、鹿角郡は秋田県、地図でみたら宮川村坂比平は鹿角市の南、奥羽山脈の山間部にある。
昭和9年12月3日 能登の東北海岸。半島各所に時々目についた。
 以上に列記したほか、大正14年から昭和9年のあいだに6件の佐賀県内での記録があるが、省略する。