MARUMUSHI

映画とかTwitterとかとか。

『最後の忠臣蔵』。

2010-12-18 23:31:28 | 映画日記
『最後の忠臣蔵』を観てきた。

忠臣蔵というと、忠義を尽くす侍たちの仇討ちの物語。
クライマックスは、吉良上野介の首を切るところ。
キラッ☆\彡 ・_・)( ̄[ ] ̄)スパッ-☆\_ -_-)
けれど、その後に、こんな深い物語があったとは。。。
武士として、死に場所を求めている男に、恥を忍んで生き延びろというのは酷な命令やなぁ。。。
まさに、死んだ者よりも残された者の方が背負っていたものが多い。あの出来事はそんな側面があるのかも。

なかなか泣ける話。
いい物語です。


けど、個人的には中弛みがあるんで、ちょっと退屈ではあったかな。。。




【A3】。

2010-12-15 23:54:10 | インポート
森達也著【A3】を読んだ。
『A』、『A2』はドキュメンタリー映画という媒体を使った表現手段だったが、今回は本という形での表現をとっている。
前二作品のタイトル”A”には、意味はない(例えばそれは犯罪を犯した未成年者をあらわす”A少年”といった意味に近い)。
けれど、【A3】の”A”には明確な意味がある。
それは、戦後最大の犯罪者といわれている麻原彰晃の”A”だ。オウム真理教という宗教団体を操り、数々の悪行を働いたとされる首謀者だ。

彼にまつわる裁判、あるいはオウム真理教を巡る裁判で明らかになった事実は、意外なほどに少ない。
彼とその側近たちが首謀者として犯罪を行ったことは間違いなかろう。もう、言い逃れるすべも無いんじゃないかと思う。
けれど、なぜ、そうなったのか?オウム真理教があれほどの重大犯罪を犯した理由は、なにも明らかにならないまま、麻原には死刑という刑罰が下った。

オウムを巡る裁判について思うのは、第二次大戦後に開かれた極東裁判(東京裁判)に近い結果になってしまっていることだ。
悪いことをした人間を、裁判で裁き、場合によっては量刑を課す。
これは確かに法というシステムの機能だ。だけど、裁判の役割ははそれだけじゃない。真実を明らかにすること。何がいつ、どうやって行われたのか?そして、なぜそうなってしまったのかを考える。法廷とはそういう場でなければならないと思う。
けれど、オウム裁判についてはその”真相の追究”が欠落したまま、裁判が終わってしまっている。非常に残念だと思う。
真相を明らかにし、オウム真理教が凶行へと走っていく過程を明らかにしなければ、同じような事件はまた起こる可能性があると俺は思う。

あの事件が起きた頃、俺は中学生で、毎日のように報道されるオウム関連のニュースをテレビで見ていた。
「もっと、何か起こらないか?もっと過激なテロが起きたりしないんだろうか?」と、ワクワクしていた。
停滞する毎日を壊してくれるでかい一発を待ち望んでいた、みんなの気持ちの創発的現象があの地下鉄サリン事件だったんじゃないかと俺は思っている。
こんなことは確認する方法なんてないし、まして実証なんて不可能だけれど。

でも、実際に起こった事件を目の前に、みんな立ちすくんだ。メディアが寄ってたかって報道する、オウム真理教の異常性を観て、さらに恐怖した。そして、「彼らと私たちは違う人間だ」と思い込んだ。当時報道の多くが、信者には高学歴者が多いことなどを報道し、「やっぱり、普通のアタマの人じゃないんだな」と思い込ませたのも一因かもしれない。
彼らと自分たちは、同じ人間だということを認めれば、一歩間違えれば自分が彼らの仲間入りをしてしまうことを認めてしまうことになる。それが恐怖だった。だから、オウム信者たちを徹底的に異物として見なすようになった。
こうやって、彼らから例外的に人権が剥奪されてしまった。
彼らは悪を犯した人間ではない何かだから、人権なんて無いに決まってると、一方的に彼らを拒絶してしまった。
その拒絶反応の最たるものが、住民票の不受理と麻原裁判なんだと思う。
「彼らは特別だから。」
という人もいるかもしれない。
けれど、これらの”特別”の拒絶反応が、いつ自分の身に起こるかわからない”前例”になってしまったことも事実だ。
正当な人権は、国民に遍く付与されるべき権利なのだ。そして、人権の一部を奪うことを決定するのが裁判という場であるべきなのだ。罪状も決定しないまま、推定有罪でことを進めてしまってはならないはずなのに。。。


オウムを巡る事件は、色んな角度から見るとまるで様相を変える。
信者から見て、
外にいる俺たちから見て、
警察や公安から見て、
メディアから見て、
そして、麻原から見て。
警察および司法が出したこれらの事件の見解は、もっともシンプルで簡単な物になっていると思う。
衆院議員選挙で大敗したオウム真理教は、逆恨みにも似た憎しみで国家転覆を図るために数々の事件を起こし、地下鉄サリン事件という未曾有のテロを起こした。
確かにこれも、一見解だと思う。
だけど、本当にこれほどシンプルな図式で表される事件だったのかな?と、疑問符も残る。
この多面的な事件を一方向だけで見て、それでおしまいにしたのは、やっぱり間違っていると思う。



著者の森達也は、これらの事件を彼なりの視点からもう一度洗い直し、国の見解とはまた違った見解を描いている。
だけど、それは彼の視点であって、俺の視点じゃない。
この本を読んで、オウム事件の真相が分かるわけじゃない。
けれど、1995年という年を区切りに明らかに変化したこの国を、もう一度見つめなおすためにも、あの事件を考え直すいいチャンスを与えてくれる本だと思う。


『森崎書店の日々』。

2010-12-13 21:48:32 | 映画日記
『森崎書店の日々』を観てきた。

恋人にこっ酷い仕打ちを受けた一人の女性。
それが原因で仕事も辞め、悶々とした日々を過ごす。
そんな彼女の元に、古本屋を営む叔父から電話があり、その店の二階に住みながら店を手伝う生活に。
世界に誇る本屋街、東京神保町。
その街の片隅で、彼女はそれまで出会ったことのない色々な本を巡る世界に引き込まれていく。


本は、静かに、けれど饒舌に物語を語る。
俺たちは、それを聞く事が出来る。でも、絶対に語りかけることは出来ない。彼らは語るだけだ。
それは彼らの良い所でもあるし、悪い所でもある。でも、概ね良い傾向を持つクセだ。
本は読み手を救う。
彼らの世界に読み手を引き込み、一瞬でも悩みから解放してくれる。

この映画の女性も、本のこのクセに助けられた。
だけど、本は何も解決してくれない。現実を忘れさせてくれるだけだ。

誰もが、いつかは読んでいた本を閉じ、次の段階に行く日が来るのだ。


『ノルウェイの森』。

2010-12-12 00:38:03 | 映画日記
『ノルウェイの森』を観てきた。

この原作である村上春樹の作品を読んだのは、中学三年の冬だった。よくよく覚えている。
印象的な赤と緑の上下二冊の本。
誰が買ったのか分からないけれど、本棚の片隅にあったのを何となく手にとって読んだ。
ザラザラとしていて、硬質な手触り。けれど、その感触とは裏腹に暖かさがあった。
そして、それまで読んだどんな本よりも、確かな質量を感じたのを覚えている。
すごく抽象的な感想だけど、それがこの本の感想だった。
悲しいとかそういう感情は一切なかった。


映画の感想としては、原作ほどの質量を感じることはなかった。
個人的には、頭の中でイメージしていた世界が映像になっていて驚いたけれど、なんだか物語の不連続さが気になって仕方なかった。
原作では間として成立している不連続さが、映像になった途端に違和感に変わった。



物語の最後の方で、”僕”とレイコさんと結ばれるシーンがある。
俺にはどうしてもこの行が消化しきれない。
どうして、そうなる必然性があったのか?
人はパンのみで生きるわけじゃない。つまり、必然性だけで生きているわけじゃない。
言い換えれば、冗長と言われるものになるんだろう。
この物語の”僕”は、シンプルに生きているようでとても冗長性に溢れた人物だ。
”僕”とレイコの関係は冗長性に属するものなんだろうか?
違う気がする。
どうやっても俺の中で収まりが悪い。

レイコは”僕”にとっての直子の代わりなのか?
それとも、レイコの現世に戻るための通過儀礼だったのか?