MARUMUSHI

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『天使のいる図書館』。

2017-02-23 23:21:11 | 映画日記
『天使のいる図書館』を観てきた。

電子書籍というのが、この数年で広がってきた。タブレット端末の普及が大きいと思うけれど。
企業、出版社だけでなく国会図書館も積極的に電子文書の蓄積を進めている。それは紙文書の電子化も含めてだ。
図書館は毎年たくさんの本を受け入れている。電子データでない書籍は、当然のごとくスペースを取る。物理空間のスペースだから割とすぐに一杯になる。だから古い本は無料配布したりして処分する。
それでも、図書館は本を、本として所蔵していく。

さくらは本好きだけれど、本の解釈が、受け取り方が、感想が、人と少し違っている。
主観の排除された本が好き。本に情報以上の何かを求めない。そうなると恋愛小説なんて読み込めるわけがない。
図書館の本は一冊一冊が使った人たちの思いがこもる。誰かが読んで、魂に何かを残し、そして、自分が読み、何かを感じ、それを次の人に。と使われるうちに、数打物のただの書籍が掛け替えのない一冊になる。作者と読者の間に立つ本。その本にたくさんの心が刻まれていく。さくらは濡れてぐちゃぐちゃになった本を直していく上司の姿を見て、それに気づく。
映画『耳をすませば』で主人公の雫と聖司は図書館の貸出カードで出会っている。本は時折こうやって人と人を繋いできた。
電子データに無い、物質としてのデータにしかできない、本の役割。
さくらはそれがわからなかった。でも、老女の想いからそれを知っていった。情報としての本ではなく、想いとしての本。たった、一冊の本。
祖母への想い。祖母の死のために伏せてしまった自分の心を思い出していく。

色々なことを、本がつなぐ世界のことを知ったとしても、さくらの不器用さはきっと今後も消えることはない。来館者が求める本とは全く違う本を提示するだろう。でも、それでいいんじゃないか?ぜんぜん違う視点で本をすすめる。それは凄いことなんじゃないか?見方が一つである必要なんてどこにある?作者が提示した本を一方方向で受け取らない方がいい。曲りなりな作者として、僕が何度か経験してきたから言えることだ。
僕は異端に魅力を感じる。社会の中で苦しみながら生きていき異端を生きる。そういう人がいてなにが悪い?
さくらが最初に出会った羽はゴミ箱の中に消えた。でも、二回目は違う。その羽根は天使の羽、いや、彼女の魂がこの世界に現れた物。

さぁ、本が繋いだ心が、新しい心を繋ごうと手を差し伸べられた。
さくら。その心を繋ぐために、図書館でファッション誌でも借りようか。


 

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