『遠いところ(A Far Shore)』を観てきた。
貧困は連鎖する。貧しい環境に生まれた子どもは、そこから立ち直ることが極めて難しい。「親ガチャ」という言葉が世に出てきて久しい。実際にそうなっている。
沖縄は17才以下の相対的貧困率が28.6%母子家庭、父子家庭の貧困率は50%。沖縄県知事がのんきに歌って踊っている間に、首里城再建のためにせっせとお金を貯めている間にも、子どもは苦しみ続けている。
少女たちは中学生から夜を売る。そして身体を売る。それでも上前をはねられる。少年たちは労働力を売る。安定した収入は得られない。
沖縄には沖縄の歴史的背景があるので、かなり酷いことになっているし、だからこそ舞台として選ばれるべき場所だったんだろうが、日本中どこでも似たようなものなんだと思う。
最高に物事が悪くなってから、ようやく行政が動き出す。
公務員経験者として、公務員の仕事はたいていの場合、手遅れになってから動き出す。
そして、粛々と正しいことを勧めていく。
今までほうったらかしにして、いきなり正論をぶつけてくる。
それが”公務”のやり方だ。
舞台挨拶があった回で、児童保護施設の職員を演じた、早織さんとお話しできた。
”職員としてあれは正しいことだったと思いますか”と聞いてみた。
「年間300件、こんなことが起こっているそうです。冷たい対応と見えたかもしれませんが、そうでもしないと職員さんの心が持たないそうです」
つづけて「困っている子どもたちがどこに行けばいいかわからない場合もあるそうです」と。
”自分が困っていると気付かない人もいるでしょうね”というと「そうですね」と返ってきた。
工藤監督ともお話しできた。
”どうしたらいいんでしょうね”と少し雑な聞き方になったと思う。
「難しいですね。こういう事実がある、ということを考えるきっかけになって欲しいです」
「お金の問題も大きいですよね」
「親類に、と思うかもしれないけれど、親類だからこそお金の話ってしにくいですよね」
”わかります(人は簡単に親から借りれば?というのだ)”
「お金だけでは無く、自立というのは『助けて』と言えることなんだ、と沖縄の人から聞きました。『私は困っているんだ』と言えることも自立なんだ、と」
”孤立していく、ということが問題にもなるんでしょうね”
もう少し話したかったけれど、他のお客さんもいるのだ。
ここで時間切れ。仕方ない。
その通りだと思った。監督も演者さんたちも本当に、この現実を観てきたんだなと。そして観て欲しいんだなと感じた。
18才の子どもが2才の子どもを抱えて生きていくのは、日本ではとてもとても難しい。「人に迷惑をかけるな」という道徳を植えつけられているし、「人に頼ることは良くない」とも思っているから、真面目で素直な子どもほど、それに従ってしまう。だから、自暴自棄とも取れる選択をしてしまうのかもしれない。
『助けて』と言わなくてはいけない。
『助けて』と言われたら、『どうしたの?』と言えなくてはいけない。
行政が共助を求めるのなら、それぐらいは教育しなくてはいけない。
映画のラストシーン。
シルミチューという、神聖な場所でのシーン。
絶望の底にいる少女は、2才の子どもを抱いて沖へ沖へと進んでいく。「遠いところ」へ行くように。
曇天の切れ間から日が差し込む、彼女は子どもを抱き上げて泣く。
物語はそこで終わる。
僕は思う。彼女はきっと苦しい道を選ぶ。不幸なことに、彼女はそう運命づけられた人のような気がする。希望無き世界で生きることを選ぶはずだ。だから、彼女の子どもも、同じ世界で生きることになる。
だからこそ、大人はもっと優しくならなくてはいけない。彼女たちの生きる世界を作ってしまった責任は大人にある。
米軍基地問題は現を抜かす言い訳になっていないだろうか。
本当はオスプレイなんて大した問題じゃないんじゃないだろうか。
座り込みを「すわってないじゃないか」と笑って、「あなたたちは沖縄の人じゃないでしょう」なんてどうでもいいんじゃないだろうか。
今の日本が、親の経済力が子どもの学力、そして将来に響くというカースト制になっている事実を目の端に追いやって、少子化だ高齢化だと議論しているんじゃないだろうか。
僕は、こんなことをエラそうに語れる人間ではないのではないか?
上映中、涙は出なかった。涙で自分を慰めていいような大人じゃないような気がした。
でも、今の生業なら、僕に出来ることがあるかもしれない。
曇天の切れ間の陽射しを、少し感じた気がする。
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