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MARUMUSHI

映画とかTwitterとかとか。

『バケモノの子』

2015-07-25 21:20:20 | 映画日記
『バケモノの子』を観てきた。


個は皆、孤独であり、孤独が故、惹かれあう。

蓮は人間の世界を拒絶した。
だから、バケモノの世界に惹かれていった。
九太は自堕落で身勝手な男、熊徹と一緒に暮らしながら成長し、強くなっていく。
だが、ふとしたことで人間の世界に戻れてしまう。そこに戻るべき理由が出来てしまう。
いなくなったと思っていた父。
『鯨』の読み方を教えてくれた少女。
「これまでのことは忘れて、前を向いて一緒に生きていこう」という父。
九太はその言葉に強く反発する。
これまでのことは忘れる?自分を放ったらかしにしたことを忘れ、いままでの自分の修行の苦労を忘れ、育ててくれたバケモノたちのことを忘れる?
これが彼の心の闇を引きずり出すきっかけになったのかもしれない。
だけど、今度は休太を人間の世界に留める人がいた。
少女だ。彼女は闇に侵食されようとする彼の頬を思い切り引っ叩く。闇は少年だけの問題じゃない。人間ならば皆が抱える問題なのだ。そのことを少女は痛みという形で彼に教える。
彼にとって久しぶりの母性。

九太は、彼と同じ境遇の青年がいることを知る。
親に捨てられ、バケモノに拾われ、バケモノに育てられた人。自分がバケモノでないことに気付き、穢れた人であることが分かった彼は心を閉ざし、表面だけを装い続ける。そうして、闇を肥大化させ、侵食されていく。

九太は、闇に飲み込まれ人間の世界で暴れ始めた彼を止めるためにバケモノの世界を去る。
九太は気付いたのだ。
あのとき、世界を拒絶したのは僕だ、と。
そして、僕を受け入れてくれたのが熊徹だった。
そのことを、同じ境遇の彼にも、気付いて欲しい。



個は皆、孤独であり、孤独が故、惹かれあう。
どうあっても個は独りにはなれないのだ。



熊徹がくれた強さ。
少女が教えてくれた強さ。
父が思い出させてくれた強さ。
そして、母が教えてくれた優しさと、個の儚さ。
熊徹と九太は、蓮として、沢山の強さを武器に、広大な世界で生きていく。


『脳漿炸裂ガール』。

2015-07-25 21:02:33 | 映画日記
『脳漿炸裂ガール』を観てきた。

A級ランクのB級映画だ。
舞台設定から仕掛けから物語の中核から全部無茶。
ていうか、ボカロ曲を映画化するのが無茶!
でも、面白いね。もっかい観たい、と思わせる。

作中で随所に「ヒエラルキー」と言う言葉が登場する。
ヒエラルキー。ピラミッド型の組織体。
その頂点に立つことは総ての支配を意味する。下の者になんでもさせられる。何からも干渉されない。
けれど、全ては自分で決めなくてはならない。当たり前だ。
その点最下層は楽だ。従っていればいい。気楽なものだ。

どちらになりたいかの選択は普通は、個人の能力の範囲において、自由だ(いつの間にかどちらか属している事も多いが)。
それを強制的に、今、選べと言われたらどうだろう。
頂点に立ち人を総べるか、家畜として人格無き者になるか。
勝てば頂に、負ければ地に。

作品内の世界観は急峻に過ぎるが、現実世界も、緩やかさがあるだけで、同じような構造で出来ている。
ヒエラルキーの頂点に立ったとして、そこでなにをするだろう。
極限まで研ぎ澄まされた自由。
目的も無く、力だけがあったために頂点に立った者が見る頂の景色は如何なるものか。
ひょっとしたら家畜になりたかった、と願うのかもしれない。

少女は頂点に立つ事も、家畜になることも拒否し、ヒエラルキー体そのものに銃口を向ける。
友達を助けるために。
「必ず、元に戻してあげる」
「…どうでもいいけど、マカロン食べたい」

フィクサーの一人を殺した少女の銃口は次にどこに向けられるのだろう。


2015年07月24日のつぶやき

2015-07-25 00:00:00 | twitter



  • 過去の戦争に対する思いや考え、今ある平和について、田原 総一郎さんから手紙をお寄せいただきました。ぜひ、あなたも手紙を書いてみてください。戦後70年 未来への手紙 - Yahoo! JAPAN http://t.co/E4OfaQDyw1
    やるじゃん!田原!

    Posted at 09:32 PM




  • 想像の斜め上をいく資格・肩書を持っていると思う有名人 1位壇蜜 遺体修復師(エンバーマー) http://t.co/kjBXlr4Ypk
    Posted at 08:35 PM



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