行楽の秋! ということで普段は自宅から一歩も出ずに生活を続けている私としても、ちょっと秋の心地よい陽気に誘われて外に出てみました。
場所は牛久。茨城県。常磐線で上野から1時間。近いなあ、通勤圏といっても過言ではない。
そこにギネスブック認定の、世界一の大仏があるというので見物にいった訳。まず常磐線で牛久駅についたものの、その大仏を作った霊園の看板はあるものの、市の観光案内の看板では全くといっていいほど語れていない。近くに地図の看板もあったので眺めてみたら、所謂観光地がある方向とは真逆の位置にそれは存在しているのだという。ふーん。内心、駅から降りた途端に大仏が見えたり、大仏音頭とか大仏饅頭が売られている駅前を想像していたのだが、そんなことはなかった。チェッ。
で、一日数本の(土日ですら1時間に一本という頻度)の乗り合いバスに乗って、いざ鎌倉、でなくていざ大仏。
駅から離れるとどんどんと自然が豊かになり、ちょっと不安すら覚えてくる。国道を走る車以外に、本当に人の気配がない。木ばっかり。あと田畑。
でしばらく進んでいるといきなり雑木林から、ぬうっと飛び出す大仏。本当に「ぬうっ」という表現がこれほど適切なものってなかなかない。だっていきなり現れるから。思わずに声に出して驚いてしまった。
その大仏。座っているのでなく、立っている。これもちょっと珍しい。よく考えたらとにかくギネスブックに載りたいという一心で高さを稼げる立ちポーズにしたのかも。建立したのは90年代。歴史的建造物とはほど遠い。
で、到着しました。近くで見てもその巨大さにクラクラする。何となく自分の中の遠近感が狂ってくるような。
もし仮に狂信的仏教徒によって北朝鮮みたいな国家が作られたら、こんな風景が存在するのではないかなあ、と日本だってかなり仏教徒が多いのに他人事のように考えたりして。いやいや、だからこの日本という国が狂信的仏教国なのか。え、そうなの?
とりあえず入園。拝観料が800円なのは高いなあと思いつつもとりあえず入る。そして売店の天ぷらそばは異常にまずい。まあ予想はしていたけど。
なかにはとにかく大仏の偉大さを称える看板があちこちに。やれ自由の女神より大きいだの、奈良の大仏が牛久大仏の手のひらに乗るだの。大きければいいというのものだろうか。それにしても高さ120メートル! どういうことだ、これ。
ちょっと気になったのは園内にいた高齢の家族連れ。車いすのお婆さんとその息子夫婦のような3人。息子だってもう60代はいっているであろう風貌。でね、その車いすのお婆さんが有り難そうにその大仏に手を合わせるんだよ。何かなあ、ひとつの現象や事例でも受け手によって全く印象は違うのだということを痛感。私にとってヘンテコで面白いものも人によっては有り難いのだ。うんうん。
昔、三島由紀夫の金閣寺を読んで、その黄金の寺、絶対的な美といわれるそれに異常なほど憧れ、喜んで修学旅行に行ったらそこにあったのはまるでヤンキーの改造車か土地成金かというほどの悪趣味なものだった。しかしあれよりも悪趣味なものが、こんな場所にあるとは思わなんだ。
自分はこういう建造物すべてに異様な禍々しさを感じる。ひとりの(もしくは数名)人間の意志のみによって作られたものは、すべて不吉さと威圧感を与える。たとえば都庁であるとか国会議事堂であるとか。あと最近の妙にバカでかいイベント会場などはそういった意志を非常に感じ、嫌悪の対象となる。しかしこの牛久大仏になると、その小数の意志が明らかに奇妙な方向にベクトルが向かっているので思わず楽しくなってしまうのだ。
ただ自分としては、こういうものもいいけどやっぱりごちゃごちゃした裏通りとかが一番面白い。
前述したが、この大仏は霊園によって作られたもので、その霊園は大仏のすぐ近くにある。だからまあお墓参りのついでにちょっと見るようなアトラクションなのだろうな、これ。まさか東京から電車で大仏のためだけに来ている客なんて、私らだけなのかもしれない。
さてさて園内にはふれあい動物園というものがあり、これなら子供もお墓参りがつまらなくないという、にくい演出。そこに進んでみると・・・。ええと、動物、たくさんいた。山羊とウサギとリスにプレリードック。基本的にみんな家畜かペット。あ、あと妙に素人っぽいお猿の曲芸というものもあった。舞台で猿が演技中におしっこしたのが一番面白かった。ていうかそれしか覚えていない。
またウサギやリスは餌をあげたり触ったりできる。自分はリスの餌を買わずに、リスのいる場所(金網に囲まれた小さい公園をイメージしてほしい)にいったのだが、そうしたら奴ら普段は餌を貰いなれているのか、数百匹いるというリスの大半が、入った途端にこっちに近付いてくるのだ。生まれて初めて、リスを怖いと感じた。
さて動物園も堪能したので再び大仏。なんとこの大仏はなかに入れるのだという。所謂胎内巡りという奴か。
なかに入ったらいきなり荘厳な音楽に出迎えられたり、エレベーターでいろいろ解説してくれる明らかにパートのおばちゃんのトチリっぷりにどっきりしたり、いろいろ展示の写真や大仏ができるまでの歴史(自慢話)を見せられたり、大仏胸部に小窓があってそこから展望する牛久の景色は本当に何もなかったり、客が誰もいない写経部屋があったり、ここで埋葬されて牛久大仏のなかに遺骨を預けられたりするのは自分はいやだなあと思ったり、台座のところには外に出られるのだが、そこに行ったら思いきり空調のファンが見えて「空調のある大仏ってどうだろう」と思ったり、となかなか楽しめた。あと大仏内部に売店があるのはどうしたものかと思う。
という訳で近場の割にはなかなか楽しい経験ができたものです。お盆には夜に大仏がライトアップされるらしいので、それも見に行きたいと思った。
それにしても人間のいろいろな思惑がこういうものを作るのだろうが、このギネスブックに載ったことを自慢したりする精神って釈迦のいっていた『無』や『空』の精神とは最も遠い場所にあるような気がする。
「善人なをもって往生をとぐ、いわんや悪人をや」ということなのかな。牛久大仏は阿弥陀如来らしいし。
帰り道のバスで夕暮れの大仏を見ていたら、高層ビルのそれのように大仏の頭部が赤く点滅していた。成田空港も遠くないしね。しかし一般客は胸部までしか行けないが、絶対に頭部には首領がいるような気がする。誰だ、首領って。(バチェラー連載より。2001年)
場所は牛久。茨城県。常磐線で上野から1時間。近いなあ、通勤圏といっても過言ではない。
そこにギネスブック認定の、世界一の大仏があるというので見物にいった訳。まず常磐線で牛久駅についたものの、その大仏を作った霊園の看板はあるものの、市の観光案内の看板では全くといっていいほど語れていない。近くに地図の看板もあったので眺めてみたら、所謂観光地がある方向とは真逆の位置にそれは存在しているのだという。ふーん。内心、駅から降りた途端に大仏が見えたり、大仏音頭とか大仏饅頭が売られている駅前を想像していたのだが、そんなことはなかった。チェッ。
で、一日数本の(土日ですら1時間に一本という頻度)の乗り合いバスに乗って、いざ鎌倉、でなくていざ大仏。
駅から離れるとどんどんと自然が豊かになり、ちょっと不安すら覚えてくる。国道を走る車以外に、本当に人の気配がない。木ばっかり。あと田畑。
でしばらく進んでいるといきなり雑木林から、ぬうっと飛び出す大仏。本当に「ぬうっ」という表現がこれほど適切なものってなかなかない。だっていきなり現れるから。思わずに声に出して驚いてしまった。
その大仏。座っているのでなく、立っている。これもちょっと珍しい。よく考えたらとにかくギネスブックに載りたいという一心で高さを稼げる立ちポーズにしたのかも。建立したのは90年代。歴史的建造物とはほど遠い。
で、到着しました。近くで見てもその巨大さにクラクラする。何となく自分の中の遠近感が狂ってくるような。
もし仮に狂信的仏教徒によって北朝鮮みたいな国家が作られたら、こんな風景が存在するのではないかなあ、と日本だってかなり仏教徒が多いのに他人事のように考えたりして。いやいや、だからこの日本という国が狂信的仏教国なのか。え、そうなの?
とりあえず入園。拝観料が800円なのは高いなあと思いつつもとりあえず入る。そして売店の天ぷらそばは異常にまずい。まあ予想はしていたけど。
なかにはとにかく大仏の偉大さを称える看板があちこちに。やれ自由の女神より大きいだの、奈良の大仏が牛久大仏の手のひらに乗るだの。大きければいいというのものだろうか。それにしても高さ120メートル! どういうことだ、これ。
ちょっと気になったのは園内にいた高齢の家族連れ。車いすのお婆さんとその息子夫婦のような3人。息子だってもう60代はいっているであろう風貌。でね、その車いすのお婆さんが有り難そうにその大仏に手を合わせるんだよ。何かなあ、ひとつの現象や事例でも受け手によって全く印象は違うのだということを痛感。私にとってヘンテコで面白いものも人によっては有り難いのだ。うんうん。
昔、三島由紀夫の金閣寺を読んで、その黄金の寺、絶対的な美といわれるそれに異常なほど憧れ、喜んで修学旅行に行ったらそこにあったのはまるでヤンキーの改造車か土地成金かというほどの悪趣味なものだった。しかしあれよりも悪趣味なものが、こんな場所にあるとは思わなんだ。
自分はこういう建造物すべてに異様な禍々しさを感じる。ひとりの(もしくは数名)人間の意志のみによって作られたものは、すべて不吉さと威圧感を与える。たとえば都庁であるとか国会議事堂であるとか。あと最近の妙にバカでかいイベント会場などはそういった意志を非常に感じ、嫌悪の対象となる。しかしこの牛久大仏になると、その小数の意志が明らかに奇妙な方向にベクトルが向かっているので思わず楽しくなってしまうのだ。
ただ自分としては、こういうものもいいけどやっぱりごちゃごちゃした裏通りとかが一番面白い。
前述したが、この大仏は霊園によって作られたもので、その霊園は大仏のすぐ近くにある。だからまあお墓参りのついでにちょっと見るようなアトラクションなのだろうな、これ。まさか東京から電車で大仏のためだけに来ている客なんて、私らだけなのかもしれない。
さてさて園内にはふれあい動物園というものがあり、これなら子供もお墓参りがつまらなくないという、にくい演出。そこに進んでみると・・・。ええと、動物、たくさんいた。山羊とウサギとリスにプレリードック。基本的にみんな家畜かペット。あ、あと妙に素人っぽいお猿の曲芸というものもあった。舞台で猿が演技中におしっこしたのが一番面白かった。ていうかそれしか覚えていない。
またウサギやリスは餌をあげたり触ったりできる。自分はリスの餌を買わずに、リスのいる場所(金網に囲まれた小さい公園をイメージしてほしい)にいったのだが、そうしたら奴ら普段は餌を貰いなれているのか、数百匹いるというリスの大半が、入った途端にこっちに近付いてくるのだ。生まれて初めて、リスを怖いと感じた。
さて動物園も堪能したので再び大仏。なんとこの大仏はなかに入れるのだという。所謂胎内巡りという奴か。
なかに入ったらいきなり荘厳な音楽に出迎えられたり、エレベーターでいろいろ解説してくれる明らかにパートのおばちゃんのトチリっぷりにどっきりしたり、いろいろ展示の写真や大仏ができるまでの歴史(自慢話)を見せられたり、大仏胸部に小窓があってそこから展望する牛久の景色は本当に何もなかったり、客が誰もいない写経部屋があったり、ここで埋葬されて牛久大仏のなかに遺骨を預けられたりするのは自分はいやだなあと思ったり、台座のところには外に出られるのだが、そこに行ったら思いきり空調のファンが見えて「空調のある大仏ってどうだろう」と思ったり、となかなか楽しめた。あと大仏内部に売店があるのはどうしたものかと思う。
という訳で近場の割にはなかなか楽しい経験ができたものです。お盆には夜に大仏がライトアップされるらしいので、それも見に行きたいと思った。
それにしても人間のいろいろな思惑がこういうものを作るのだろうが、このギネスブックに載ったことを自慢したりする精神って釈迦のいっていた『無』や『空』の精神とは最も遠い場所にあるような気がする。
「善人なをもって往生をとぐ、いわんや悪人をや」ということなのかな。牛久大仏は阿弥陀如来らしいし。
帰り道のバスで夕暮れの大仏を見ていたら、高層ビルのそれのように大仏の頭部が赤く点滅していた。成田空港も遠くないしね。しかし一般客は胸部までしか行けないが、絶対に頭部には首領がいるような気がする。誰だ、首領って。(バチェラー連載より。2001年)