鶴岡法斎のブログ

それでも生きてます

ボーイズラブにこそ「王道」がある

2006-11-02 06:23:25 | 原稿再録
※昨年の暮れあたりに掲載された、二見書房のボーイズラブ雑誌「シャレード」の連載から。
先日、別の人と話していても似たような話になって「あれ、この話って自分、原稿に書いたよな」と思い出してここに再掲する次第。シャレードの連載はまだ続いております。おヒマな時にでも読んでくださいな。

 マンガの原作の仕事もしている関係からか『物語』について話すことが多い。友人知人に映画などを撮っている人がいることもその原因のひとつだろう。
 そこでこの前、喫茶店で雑談中に話題になったのだが
「最近は恋愛が幅を利かせすぎている」と友人の映画監督が。確かに、と思った。舞台が現代だろうが過去だろうが、近未来なんだかよくわかんない世界だろうが、とにかく恋愛が多い。「恋愛モノ」というジャンルがポピュラリティーを持ってしまったのか。
「そういう作品ってさあ、男女2人の恋愛とこの世界の破滅とかがダイレクトに関わってきたりするんだよねえ」と吐き捨てるように、彼。自分はその作品が何だかわかったが「いい人」でいたいので最終兵器は出さずにここでは名は伏せる。
 ま、恋愛が悪いとは思わない。物語としてカタルシスのひとつであることは間違いないのだから。しかしこ数年は確かに恋愛、それも一対一の関係が延々と続くような感じの作品が多いように思える。それ以外の登場人物はその恋愛の協力者か妨害者という役割を演じているだけの。
「王道のアクションとかがいまはないんだよねえ」と先の映画監督。自分はそれほど映画、それも新作をほとんど見ないのだが、そういうもんですか、はあ、と思いながらすでに半分は飲んでしまったブレンドに角砂糖をもうひとつ追加してしまおうかどうか考えている矢先に、はたと気付いた。
「ヒントはボーイズラブにあるんじゃないか」と自分。角砂糖も驚いて投身自殺だ。
 要点をまとめるとボーイズラブ系のそれは男同士の世界を描いているわけである。元々は熱血マンガであるとかのパロディとして登場した(はず)。最近は作り手の側が、
「さあこのキャラクターでボーイズラブでもやおいでもカップリングでもちゃまんちゃまんでも好きにしてください」という姿勢が垣間見えるので自分は何となくイヤ。本来、そういうことがありえない場所にそういうことを妄想するのが面白いんだから。
 ではどういう「場所」が妄想されてしまうのか。それは男同士の友情だったりプライドを賭けた戦いであったり、相手を守ろうという気持ちではないのか。武士道、という言葉を安易に使うべきではないかもしれないが、そういう部分に男(たち)の色気が生まれて、一部の女性(この雑誌の読者、大多数)は妄想を逞しくしてあれこれ考えるのではないか、と。
 ボーイズラブ系のパロディにされる作品って「恋愛」の部分がごっそり抜け落ちているのではないか。そこを女性読者が、「男同士」の登場人物を使ってその空白を埋めるのではないか。そしてボーイズラブは完成する。
 つまり一旦、ボーイズラブに吸収されてしまった、その戦う男たちの美学であるとか友情であるとかをもう一度、こっちの世界に戻してしまえばいいのではないか。そういう考えを経ての「ヒントはボーイズラブ」なのである。
 自分のこの考えにその監督は賛同してくれた。しかしボーイズラブ作品とはどういうものなのか、存在は知っているがよく知らないらしい。
「若い頃に手伝いでゲイの人が見るピンク映画のカメラやったけどそれとは違うのかな」
「多分、大幅に違います」
 机上の空論よりもいざ鎌倉。喫茶店を飛び出して書店のそのテの本が並んでいるコーナーに直行。何しろ、ボーイズラブの「ラブ」の部分を取り除けば王道復古なのだ。ええと、確信を持って書いていますがはっきりいってこの考えも仮説というか妄想です。
 周囲からはどう見えたであろう。三十過ぎた男が2人。ボーイズラブの書籍が大量に平積みされたコーナーであれこれ物色している様子を。しかも自分はガイド役。
「あ、それは小説です」と自分。
「へえ、こんな表紙なのに」
「こっちはマンガでもアンソロジーですから入門編としてはいいかと」
「ねえこの「特集メガネ」って何?」
「説明すると長くなりますけどいいですか」
 こんなやり取りが数時間。自分はこの「ボーイズラブにこそ物語の王道が隠されている」という仮説を信じ、今後も埋蔵金発掘に命をかける所存であります。

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