哲学者か道化師 -A philosopher / A clown-

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東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』「リアリティへの不信/物語が多すぎる」

2007-04-30 | 
ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2

講談社

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「現代の物語的想像力は(…)、キャラクターのデータベースの隆盛とコミュニケーション志向メディアの台頭という二つの条件の変化のため、メタ物語的な想像力に広範に侵食されつつある。ひらたく言えば、そこでは制作者も消費者も、ひとつの物語を前にして、つねに他の結末、ほかの展開、ほかのキャラクターの生を想像してしまうし、実際にそのような多様性は、メディアミックスや二次創作として具体的に作品を取り巻いている」(『ゲーム的リアリズムの誕生 動物するポストモダン2』P236)

 この本は、評論家、東浩紀氏の『動物化するポストモダン』の5年越しの続編であり、また氏のこれまでの思索のとりあえずの総決算の本である。出るのは前々知っていたのだが、つい最近出たのを知ったので、レビューを書くには出遅れた感がしている。ま、それはどうでもいいのだが、この本は桜坂洋の『All You Need is Kill』やKIDの『Ever 17~out of infinite~』を例にし、ポストモダン化し、データベースが優勢になり、「物語が成立しない、あるいはあまりにたやすく成立してしまう」(P26)環境に至った現在において、この状況を反映したライトノベルや美少女ゲームをはじめとした作品を、いかに批評していくかという課題に挑戦し、さらにまったく新しい「日本文学史」の構想を示唆している野心的な本である。
 アマゾンの紹介では、東氏自身が直接紹介をし、その下のレビューには反発している意見も書かれている。確かに、この本は一定(大半?)の層(場合によってはオタクも含む)の反発を招かざるを得ないと思うし、僕としてもちょっと突っ込んだほうがいいと思う部分もないわけでもないが、それでも「オタク」というタームに関心を持つ人と、「批評」という営為に関心をもつ人は、とりあえず読んでみる価値があると、僕は思っている。少なくとも、東氏は本気であり、その本気具合は僕にはひしひしと伝わってくる。ちなみに、僕はこの本を読んでいて、自分は割りと保守的なオタクだなと感じた(まあ、『ハルヒ』をほとんど受け入れられないのでその気はもともとあったのだが)。
 というわけで以下は僕の、この本に対する反応である。

 まず、突っ込んでおきたいのだが、東氏の論考の中心的なモチーフを成す「データベース」(とその中に存するデータの類型化)という概念は美少女ゲームのプログラムの例を出され(『動物化するポストモダン』)直感的には了解できるのだが、割とあやふやだし、何にでも転用可能な万能概念である。それに、今に至って概念が拡張されているので、なおさら含意を確定しがたく感じている。実は、僕の大学院の先輩が東氏自身にデータベース概念について質問したことがある、という話を聞いたことがあるのだが、返答は要領を得なかったらしい。質問の趣旨としては、「物語や意味を剥奪されてたとされる、データベース内のデータにしても、やはり物語や意味という負荷がかかるのではないか」というものだったらしい。他にも斎藤環氏が「オタクはデータベースのストックにある萌え要素の組み合わせで萌えるのではなく、デジ子なら「~にょ」という口癖に萌えるのだ」という論をどこかで展開していたはずだ。僕も、萌えはキャラクターを要素の単純な集合・組み合わせに還元できるという考え方には、違和をもっているし、むしろその集合に何を+αできるかということに、萌えやキャラクター性はかかっているのではないかと思っている。第一、ツンデレのようなキャラは、キャラを文脈の上に立たせ、その性格をかなりうまく描写しないと成立しないのではないかと思う。それに、僕がこの作品はあの作品のあの部分と似ていると、ときどきこのBlogに書くように、類型化は伴っても、作品の固有性は、まさにその固有名によって担保されているように考えている。もっとも、僕の批評(と呼んでいいのか、最近かなり不遜ではないかと思っている)は、アニメ作品を念頭においていることが多いので、『ゲーム的リアリズム』とはよって立つ前提が微妙にずれているかもしれない。

 東氏は、Keyの『Air』やFlyngShineの『CROSS†CHANNEL』、KIDの『Ever 17』などの作品を取り上げながら、美少女ゲームの美少女ゲームとしての条件や環境や仕組みを物語の中に取り込む作品を「メタ美少女ゲーム(この本ではあまり使われないながらも、便利で適切な「メタフィクション」という言葉を僕は積極的に用いるが)」として評価しているし、僕もその評価を共有するのだが、果たしてこういう作品が、東氏が新しい可能性を開くというほど、広汎に広まるとは思っていない。というのは、こういうゲームは言わば「裏技」を使って書かれたのであり、こういうジャンルの仕組みを利用したメタフィクションはあまり応用が利かず、量産できず、さらに言えばもう打ち止めですらないかと感じている(田中ロミオの寡作など)。正直、このジャンルで『Ever 17』を超える作品が出る可能性については望むだけ無駄だと思っている。実際、あかべぇそふとつぅの『車輪の国、向日葵の少女』以来、ここ1、2年はそういう仕組みで作られた作品については聞いた覚えがない(田中ロミオ氏が『CROSS†CHANNEL』のスタッフで新作を作っているらしいが)。それに、メタフィクションについても、『向日葵の少女』や工画堂の『symphonic rain』などは、ある程度「叙述トリック」という説明で済まされてしまう可能性もある(「メタフィクション/叙述トリック」という区別を厳密につけられるなら話は別だが)。
 むしろ僕としては、こういう「小技」を使った作品をもちろん評価しつつ、たとえ嘘でも大きな物語を描く意志を持ち続けた作品を擁護したい。たとえばKeyなら『Air』もそうだが、より素朴に「家族」という嘘を突き通した(あまり「家族」という言葉に幻想をもたない僕にも涙させた)『CLANNAD』をこそ、Keyの最高傑作としたい。この作品は、類型化されたキャラクターを配置しながらも、ある一つの人生を描きえた稀有な作品だと思っている。
 あと東氏がメタフィクションの批評について有効だとして提案している「環境分析」(環境分析とは、いわば、作家が言いたかったこと、作家が語ったことそのものを「解釈」するのではなく、作品をいちど作家の意図から切り離したうえで、作品と環境の相互作用を考慮し、作家にその作品をそのように作らせ、そのように語らせることになった、その無意識の力学を「分析」する読解方法(P215))だが、僕は批評とはそもそもジャンルや媒体や作品や読者の連環を基盤として、作品を評価していく営為だと考えていたので、「環境分析」についても既存の構造主義的な批評と同じか、せいぜいその拡張くらいにしか受け取れない。
 本書について、「新しい」と感じることは実はほとんどないというのが本音である。たとえば、美少女ゲームやライトノベルをちょっと意識して読んでいる人(田中ロミオ好きとか)なら、少なからず感じていたはずのことばかり(現に、僕自身の『CROSS†CHANNEL』(2006/6/9)のレビューには同様のことを述べており、東氏の「メタフィクション」の概念で何を言おうとしているかを予想し、ほとんど当てている)。これをどうもうまく一番乗りして整理して書いたなという印象ではある(もっともその整理の手付きがこれ以上なく的確なのだ。『存在論的、郵便的』というデリダを分かりやすく示したデビュー作といい、東氏のもっとも際立った才能は、整理の能力ではないかと思う)(ちなみに、東氏のオタク論は、『動物化するポストモダン』以来かなりの部分を大塚英志氏に負っている。東氏は『ゲーム的リアリズム』で大塚氏の論考に批判を試み、その試みはかなりの説得力を獲得しえているが、それでも大塚氏の偉大さが薄れるわけではない)。それに、この本は別にオタクとその周辺に向けて書いたわけではなく、むしろ伝統的な文学とその周辺に書かれたもののようなので、部外者への紹介ということで、特殊なことを分かりやすく一般的に書いたものなので、僕らには冗長に感じられる文章であるほうが当たり前なのかもしれない。(ちなみにそれでも東氏はいくつかの発明をしている。美少女ゲームの引用の仕方「『作品名』、なになに編、何月何日」。僕はよく作品の引用を載せるが、美少女ゲームの引用については、作品名以上を載せるのは諦めていた)。
 僕が気になったのは、東氏が『涼宮ハルヒ』シリーズを少なからず評価している点で、意外に感じた。この本でも紹介されている『涼宮ハルヒの消失』に関しては、僕も同じように評価しているが、少なくともスニーカー大賞受賞作の『涼宮ハルヒの憂鬱』の時点では、ハルヒ=神、みくる=未来人、有希=宇宙人、一樹=超能力者という、非常に安易な設定の萌え+ドタバタノベルにしか読めないのだ(ただし、『ハルヒ』のファンについてはかなり二層化していて、片や細部のパロディを読み込み、批評的に読める層と、片や素直に萌える安直な層があるような気がしている。思うに『ハルヒ』の成功はその二つの層を両方とも取り込めたからではないか)。それに、主人公のキョンが口ではイヤイヤ言いながらも、ハルヒに振り回されるという、「可愛い女の子にイヤというほど振り回されたい」というこれまた安直な欲望が透けて見えるところも気になるところだ。まあ、こういうジャンルにどっぷりつかっている僕が言っても説得力がないが。
 あとは、オタク系のジャンルの自己言及(=批評)的な作品は、「メタフィクション」に分類されるような「ゲーム的リアリズム」の作品に限らず、たとえば僕がファンの、庄司卓氏の『トウィンクル☆スターシップ』の、宇宙船に主人公の他は女の子ばかり4999人乗っていて、作者は毎回新しい女の子を登場させキャラの書き分けの限界に挑戦すると宣言するという、ともすればアイロニカルにさえ映る試みもありえるのではないかと思っている。これだって「データベース」という環境を明確に扱っている例だろう。そんなわけで、「データベース」や「メタフィクション」「ゲーム的リアリズム」とそれへの批評はオタクたちにとっては、当たり前の前提ですらあるかもしれない。
 最後に付加的に付け加えておきたいのが、この本であまり明確に扱っていない感もするが、美少女ゲームに耽溺するオタクに対する、フェミニズム的な倫理の問題である。これには、筆者はちくちくするところが少なからずあった。この論は、なぜ美少女ゲームの主人公に「ヘタレ」が多いのか(『君が望む永遠』や『School Days』など)、という問題に関係していると僕は感じた。是非この問題を主題として扱った論考を書いてほしいものである。
(蛇足しておくが、ライトノベルならうぶ方丁について言及すべきだとか、アニメの『舞-Hime』シリーズも無視できないはずだ、とかいろいろないものねだりも出来るが、意味がないので明示しない。それに、僕は東氏のオタク作品についての理解に多少異論を出したが、東氏の伝統的な文学の理解については、文学の関係者からこんな程度で済まないほどの異議が噴出するだろう。いずれにせよ、東氏の提出しようとするテーゼを語りきる作業はとてつもない量になるので、新書サイズの論考では簡略化は否めないし、細部を批判してもしかたがない。果たして東氏が今後批判をどうさばいていくかは、見ものだ)

 というわけで、この本は、オタク作品を例として、より広い層に現在の物語の状況について紹介・解説するための本であるが、むしろ(やはりと言うべきか)オタクが自己批評をするために読むべき本だと感じた。正直、僕にも少なからぬ反省点が浮かび上がった。オタクにこそ、是非一度ぶつかってほしい本である。

「(…)筆者がここで「批評的」という言葉にこだわるのは、「批評的=臨界的」(critical)とは、本来、明示的な批判や非難をさすのではなく、文学でも美術でもアニメでもゲームでも、とにかくなにか特定のジャンルにおいて、その可能性を臨界まで引き出そうと試みたがゆえに、逆にジャンルの条件や限界を無意識のうちに顕在化させてしまう、そのようなアクロバティックな創造的行為一般を指す形容詞だったはずだからである」(P323)

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