石に泳ぐ魚 (新潮文庫)柳 美里新潮社このアイテムの詳細を見る |
「私は何故水と魚の記憶に囚われているのだろう。私は現在を全て過去の記憶で濾過しなければ受け入れることができないでいる。私の脳内のフロッピイには太古の記憶まで保存されているのだろうか、そこには透明な水の中に一匹の魚が棲んでいる。しかし魚もまた記憶を持っているのだとすれば」(P194)
評判を聞いて面白そうだったので柳美里の『石に泳ぐ魚』を読んでみた。思えば、どんな小説かは知られていないのに、その訴訟ばかり有名という変な小説である。知らない人のために言っておくと、この小説は私小説で、中に出てくる在日の人の顔に大きなあざがあることを「異様」とかなんとか表現してしまったせいで、作家自身の親友でもあったその人から出版事前差し止めと慰謝料を求める訴訟が起こされたのだ。裁判の結果、出版社と柳氏が敗訴。『石に泳ぐ魚』の原版は差し止められ、今出ているのは改訂版というわけだ。原版については当時の『新潮』に載っているが、僕のいた大学の図書館だと、研究など相応の理由と教授の紹介があってようやく読めるという扱いだったと思う。
ちなみに、この裁判が行われていたとき、他の作家からの擁護とかはなかったらしい。まあそりゃそうだなとは思う。小説のためとはいえ、親友の顔の腫瘍を「異様」と書くというのは、「小説家」の事情であって、社会的な承認は得られないだろう。その親友にインフォームド・コンセントを取るのを怠った作家の問題ではないか(実は僕にも顔に大きな腫瘍(頬が赤いというだけだが)があるが、人の小説の中に書かれ「キモイ」とか言われたら、そりゃ怒る。自分で言うのも何だが、めんどくさいコンプレックスとかあるのだ。むしろ自分で私小説のネタにしたい)。新潮社文庫版で解説を書いている福田和也氏は裁判の結果について「文芸、小説を、平板な法的論理で裁断しているだけでなく、作家の創作姿勢そのものに土足で踏み込む、きわめて傲慢な判決としかいい様がない」と批判しているけれど、近代社会においては宗教だの芸術が社会の中で特権的な位置に置かることはもはやありえない、というのが(ルーマン流の)現在の社会診断である。
でまあこの小説についてなのだが、正直苦しい。奇しくも福田氏がどこかで、「大衆小説は人を気持ちよくさせるが、純文学は違う、むしろ気持ち悪くする」とかなんとか言っていたが、それを素でいっている。決して長い小説ではないし、文章はとてつもなくうまいのに(あるいはだからこそ)、苦しい。窒息しそうな小説だ。作家は魚とか水を連想させる言葉をしばしば使っているが、思えばこの窒息感を適切に表した比喩だと思う。他、小説中、見事としか言い様がない、形容や比喩がたくさん登場するが、多すぎてくどい気も。いや、文章はめっちゃうまいのだが。
主人公はかつての柳氏自身である劇作家。劇の脚本を書きながら、演出家と反同棲の生活を送っている。彼女は在日二世で韓国語は使えない。在日の家族、劇団の仲間、今は韓国に住んで彫刻家の卵をやっている在日で顔に大きな腫瘍を持った友だち、その他の人たちとの関係が描かれる。果たして小説がどこに行くのかわからず、目眩を覚える。
なんかエロいし、グロいし、疲れる…。しかし、すごいし良い小説だよなあ(特に今の文壇で受けそうなという意味では)。個人的には、ネットウヨクと衝突しているのかすれ違っているのかわからない、いわゆる「在日」の人たちのイメージを獲得出来て良かった。彼(女)らは、要は日本にも韓国にも居場所がないのかあ。つれー。一言で感想を述べれば、鬱るんです。真面目に文学をやりたい人は必読。その他の人には、まちがっても勧めらんねえ。