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哲学者か道化師 -A philosopher / A clown-

映画、小説、芸術、その他いろいろ

ハーマン・メルヴィル『白鯨』

2007-12-15 | 小説
白鯨―モービィ・ディック〈上〉 (講談社文芸文庫)
ハーマン メルヴィル,Herman Melville,千石 英世
講談社

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白鯨―モービィ・ディック〈下〉 (講談社文芸文庫)
ハーマン メルヴィル,Herman Melville,千石 英世
講談社

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「もう一度聞け、スターバック、もう少し深いところの話だ。よいか、すべて目に見えるものは、ただのボール紙でできた仮面にすぎぬ。だが、ひとつひとつの事には、たとえば人が生きてするまぎれもない行為や行動には、何かよく分からぬが、それでも理の通ったものが奧にいそんでいる。それが理の通らぬ仮面の背後から、鋳型のようにその形を押しつけてくるのだ。もし、人間、何かを撃ち破りたいなら、この仮面を撃ち破れ。この壁を撃ち破らずしてどうして囚人が外に出られようぞ。壁、おれにとっては白い鯨が壁だ。おれのほうに迫ってくるのだ。ときにはその向こうには何もないと思うこともある。それでも、構わぬ。かれがおれを試み、かれがおれにのしかかってくる。かれのなかに、たけり狂う力が見える。たけり狂う力を生み出す計りがたい意志が見える。その計りがたきもの、それをおれは憎悪するのだ。あの白い鯨は代理なのか、あの白い鯨は本体なのか、いずれであれ、おれは我が憎悪をかれのうえにたたきつける」(上P396-397)

 ハーマン・メルヴィルの『白鯨』を読んだ。米文学ベスト10位には必ず入る、そしてサマセット・モームが世界の十大小説に挙げる傑作中の傑作なのである。そしてなんと言っても、この講談社文芸文庫版の訳者は僕の大学の卒業指導教官なのである。むしろ、先生今まで読んでなくてすいません、ていうくらいだ。米文学はロストジェネレーションを中心に結構好きで、ホーソーンの『緋文字』からオースターまで割と手広く読んでいるのだが、フォークナーの『八月の光』をギブアップしたり、ヘミングウェイとかのマッチョ趣味が合わなかったりで、結構穴があった。『白鯨』も『老人と海』みたいな感じかとちょっと敬遠していたのだ。

 さて、この『白鯨』の講談社学芸文庫版だが、文庫で一冊1900円、それだけでも下手なハードカバー文芸書より高いのに、上下巻の2冊ある。あわせて3800円…CDより高いじゃん。でも、名作と呼ばれるだけあって、それだけの価値(まあ文学の価値を金銭的な価値と等閑視はできないけど)はあると思う。というのは、まずこの小説はなかなか異様な小説だ。
 まずはじめに、この小説のモチーフでありそれ以上のものである鯨についての数多くの引用から始まる。そして、いざ本編がはじまっても、話の裏には聖書を中心とした膨大な引用がある。語り手のイシュメールは作中の行為者でもありながら、何かをするのは前半の一部だけで、あとはエイハブたちと一緒に船に乗って働いているにもかかわらず、行為者としてはほとんど登場しない。そして、いざイシュメールとエイハブたちが航海に出ても、鯨取りや航海や鯨そのものなど、いろいろな事物についての記述や説明が大部分を占め、そういう小説らしくない文章の方が、話の進む小説らしい文章よりも多いくらいなのである。さらに、訳者(つまり僕の先生)の解説によれば、これは歴史的出来事としてあった、ネイティヴ・アメリカンと入植者たちの対立を暗に描いたものだとされる。また古くの読み方では、エイハブ=文明=善VS白鯨=自然=悪という対立と読まれがちだったのに対し、モームはエイハブ=文明=悪VS白鯨=自然=善という対立であるそうな。そしてつけ加えるなら、僕の読み取りでは生活貧困者のメルヴィルが裕福層に対するやっかみを暗に描いたのが大きいのではないかと思える(ちなみに、メルヴィルは捕鯨船で働いたが辛くて脱走したらしい(wiki知識))。
 まあ、そんな具合で、いろいろ描き込まれたせいで、『白鯨』は難解で、大江風に言えば多層的で、システム論的に言えば複合的な小説である。そもそも、先に述べた話よりも説明にページが割かれているという意味では、あまり小説らしくはない。それでも、文句なく面白かった。それも先が気になってどんどん読み進むという類の小説ではなく、読んでいる間何かが膨れあがっていくような、充実した面白さである。その理由の一つには、別にこびを売る訳じゃないけれど、訳者の訳の巧さ、とくにそのテンポの良さが挙げられるのではないかと思う。この軽快な文体を読んでいると、メルヴィルの文体の軽快さが窺われるのだが、その軽快さのおかげで説明的な内容の文章を読んでいても、不思議な小説的な面白さを感じるのだ。いやあ、先生良い仕事してます。
 大学の文学部の学生を含めても、価格面でもその長さからしても、簡単に勧められる小説ではないが、こういう小説もあるんだ、ということで見識を広められる小説だと思う。文学の古典的大作にしばしばある「異様さ」(かつて自分の右足を奪った白鯨に老船長が復讐しようとするという単純な話なのにもかかわらず!)、それを味わえるだけでも、ただすごい小説だ!とうなるしかないのである。

 あ、あとつけ加えておくと、こういう読むのに時間がかかる大作を読むときなど、読んでて良いと思ったところに印を付けておいて、読み終わったあとにその部分を読み直すと、その小説がどんな小説だったのか、ということを簡単に見直せて良いと思います。

「我々が人生と呼んでいるこの錯綜した奇妙な事態のうちには、人がこの全宇宙を一つの巨大な冗談だと考える奇怪な瞬間、奇異な場面がある。しかし冗談の真意はそう考える本人にもおぼろ気にしか分からない。ただ、からかわれて傷ついているのは、他の誰でもなく自分であると確信してはいる。なのに生きることに脅えを感じるわけではない。まして、反抗的に生きて行くわけでもない。どんな出来事でも、どんな主義でも、どんな信条でも、どんな意見でも、どんな飲み込みにくいものでも、有形無形の差にかかわらず、どんなごつごつしたものでも、人は飲み込んでしまうのだ。まるでやたら強靱な胃袋をした駝鳥ではないか。駝鳥は銃弾でも火打ち石でも飲み込むという。そして、ささやかな苦労や心労、あるいは、不意に襲いかかってくる災厄の予感、生命と身体の損壊、そしてこれらすべてに加えて他ならぬ死そのものも、これらすべてが、かれにとっては、不可視にして正体不明のあの老道化師に、冗談半分で脇腹を小突かれたくらいにしか思えないのだ。気のいいひょうきんな仕草であいつが脇腹をちょんちょんと小突いてきたんだと考える。この機会で不安定な気分は、何か極度の苦難に直面しているときに限って襲ってくる。何事かに真剣に取り組んでいるさなかに訪れてくる。結果、かれにとって、いまのいままで重大なる意味をもっていた事柄が、途端に、すべては冗談でした、これもその一部なんです、と思えてくるのだ。これを、自由で気楽でにこやかなならず者の哲学とでも呼ぶなら、捕鯨の危険ほど、この哲学をのさばらせるものはないだろう。そしてこのおれもいま、この哲学を身に付けて、ピークオッドの全航海と、そして、その目的である大いなる白鯨につき合って行こうと考えたのだ」(上P536-537)

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美嘉『恋空』を本気で批評してみる。

2007-12-07 | 小説
 『恋空』を本気で批評してみた。ちょっと大学でやっている研究のテーマに関係がありそうだったので、読んでみたのだ。

 批評に信憑性をもたせるために、僕のスペックを書いておこうかと思ったけど、あまり文芸批評に詳しいわけではなく、むしろ怪しさが増すくらいなので、やめておこう。僕がどんなものを読んでいるかということについては、このブログの記事を読んでもらえればわかるだろうし。

 『恋空』を批評しようとして、まず戸惑うのは、意外にもその批判の困難さだ。確かに、アマゾンのレビューに書かれているような上から目線の「叱る」形式の批判などいくらでもできる。例えば、作中で主人公がレイプにあったり、ストーカーにあったりなど「事件」と呼ぶに足る出来事があるが、それらの出来事に対し、警察に被害届を出すのではなく、自分たちでケリをつける。また、教室や屋外でセクロスしたり、無免許運転、無菌室でのキスなど、結構やりたい放題のことをやっている。ついには、互いに高校生なのに妊娠してしまって、その子を育てる、彼氏は高校辞めて働くとか言い出す。しかも、そんなこんなについて、主人公=語り手は青春という言葉を出して、勉強だけしてたって、青春の思い出は出来ないと自己肯定。社会を舐めんなよ、という批判は、出来すぎるほどにいくらでも出来てしまう。これが作品を外部から観察して、別種の基準に照らして「叱る」という機制である。それ以前に、『恋空』は誤字脱字が多く、話のつじつまもあっておらず、そもそも小説ではないと言い切ってしまっても、問題ない。

 一方で、作品を内在的に批評する、つまり作者=語り手と同じ視点に立って、作品世界に入り込みながら内在的に批判するという作業は難しい。というのは、主人公たちのやることには、目に余ることも多々あるけれど、彼(女)たちは、必ずしも反社会的でも脱社会的でもない。つまり彼らに悪意はないし、彼らには彼らなりの価値観や倫理観(たとえば、浮気はダメとか、人の気持ちは思いやらなくてはならないとか)が(奇妙な形ではあれ)確かに存在している。

 『恋空』を批判するのが難しいのは、主に二点があると思う。一つは、端的にわれわれがケータイ小説というジャンルに不慣れなせいだ。というのは、普通批評というのは、同じジャンルの他の作品を比較考量することで、良否を考えるわけだけど、ケータイ小説はまだまだ生まれたばかりの分野で、比較できる作品が少ない。また、ケータイ小説の傑作として認められているのが『Deeo Love』で、これまたわれわれのようなそれなりに小説や本を読みなれた人にとっては、つらい小説ときている。つまり、ケータイ小説を批評するためのベースが今のところ存在していないということなのである。一応ケータイ小説も、小説ではあるので、今まであった文芸作品と比較できないこともないが、純文学作品はもとより、村山由佳のような恋愛小説と比べるのも、バカげているという印象は否めない。ケータイ小説と同じく、比較的最近登場した小説のジャンルとして、ライトノベルの分野があるが、ライトノベルもすでに10年を超えるくらいの歴史をもっているので、『ブギーポップ』シリーズや『イリヤの空 UFOの夏』『オーフェン』などなど、過去に傑作と認められた作品と現在出ている作品を比較考量して批評をするのは、それほど難しいことではない。だから、ケータイ小説を本気で批評するには、ケータイ小説というジャンル自体の積み重ねを待たなければならないのである。ちょっと聞いたところでは、阿部和重(芥川賞作家)がケータイ小説を書いたなんていう話もあるから、実験小説的に、既存の作家がケータイ小説に参入することもこれから考えられるだろう。今のところケータイ小説がクズばかりだとはいえ、今や誰もが文字通り携帯しているケータイ電話で小説を読めるというメリットを考えるならば、ケータイ小説というジャンルの可能性について真面目に考えないことはもったいない。

 さて、批判のもう一つの困難であるが、これは『恋空』がいかにクソだったとしても、たくさん売れており、現にさらには多くの人の共感を読んでしまっているではないか、という端的な事実である。作家のよくあるようなインタビューで、「たくさんの人に共感してもらえればな、と思っています」という感じの答えが返ってくるが、人に共感や感動してもらうために小説が書かれているとすれば、ここ最近で『恋空』ほどたくさんの人に共感された小説はないように思える。もとより、『恋空』ほど売れた小説がないのだから(そして『恋空』は出版されたもの以外に、今でもケータイやPCで無料で読むことが出来る)。『恋空』を読んで共感した人たちに、「いや、これはこれこれこうで、ダメな小説だから」と諭したところで、聞き入れられないことは容易に想像可能だろう。『恋空』とその好意的な読者の前では、今まで積み上げられてきた小説というジャンルや、その反省たる批評も、商業主義と読者の共感によって脱臼させられてしまうのである。

 そして、もう一つ付け加えておくなら、『恋空』にはその「語彙の貧しさ」にこそ、リアリズムがある。『恋空』の作者も読者も、そして登場人物たちもあまり(全く!)本を読まない人たちなので(『恋空』の好意的なレビューのなかでは、初めて読んだ本だという書き込みが頻繁に見られるらしい)、語彙が豊富で描写が巧みなほうが、描く対象に対して不自然なのだ。これも、書き手も読者も同様にレベルが下がっているという厳然たる事実以上のものではない。
 ただ、実のところ、僕も『恋空』を読んでいて、この話を書くにはこういう文体しかないなと思いつつ、確かにリアリティを感じた。ちょうど、少女向けの恋愛漫画の文字(会話と状況説明)をそのまま抜き出してきたような文体である。そういう意味では、小中高くらいの女の子が『恋空』に共感してしまうというのも、話の内容と文体という形式の両方について、だいぶ分かる気がする。上から目線でいえば、僕でさえ『恋空』に共感してもいい、と思える程度のものではある。おそらくは、『恋空』文体とて、「ケータイ小説」というジャンルのなかでは、だいぶマシなほうなのではないか。僕は多少は少女マンガも読むし、よしもとばななとか少女マンガに影響を受けた作家の作品も好きなので、割と『恋空』のテイストを受け入れられるのである。しかし、そういう少女マンガ的なリテラシーを持っていない人にとっては、『恋空』を読むことはかなり苦しい読書体験になると思う。付言すれば、僕の好きな壁井ユカコ先生の『NO CALL NO LIFE』の設定や話に『恋空』が似ていることに気づいて、ちょっとへこんだ。『恋空』のような話は、『恋空』に限られるものではなくて、今現在ケータイ小説ならず、広まりつつあるようだ。

 ライトノベルは主に話の内容において、既存の文芸作品(ミステリー、SFなどを含む)から分離してきたけれど、ケータイ小説はマンガ的な文章(ト書きとふきだし)に近づくことで、話の内容と文体という形式の両方において、既存の文芸作品から現に分離しているのではないかと感じた(ここでの「分離した」と「分離している」の違いは、ラノベ作家はなんだかんだいってもそれなりに既存の文芸作品を読んだ上でラノベを書いているのに対し、ケータイ小説作家はそもそも読んでいないので、事実として分離しているとしかいえないという違いだ)。

 最後にコミュニケーションの文脈について述べておきたい。今の社会は、社会の各セクターが蛸壺化して、ある蛸壺の中にいる同士ではコミュニケーションの前提が共有されているために、過剰に共感可能だが、蛸壺同士では共感が不可能なのである。また同様に価値観や倫理観も、蛸壺の中では了解される(KY)けれど、蛸壺同士では了解不可能だ。単純に言えば、蛸壺ごとに見えている世界が全く違う。そのために、ある特定の人たち(『恋空』読者)にとっては、容易に共感可能であり、切実なテーマを扱ってみえるように読めるが(それこそ、彼らにとっては実存的な問題が描かれているのかもしれない)、その他の人にとっては全く興味も出来ずまして共感など出来るはずがないというのは、今や普通の話である。

 以上のような意味、『恋空』はいろいろな意味で現代の問題を凝縮し、体現した小説ではあると思う。もちろん、それは作者が意図したことというよりも、作者=作品自身の問題としてであるが。

 というわけで、ヘタをすれば『恋空』の擁護とも取られかねない批評を書いてきたわけだが、僕としては「ケータイ小説」のジャンル自体には夢をもってもいいのではないかと考えるが、『恋空』はやっぱり論外だと思う。主人公が口癖のように言っているけれど、小説に描かれる行為の中で、あるいは『恋空』というケータイ小説自体にも、「子供だから」という免罪符を振りかざしているように思えるからである(にもかかわらず、主人公は大学に入りスーツを期待して、大人になったとか成長したとかいう、的外れな感慨をもつのだが)。それは、言い訳になってないから。そういうエクスキューズに対しては、もう叱るしかないのだが、曲がりなりにも文芸作品を叱らなくてはいけない時代というのは、どうなんだろう?

 最後に一つ言わせて欲しい。氏ね、DQN&スイーツ(笑)。

 なお、このコメントを書くにあたって、以下のブログにヒントを受けたので紹介しておきたい。

http://d.hatena.ne.jp/gginc/20071122/1195757544
「このような「語彙の貧しさ」こそが、『恋空』独特のリアリズムを支える最も中心的な要素である」

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小島信夫『抱擁家族』

2007-10-08 | 小説
抱擁家族 (講談社文芸文庫)
小島 信夫
講談社

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「この快楽は何だろう。肉体的なものだろうか。それとは違う。おれはようやく征服しかかっているのだ。それだけではない。時子が女として愛撫にこたえるだけのものを持ち合わせていなかったことを、知ったということでもある。おれが悪かったんではない。悪かったのは時子、お前の方なのだ」(P137)

 小島信夫の『抱擁家族』を読んだ。第三の新人の代表作家の代表作なんだが、今時だと文学部の学生でも知らん人が過半数くらいいても仕方ない……。

 主人公は大学講師兼翻訳家の三輪俊介で、彼には時子という妻と長男と長女がい、家政婦のみちよを雇って暮らしている。そんななか、家に招いていたアメリカ兵のジョージと時子の一夜の関係がみちよの口から知らされ、俊介は家庭を立て直そうと奮起しはじめる。しかし、時子にガンが見つかり、引っ越した先の家が不良で、時子が死にと、さまざまな悲劇が彼を襲い、あがき続ける俊介は狂気に陥っていく。

 正直……よくわからなかった。なんか場面転換が唐突な気がするし、文体の感覚もとつとつとしている。まあ、それは許容できるし、書かれていること、それが何を表しているのかも理解はできるのだが、それがおもしろさとして伝わってこないというか、作者の気分とうまくリンクできないというか。
 まあ、それは仕方がない。結婚もしてない青年が、妻が浮気し、家庭が崩壊していくという話を理解するのはなかなか困難である。それに、作者自身「文学の予言的性格」としてあとがき的な文章に、文学は後になってからしかわからないということもある、ということを言っている。
 むしろ有益なのは、解説の大江健三郎の文章だろうか。大江氏は『抱擁家族』の喜劇的な性格について延べ、社会的文脈が変化し、価値観が転倒した現代では、悲劇が悲劇としてそのまま成立することはありえず、喜劇の裏打ちをもってようやく悲劇性が描ける(俺様的要約)ということを言っている。この意見については大賛成で、多少誇大的なところもあるが(まあそれが解説だ)『抱擁家族』の文学的価値について正しく語っていると思う。あるいは、解説を読んでから本文に取りかかった方が、若い読者はより『抱擁家族』を奥深く感じられるのではないか。そう思った。

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武者小路実篤『友情』

2007-09-29 | 小説
友情 (新潮文庫)
武者小路 実篤
新潮社

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「私はただあなたのわきにいて、御仕事を助け、あなたの子供を生む為に(こんな言葉をかくことをお許し下さい)ばかりこの世に生きている女です。そしてそのことを私はどんな女権拡張者の前にも恥じません。『あなた達は女になれなかった。だから男のように生きていらっしゃい。私は女になれました。ですから私は女になりました』そう申して笑いたく思います。(P137)
↑いや、これはアウトだろう。

 武者小路実篤の『友情』を読んだ。「文学少女」シリーズの元ネタになっていて気になった小説だが、ラスト2ページはちょっと感動した。

 野島は脚本家の卵。すでに作品を認められはじめている小説家の大宮という親友がいる。野島は杉子という女性に片思いを募らせるが、杉子が愛したのは大宮で、大宮自身も杉子に野島を勧めるが、結局杉子を受け入れ、野島は親友も片思いの相手も失うという話。

 まあ、解説でも散々書かれているように、青春小説である。しかも、野島と同じ年の僕が読んでも青臭く感じるくらい。23になって、女性と付き合ったことがないのに、純愛を信じているというのは、今日的にはギャグに近いが、なかなか野島の気持ちというのも共感するところがある。そう言う意味では、かなり良い片思い小説ではあると思う。
 だが、である。僕は高橋源一郎先生の紹介とかを読んで『友情』をスルーしていたのだが、『友情』を読んでいて、もう一つスルーした理由を思い出した。というのは、斎藤環先生がジェンダーフリーのバックラッシュについての本で、杉子の冒頭に引用した言葉をやはり引用しており、繰り返されるアンチ・ジェンダーフリーのひな形として紹介していたからだ。この杉子の言葉は、小説の中でも唐突な印象を受ける言葉である。そこまで、女権拡張論なんかの話は全く出ていなかったのだ。多分、時代的にそういうのが流行っており、当時の人は納得して読めたのだろうが、今となってはやはり唐突だし、なかなか良い感じのこの小説の汚点となっている。武者小路実篤と言えば、人間性賛美の白樺派の代表人物だが、この人間性賛美のなかにはジェンダーフリーは入っていなかったんだろうなと思う。まあ、時代的な制約もあるのだろうが。
 しかし、野島を全く顧みない杉子や結局開き直ってしまう大宮を見てると、野島はなるべくしてなったという感じはある。というか、野島が杉子自身を見なかったのは問題だろうが、杉子も必ずしも熱を上げて良い女性ではなかったと思うんだよなあ。むしろ、武子が地味に良いのではないかと思うが。
 あと、この小説でちょっと驚いたのは、登場人物たちが結構「人類のため」とかいろんな国の人が一緒に、ということを屈託なく話していることだ。白樺派の作風だとは言え、この時代は、そういうことを少なからず信じられたんだろうなあ、と想像すると、ちょっと途方もない印象さえ受けてしまう。

 というわけで、ちょっと野島萌え。短いけれど雄大な小説である。

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アイザック・アシモフ『銀河帝国興亡史1 ファウンデーション』

2007-09-22 | 小説
ファウンデーション ―銀河帝国興亡史〈1〉 ハヤカワ文庫SF
アイザック・アシモフ,岡部 宏之
早川書房

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 アイザック・アシモフの代表シリーズ「銀河帝国興亡史」の第一巻『ファウンデーション』を読んだ。

 壮大な規模を誇った銀河帝国であるが、すでにその衰退の予兆は示されていた。しかしそれに気づいたのは、心理歴史学者ハリ・セルダンただ一人だった。彼は、社会の趨勢を数学的に予測する心理歴史学を用いて、銀河帝国の崩壊とその後に続く三万年の暗黒時代を予見した。その三万年の暗黒時代をわずか千年に短縮するために、彼は宇宙のあらゆることを収める銀河百科事典を作り、科学技術を後世に伝えるためのファウンデーションを創始する。彼が亡き後も、彼の遺志を継ぎ、ファウンデーションで生きる人々の物語。

 いやあ、古き良き時代のSF。原典が出版されたのが、1951年……。生まれてねえよ、とかいう問題ではない。どうりで、原子力関係の技術がやたらと万能扱いされているわけだ。

 心理歴史学という、SFエッセンスの大きいガジェットを中心に据えるあたり、やはりSFなのだが、度々訪れるセルダン危機と呼ばれるファウンデーションの進退を決定する事件の解決が、宗教や貿易を使ったりなど、わりと政治小説的な要素も強い。この訳も1984年という、ちょうど僕の生まれた年のもので、古い感じはするのだが、それでも書かれていること自体は、割と現代でも通用するようなする。特に、心理歴史学という学問については、ありそうでなかなかないガジェットで、かなり気に入っている。

 残念ながら、他に読まなければならない本がたくさんあるので、シリーズの続きを読むにしても、だいぶ後のことになってしまうが、巻末の三行の紹介を読むだけでも、面白そうだなあ。そのうち読める日が来れば良いのだけど。

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恩田陸『エンドゲーム―常野物語』

2007-09-19 | 小説
エンド・ゲーム―常野物語 (常野物語)
恩田 陸
集英社

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 恩田陸の『エンドゲーム―常野物語』を読んだ。
 主人公は、夫にして父が7年前くらいに行方不明になった暎子と時子の母娘。この家族は、常野一族の一員だが、ある理由で一族からは離れて暮らしている。そして、彼女らは「敵」と「裏返す」「裏返される」というオセロゲームのような戦いをしている。どうも「裏返さ」れてしまうと、それまでの記憶とかが一掃され、全く別の人物として生きていくらしいのだが。
 最初の2章くらいを読むと『七瀬ふたたび』みたいなエスパー対決が描かれるのかと思いきや、中盤からやたら観念的な方向に行き、読むのにダレる。決して面白くないわけではないのだが、期待した方向からあさっての方向に行き、物語を見失ってしまうというか。終り方も、同氏の『月の裏側』みたいな「これから大変なものが広まっていく」型の「開かれた」物語のタイプで、読者に考えさせるというか、読者の想像力に委ねる部分がやたらと大きな小説である。そのため、かなり読む人の好みが分かれる話だと思う。僕の率直な感想としては、序盤2章の興奮を返してくれ、という感じか。取り立てて、おすすめはしないかも。
 常野物語と副題がついているが、設定関係での関係のみで、常野物語の世俗の権力を求めない雰囲気ともかなり異なっている。従って、常野物語シリーズが好きな人でも肩すかしを食らう可能性はある。

 まあ、そんなこんなであるが、面白い/面白くないと言う評価以前に、恩田陸は遂に馬脚を表してしまった様な気がする。明らかに恩田陸の若者観というのは、今の若者の実情とはズレているのだが、それは「(少女)漫画的」世界観、あるいは恩田陸がそれまでの人生で好んできた作品の世界観に根ざしていたからというもので、ファンは取り立てて気にすることなく読んでこれた。けれどついに『エンドゲーム』では、恩田陸がおばさんであるということが、どうしようにもなく明らかになってしまった感がある。だって、共学の私立大学に通う20代前半でおそらくは都心にアクセスしやすいところに住んでいる女の子が、デートに紺色の品の良いワンピースとか着るだろうか。他にもささいな点ではあるが、恩田陸はやっぱりおばさんだったという印象を裏付ける表現がちらほらと出てきたように思う。

 それに、これまでの恩田陸の作品をほぼ全て読んできた身としては、恩田さんの文体が固まり過ぎてしまったというのも困りもの。割と実直な文体で小説を書く人だとは思っていたが、それでも昔の文体の方がもっとしっとりしていたような気がする。今も恩田さんが連載を8本(!)とかもっていられるのも、この小説の量産に適した文体のおかげだとは思うが、ファンだからこそ、同じ恩田陸の再生産を読むのはツラいものがある。これまでで十分にキャリアを積んだのだから、一度筆をゆっくり動かして、直木賞とかを狙える作品をじっくり書いていただきたいなと思う。

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島田雅彦『彼岸先生』

2007-09-05 | 小説
彼岸先生 (新潮文庫)
島田 雅彦
新潮社

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「新しい恋が始まると何となく体が軽くなるな。この感じがたまらなく好きなんだ。わかるだろう? 君も絶えず恋する相手を探して、発情しているもんな。恋をするのをやめたら、世界は再び自意識の暗闇に舞い戻ってしまう。恋愛というのは自分と他人の組み合わせから奇妙な物を作る作業なんだ。自分と似た者と馴れ合うことじゃない。恋する者は互いに他人同士じゃなきゃいけないんだ」(P114)

 結構読み終えるまでに時間がかかったのだが、島田雅彦の『彼岸先生』を読んだ。大学の時に島田先生の最高傑作だと後輩に紹介されて読もうと思っていたのだ。話は、現代版(といっても世界観はすでにちょっと古くなっているが)の『こころ』。

 ドンファンでプロの嘘つきである彼岸先生と、大学生のぼくの奇妙な関係を書いた小説。章の題名は夏目漱石の小説のパロディで、先生がぼくに自分の日記を送ったりするあたりはいかにも『こころ』っぽい。
 この小説の良いところは、結構重いテーマを扱っていながら、徹頭徹尾軽快な(軽薄なと言っても良いかもしれない)文体が貫かれていることだろう。人物たちの悩みは大きいが、その文体の軽快さが彼らを現実に引き留めている。言ってみれば、ランニングマシーンの上で走り続けているようなものだ。軽快に息継ぎをしながら、手を振り足を前に出している分には良いが、ひとたび足を動かすことを止めればマシーンから放り出されてしまう。何で走っているかということには、あまり意味がない。ただ走り続けていることだけがどんなに無意味に見えても現実だ。

 とか考えていると、これはなかなか良い小説ではないかと思えてきた。もう一度読み直したら、高橋源一郎先生の『ジョン・レノン対火星人』と同じくらいにお気に入りの小説になりそうである。まいったな。

「何年か前から私は自分が生きているという実感をもてなくなりました。私の人生に始まりも終りもないような気分に深く囚われました。しかし、最近はそれでよいのだと思っています。私が人生に苦しんだとすれば、それは信仰を持たなかったからではない。神を持たぬ者は、人生を理解したり、物語ったりする術を知らない。「人生は空しい」と呟くしかないかも知れない。しかし、人生はなかったということにはならない。私はただ生きているのだ。ただ生きている者には歴史も物語も意味がありません。神や信仰も、人の同情や愛や信頼も必要ない。生きているという実感すら不要です」(P175)

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恩田陸『木洩れ日に泳ぐ魚』

2007-08-18 | 小説
木洩れ日に泳ぐ魚
恩田 陸
中央公論新社

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 恩田陸の『木洩れ日に泳ぐ魚』を読んだ。久々の、いかにも恩田陸らしい傑作!

 ある生き別れになった双子の兄妹が大学で出会い、その後一緒に暮らしていくのだが、彼と彼女は互いに一線こそ越えないものの男女の愛情を抱いてしまう。彼と彼女はある日、かつて自分たちが母の胎内にいることも知らず母と別れ、今は山の案内を仕事にしている父の元に、素性を隠して観光客として訪れるのだが、その山歩きの最中に父は崖から落ち死亡してしまう。部屋を引き払い、別れて生きていくことを決めた彼と彼女は、最後の日に酒を飲みながら会話をする。胸には、互いにあの男を殺したのはお前ではないかという疑念を抱きながら。

 僕は恩田陸の小説は、『まひるの月を追いかけて』とか『三月は紅の淵を』所収の「虹と雲と鳥と」とか血縁のエグさを書いたものが特に好きなので、この小説はまさにツボなのだ。しかもこの小説は話の引っ張り方がうまく、かなり読ませてくれる。先に言っておけば、『まひるの月を追いかけて』と話の引っ張り方とかがそくっりなので、どちらかが気に入った人はもう一方を読んでみるといいと思う。

 あらすじは以上の通りだが、実際には、すべて彼と彼女の最後の一夜の会話が描かれるのみであり、過去の出来事も回想や推理のかたちで語られる。語り手も、節ごとに彼と彼女で後退し、互いの心理とその読み合いが描かれる。そして、二人が語るうちに片方が知らなかった事実が浮かび上がったり、どちらも覚えていなかったことが会話に触発されていて記憶が蘇るというふうに、謎が明かされていく。言ってみれば、安楽椅子探偵のような推理の仕方といえなくもない。そういったわけで、推理に物証があるわけではなく、最後まで読んでも、彼らは納得していても、彼らの推理が確実だというわけでもない。それでも、これしかないという手ごたえがある。

 いつか、恩田陸が『まひるの月を追いかけて』についてコメントしたときに、毎回の連載でどうやったら(マンガ雑誌的な)「引き」を作るかに細心した、ということをいっていたと思うが、どうも恩田陸が自分の書き方について語るのを読むにつけ、プロットとかを立てて、物語の枠組みを決めてから書き始めるのではなく、面白そうな出発点をまず設定して、そこから適当に伏線をはりつつ、あとで強引に伏線の回収の仕方を思いついて、というふうにアクロバットに書いているのではないかという気がする。まあ、実際そんな書き方をしているかどうかはよくわからないが、僕は常々恩田陸の小説には、物語がどこに向かうのかわからないというアクロバット感があると思うのだ。言ってみれば、暴れ馬にある程度勝手に走らせながら、ちゃんと手綱は握って離さず、最後には締め上げるという感じか。『木洩れ日に泳ぐ魚』はまさに恩田陸のそういったアクロバティック感が凝縮された話だと思う。ということで最初に戻るのだが、この本を恩田陸の傑作と認定したい。

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恩田陸『蒲公英草紙』

2007-08-11 | 小説
蒲公英草紙―常野物語 (常野物語)
恩田 陸
集英社

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 恩田陸の『蒲公英草紙―常野物語』を読んだ。知らない人のために言っておくと、「常野物語」とは『光の帝国―常野物語』からはじまる恩田陸のシリーズの一冊。常野とは具体的な地名というよりも、いろいろな超能力をもった一族のことで、『光の帝国』では現代を舞台に、『蒲公英草紙』は大正時代を舞台に、権力や富を求めず時代の影で生きる人々を描いた話。

 僕は大学に入る直前、だから5年ちょっとくらい前に『六番目の小夜子』を読んで以来の恩田陸氏のファンだけど、本屋大賞をとった『夜のピクニック』あたりから、ちょっとおもしろくなくなった。おもしろくなくなったというのは本の内容というよりも、妙にメジャーになってアイドルまでも恩田陸の本が好きとか言うようになってしまって、旧来からのファンとして複雑な気分なのである。まあ、大学の読書サークルで恩田陸の普及を進めたすえ、いざメジャーになってみるとヘコむというのは勝手な話だが。それにまあ、本の内容にしても、『夜のピクニック』以前は、ラストでえ"--っ!!というオチの付くとんでもないのが結構あったが、以降はちょっと大人しくなったような気がする。そんなわけで、『夜のピクニック』以前は発売日に最新刊を買い、3日以内には読み終わっていたという、自他認める恩田陸ファンだったのだが、最近はとりあえず買うが積読行きとなってたのである。

 前置きは長くなったが『蒲公英草紙』は久々に読んだ恩田陸の本である。話は、ある村に常野の人がたどり着くところからはじまる。ときはまさに日本が次々と戦争をやっていた時代。その中で、西洋化と日本の伝統(もっとも社会学的には、「伝統」というのは近代になってから作られた、まさに近代の産物とされるのだが)、普遍と特殊の対立が、常野という作中で一見特殊でありながらより普遍的とされる人々の考え方を通して考察される。その考察を通して、日本が否応なくまきこまれ、あるいは推し進めてしまった数々の戦争の反省も行われる。物語だけを眺めると割りと平凡な話だが、その思想性みたいなものに目を向けると、バランスが取れておりなかなかよく出来ている。もともと恩田陸は一見平凡な物語に、ノイズとしていろいろなものを上乗せするのがうまい作家だったが、その能力だけで一本書き上げてしまったという印象である。だから、見ようによって結構変わってくる小説だと思う。それに、大正~昭和の人物が日記として書いたという設定の文体もよくできている。

 というわけで、よく出来た本ではあると思うが、やはり旧来からの恩田陸ファンとしてはパンチが足りない気はする。

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壁井ユカコ『エンドロールまで、あと』

2007-08-07 | 小説
エンドロールまであと、 (小学館ルルル文庫 か 2-1)
壁井 ユカコ
小学館

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「……楽しい? 楽しいってこういうことなのかなあ。/なんだかうずうずした。心臓がうずいている。もっと生きたいって言ってる」(P104)

 壁井ユカコさんの『エンドロールまで、あと』を読んだ。小学館ルルル文庫という女の子向けレーベルなので、表紙から腐女子度の高い小説だが(失礼だ…)、内容については、一卵性男女双生児の恋愛を扱うという表層の腐女子度の高さに反し、『鳥籠荘の今日も眠たい住人たち』ほと腐女子度は高くない。

 主人公は一卵性男女双生児の右布子と左馬之助、右布子は病弱で生意気な性格で、左馬之助は普通の男子高校生だがある悩みを抱えている。舞台は北陸のある高校の映画同好会で、四人しかいない部員はあまり仲良くない。しかし、文化祭のために映画を撮り始め、小さな事件を乗り越えていくことで、結束を深めていくのだが…。

 「ハライタ」からはじまる小説って。血っぽさとか怪我っぽさとか含めて、壁井さんしいなあという作風だが、特に壁井度が凝縮され濃度の高い一冊に仕上がっている。一見、腐女子っぽくはあるけど、もともとファンの僕含め男子でも結構読める小説ではないかと思うのだが。特に登場人物たちの心の機微(脇キャラもいい)なんていうものは、そこらのライトノベル作家は見習ってほしいところだ。『狼と香辛料』も面白かったけど、やっぱり僕にはこっちだな。他、やたら怖いおばあちゃんとか、最近の小説ではなかなか描かれないながら、よく描かれている部分がたくさんあり、読ませる小説でもあった。
 ただ、気になるのは最近の壁井作品に多い、「逃避行」という展開。もはや得意としていると断言できるほどで、後半の展開にアクセントを加えているが、連続して使われると、ファンとしては、「またかぁ」というぼやきがでるのもしかたないところもある。そういや、『キーリ』シリーズなんかは、考えてみれば、全編逃避行といっても間違いではないかも。文体の妙とか(吉本ばななの発展系みたいなものだが、これはほんとに見習いたい)心情の機微とか、読後のすがすがしさとか持ち味を残しつつ、新たな境地を開拓して欲しい。

 壁井ユカコさんの入門本のスタンダードは『カスタムチャイルド』で変わりないが、女の子には『エンドロール』でもよいかも。『カスタムチャイルド』の続編とか出ないかな。最近刊行ペースがあがっているし、期待したい。ただ、このまま女の子レーベルの作家になってしまうと、デビュー以来からのファンとしては寂しいのである。

「左馬のほうが大きくなったから、今まで右布子は生きてこられた。左馬が守ってくれたから。支えてくれたから。……間違いなんかじゃないよ。右布子たちは失敗作だけど、間違いではないんだよ。たくさんの失敗が集まって集まって、それでね、奇蹟になったんだよ。右布子は左馬と別々のものに生まれてきて、よかったんだって、今は思う」(P256)

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ダン・シモンズ『ハイペリオンの没落』

2007-08-03 | 小説
ハイペリオンの没落〈上〉 (ハヤカワ文庫SF)
ダン シモンズ,Dan Simmons,酒井 昭伸
早川書房

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ハイペリオンの没落〈下〉
ダン シモンズ,Dan Simmons,酒井 昭伸
早川書房

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「ゆえに、詩人たることは―真の詩人たることは、人類という存在の化身となることである、と小生は悟った。詩人のマントを身にまとうことは、救世主の十字架を背負い、人類の魂の母としての、生みの苦しみを経験することにほかならぬ。/詩人となることは、神になることなのだ」(P342)

「行け!/生きて死ね、生きるために!/またはしばし生きてのち死ね/我らみなのために!」(P376)

「わが新時代の人類の膨張は、いっさい惑星のテラフォームをともなわない。われわれは困難を喜び、異質さを歓迎する。われわれは宇宙を自らに適応させたりはしない……われわれのほうが適応するのだ」(P452)

 『ハイペリオン』の完結編、『ハイペリオンの没落』を読んだ。続けて読むと500ページ級の文庫4冊という長大なSF物語だが、最後まで読んだ甲斐があった。圧巻! 案外海外の小説ってオチが弱いことが多いと思うのだが、この小説は明らかに例外。『ハイペリオン』で提示された謎が後半になるにつれ、次々と明らかにされ、これでもかとうならされる。

 遂に<時間の墓標>にたどりついた6人の巡礼たちだが、かの地では何も起こる気配がない。しかし、探索をするにつれ、一人、また一人と巡礼が消えていく。一方、「宇宙の蛮族」アウスターとの開戦準備を勧める人類連邦CEOのグラッド・ストーンのもとには、ジョゼフ・セヴァーンという謎の画家が招かれていた。彼は、巡礼の一人、レイミアを通して、巡礼たちの様子を「夢見る」ことが出来るというのだが…。

 アウスターと人類連邦と<テクノコア>の三つ巴や、巡礼たちのシュライクとの対峙、謎の存在ジョセフ・セヴァーンの正体など、見所の多い小説である。政治的な要素、恋愛的な要素、ミステリー的な要素、そしてもちろんSF的な要素が詰め込まれまとめあげられているが、この小説はなんと言っても冒険小説ではないかと思う。派手なアクションこそ少ないものの、次から次へとめまぐるしく変わる事態と興奮は、まさに冒険小説のそれである。小説としては、『ハイペリオン』の巡礼たちが次々と自らの物語を語るという実験的な試みはないが、各所で起こる事態の推移を平行的に書き上げる筆力はまさに神業的。詩の引用は文体の書き分けなどもすごい(そしてこれを訳した訳者も)。まあ、唯一突っ込むとしたら、ときどき顔を出すちょっと行き過ぎたロマンチシズムくらいだが、アイデアを得ているジョン・キーツの詩の影響かもしれない。

 『ハイペリオン』シリーズはこれで一応の終わりだが、この後に『エンデュミオン』『エンデュミオンの覚醒』という続編が続く。というのも、『ハイペリオンの没落』で<時間の墓標>が開いたのは一つの遺跡だけで、他の遺跡群の機能は謎として残されているのだ。この『エンデュミオン』だが、アマゾンのレビューとかを見ると、評判が悪い。『ハイペリオンの没落』の解説の大森望氏はシリーズで『エンデュミオン』が一番面白いといっているが、どっちが正しいのか。でもまあ、一旦他の小説に手を出し、覚悟をできたら『エンデュミオン』を読みたいと思う。

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ダン・シモンズ『ハイペリオン』

2007-07-11 | 小説
ハイペリオン〈上〉

早川書房

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ハイペリオン〈下〉

早川書房

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 「存在自体が奇蹟にひとしい現代SF最大最強の大傑作」(大森望)という絶賛の声もある、ダン・シモンズの『ハイペリオン(上・下)』を読んだ。確かに、まあ、気の遠くなるような小説だ、いろんな意味で。
 あらすじとかは、訳者あとがきからの引用で。「時は二十八世紀、人類は宇宙へ進出し、二百の惑星を転位網―早い話が“どこでもドア”ネットワークで結んで、一大連邦を形成していた。この連邦の高度技術を一手に管理するのは、独立自立知能群<テクノコア>なるもので、その超予測能力は連邦の政策をも左右する。しかし宇宙には、その<コア>にすら予測できない不確定要素が存在した。謎の遺跡<時間の墓標>を擁し、時間を超越した怪物シュライクの跳梁する、辺境惑星ハイペリオンだ。迫り来る“宇宙の蛮族”アウスターの脅威のもと、<時間の墓標>を訪ねるため、いま、七人の巡礼がハイペリオンに到着する。巡礼の旅の合間に、業深き七人が交互に語る物語は、相互に関連し、複雑にからみあい、やがて大いなる謎へと収斂していく―」という話である。話の壮大さが理解いただけるだろう。補足するとこの小説は『ハイペリオン』という題からも明らかな通り、ジョン・キーツの同名の詩がモチーフとなり、しばしば引用もされている。また旅の道程で、巡礼者たちが自らがハイペリオンに訪れるに至った物語を互いに語るのだが、これは『ガルガンチュア物語』からの応用らしい。なんとも作者の教養が思われるところである。そして、それぞれのエピソードは、スペースオペラやハードボイルド、ラブストーリーなどなどと、さまざまなジャンルの物語であり、小説一つがメタジャンル的な小説となっている。

 個人的にツボなのは、「巡礼」のモチーフについて。なんだか知らないが、どうも私は「巡礼」というモチーフに弱いのである。そして、正直なところ、上巻ではあっけにとられるばかりでなかなか面白さを理解できなかった小説だが、下巻あたりではようやく理解が追いついてきて、エキサイティングな冒険ものとしてかなり楽しめるようになった。(SF知識など)敷居は高いが、読みこなせる人ならハマることは間違いないだろう。

 ところで、ちょっと引っかかったのは、「軍人の物語」と「領事の物語」のラブ・ストーリーは、これはフェミニズム的にはちょっとマズイ感じがするというか、美少女ゲーム的な都合の良さを感じたりもする。

 ところでこの『ハイペリオン』だが、巡礼たちが目的地に到着したところで終わり、完結はしておらず、完結は次の『ハイペリオンの没落』に持ち越される。これもジョン・キーツの『ハイペリオン』『ハイペリオンの没落』をなぞったことによる、構成上の遊びということで、作者の凝りっぷりといえば、大したものである。今『没落』を読み始めたところなので、いづれその感想をば。

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秋田禎信『カナスピカ』

2007-06-19 | 小説
カナスピカ

講談社

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「物語の優れている点は、受け手が本当に欲している言葉を自分自身で見つけられることにあると思う。何度もそういう言葉に出会ってきた自分も、誰かに伝えたい」(『カナイスピカ』帯より)

 秋田禎信の『カナスピカ』を読んだ。秋田禎信といえば、『魔術師オーフェン』シリーズで有名なライトノベル作家で、僕は『エンジェル・ハウリング』はライトノベルでベスト3に入るくらい好きなシリーズである。最近全然小説を出さないなと案じていたのだが、講談社からライトノベルでない恋愛小説なぞを出してしまったのだ。まあ、僕としては『エンジェル・ハウリング』みたいなライトノベル(もっとも、ほとんどライトノベルではなくなっていたが)を出してほしいのだが。

 というわけで『カナスピカ』は恋愛小説。なんだか人間関係が苦手な加奈は、ある日空から降りてきた宇宙人の地球用天体観測衛星で人間型にもなる「カナスピカ」と出会う。彼は3万年もの間地球の衛星軌道上を回り、地形の観測を行うはずだったが、わずか50年で隕石にぶつかり地球に墜落してしまう。再び衛星軌道に上がりたい彼は、かつて彼が打ち上げられ、今も一回分の打ち上げエネルギーが蓄積されるハバルという地を探している。加奈はカナスピカのハバル探しを始めるのだが、黒ずくめの男達が現れたり、噂好きのクラスメイトに絡まれたりして…。

 なんか作者が少女に託すロマンみたいなものをひしひしと感じるが、ちょっと笑えちょっと泣ける良い話。考えてみれば、暴力的な主人公ばかり描き、でも割とロマンチックな話を描いていた作家としては、持ち味の一つを封じられながらも、納得のいく小説となっている。すごい!ということはないが、良い感じ。人間関係も丁寧に描かれていて好感度高し。いや、ちょっと切ない話なのだ。なお微妙に、『となり町戦争』ぽさを感じたりもする。

 でもやっぱり秋田先生にはライトノベルを書いてもらいたいなー、とは思うわけである。もう一つ温めている企画があるらしいから、そちらがライトノベルであることを願いたい。さらに、ライトノベルでも一般文芸でも大家になれるほどがんばってもらいたいぐらいだが。

「自分のことだけ分かってもらおうっても無理よ。一緒に見てないと。離れてても一緒に見続けられるものがあるのって、一緒にいるのと同じくらい素敵なことだって思わない?」(『カナスピカ』P259)

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イタロ・カルヴィーノ『パロマー』

2007-06-09 | 小説
パロマー

岩波書店

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「ひとりの男が一歩一歩、知恵に到達しようと歩みはじめる。まだたどりついていない」

 イタロ・カルヴィーノの『パロマー』を読んだ。現代イタリアの人気作家のポストモダンな小説である。超短編の連作小説。

 この小説は、中年男性、職業不詳の男性パロマー氏がいろいろなところで世界を観察し、瞑想する話である。パロマー氏は不器用な人で、そのためにいろいろと問題を起こしたりする。こういってはなんだが、自意識過剰な人を揶揄するところの、「中二病」みたいな人である。小説は行為よりも思索を主に描いているので、哲学的なエッセーに似ている。あと、パロマー氏に追従して、プチ悟りを得ることができたりする。

 おもしろいかと言われると、うーん、辛いな。本自体が薄かったからいいものの、仮に2倍の分量があれば、投げていたと思う。むずかしいし。ただいくつかの短編は皮肉な結末で終わっていたり、短編小説としての楽しみもあるのだが、ポストモダンかあ、と言ってうなずかざるを得ないところが多い。はっきり言って、シロウトには無理。文学クロウトが挑戦すべき作品。

「宇宙は、わたしたちが自分のなかで学び知ったことだけを瞑想することのできる鏡なのだ」

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W・シェイクスピア『ハムレット』「尼寺へ行け、尼寺へ」

2007-06-06 | 小説
ハムレット

新潮社

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「生か、死か、それが疑問だ、どちらが男らしい生きかたか、じっと身を伏せ、不法な運命の矢弾を耐え忍ぶのと、それとも剣をとって、押し寄せる苦難に立ち向かい、止めを刺すまであとには引かぬのと、一体どちらが」(『ハムレット』P84)

 シェイクスピアの『ハムレット』を読んだ。無論戯曲である。文豪という言葉に当てはまる人物を挙げろと言われたら、私の場合(イメージ的に)、シェイクスピアとゲーテと夏目漱石が挙げられるのだが、夏目漱石はともかくゲーテは詩をいくらか読んでいたが、シェイクスピアは何も読んだなかったので、とりあえず読んでみた。

 『ハムレット』は復讐譚で悲劇だが、狂気をもったハムレットの行動が一方でおかしい。たとえば、父の亡霊に自分を殺した弟で現国王に復讐してくれとハムレットは頼まれ、親友のホレイショーと復讐の誓いを立てるのだが、そのとき地下から亡霊の喜ぶ声が聞こえ、それならと、ちょっと離れてまた誓いを立てたらやはり亡霊の声が聞こえ、というやりとりを何回か繰り返している。そのため、割と喜劇仕立て雰囲気さえ感じるのだ。
 それにハムレットの性格が曲者で、復讐を誓ってからはどこまで本気なのか狂ったふりをし、復讐を先延ばしにしてしまう。このために、『ハムレット』という作品の評価について、論争があったらしい。確かに、ハムレットの行動は、現代の私たちの目から見るに非一貫的で感情移入を拒むものだが、訳者によるとこれはハムレットが生粋の役者、人生を演技して楽しむからということで、なるほどと思った。人が日常において演技していることなど、ゴフマンを参照することなく、社会学では当たり前のことである。ただ確かに、ハムレットのこの気質のせいで物語が見えにくくなっているので、この新潮社版を読む際には、まず解題と解説に眼を通すことが、作品読解上有益ではないかと思われる。解説を読んで興味が沸いたので、いっそシェイクスピアの「四大喜劇」を制覇してみようかなあとか思った次第である。

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