![]() | 白鯨―モービィ・ディック〈上〉 (講談社文芸文庫)ハーマン メルヴィル,Herman Melville,千石 英世講談社このアイテムの詳細を見る |
![]() | 白鯨―モービィ・ディック〈下〉 (講談社文芸文庫)ハーマン メルヴィル,Herman Melville,千石 英世講談社このアイテムの詳細を見る |
「もう一度聞け、スターバック、もう少し深いところの話だ。よいか、すべて目に見えるものは、ただのボール紙でできた仮面にすぎぬ。だが、ひとつひとつの事には、たとえば人が生きてするまぎれもない行為や行動には、何かよく分からぬが、それでも理の通ったものが奧にいそんでいる。それが理の通らぬ仮面の背後から、鋳型のようにその形を押しつけてくるのだ。もし、人間、何かを撃ち破りたいなら、この仮面を撃ち破れ。この壁を撃ち破らずしてどうして囚人が外に出られようぞ。壁、おれにとっては白い鯨が壁だ。おれのほうに迫ってくるのだ。ときにはその向こうには何もないと思うこともある。それでも、構わぬ。かれがおれを試み、かれがおれにのしかかってくる。かれのなかに、たけり狂う力が見える。たけり狂う力を生み出す計りがたい意志が見える。その計りがたきもの、それをおれは憎悪するのだ。あの白い鯨は代理なのか、あの白い鯨は本体なのか、いずれであれ、おれは我が憎悪をかれのうえにたたきつける」(上P396-397)
ハーマン・メルヴィルの『白鯨』を読んだ。米文学ベスト10位には必ず入る、そしてサマセット・モームが世界の十大小説に挙げる傑作中の傑作なのである。そしてなんと言っても、この講談社文芸文庫版の訳者は僕の大学の卒業指導教官なのである。むしろ、先生今まで読んでなくてすいません、ていうくらいだ。米文学はロストジェネレーションを中心に結構好きで、ホーソーンの『緋文字』からオースターまで割と手広く読んでいるのだが、フォークナーの『八月の光』をギブアップしたり、ヘミングウェイとかのマッチョ趣味が合わなかったりで、結構穴があった。『白鯨』も『老人と海』みたいな感じかとちょっと敬遠していたのだ。
さて、この『白鯨』の講談社学芸文庫版だが、文庫で一冊1900円、それだけでも下手なハードカバー文芸書より高いのに、上下巻の2冊ある。あわせて3800円…CDより高いじゃん。でも、名作と呼ばれるだけあって、それだけの価値(まあ文学の価値を金銭的な価値と等閑視はできないけど)はあると思う。というのは、まずこの小説はなかなか異様な小説だ。
まずはじめに、この小説のモチーフでありそれ以上のものである鯨についての数多くの引用から始まる。そして、いざ本編がはじまっても、話の裏には聖書を中心とした膨大な引用がある。語り手のイシュメールは作中の行為者でもありながら、何かをするのは前半の一部だけで、あとはエイハブたちと一緒に船に乗って働いているにもかかわらず、行為者としてはほとんど登場しない。そして、いざイシュメールとエイハブたちが航海に出ても、鯨取りや航海や鯨そのものなど、いろいろな事物についての記述や説明が大部分を占め、そういう小説らしくない文章の方が、話の進む小説らしい文章よりも多いくらいなのである。さらに、訳者(つまり僕の先生)の解説によれば、これは歴史的出来事としてあった、ネイティヴ・アメリカンと入植者たちの対立を暗に描いたものだとされる。また古くの読み方では、エイハブ=文明=善VS白鯨=自然=悪という対立と読まれがちだったのに対し、モームはエイハブ=文明=悪VS白鯨=自然=善という対立であるそうな。そしてつけ加えるなら、僕の読み取りでは生活貧困者のメルヴィルが裕福層に対するやっかみを暗に描いたのが大きいのではないかと思える(ちなみに、メルヴィルは捕鯨船で働いたが辛くて脱走したらしい(wiki知識))。
まあ、そんな具合で、いろいろ描き込まれたせいで、『白鯨』は難解で、大江風に言えば多層的で、システム論的に言えば複合的な小説である。そもそも、先に述べた話よりも説明にページが割かれているという意味では、あまり小説らしくはない。それでも、文句なく面白かった。それも先が気になってどんどん読み進むという類の小説ではなく、読んでいる間何かが膨れあがっていくような、充実した面白さである。その理由の一つには、別にこびを売る訳じゃないけれど、訳者の訳の巧さ、とくにそのテンポの良さが挙げられるのではないかと思う。この軽快な文体を読んでいると、メルヴィルの文体の軽快さが窺われるのだが、その軽快さのおかげで説明的な内容の文章を読んでいても、不思議な小説的な面白さを感じるのだ。いやあ、先生良い仕事してます。
大学の文学部の学生を含めても、価格面でもその長さからしても、簡単に勧められる小説ではないが、こういう小説もあるんだ、ということで見識を広められる小説だと思う。文学の古典的大作にしばしばある「異様さ」(かつて自分の右足を奪った白鯨に老船長が復讐しようとするという単純な話なのにもかかわらず!)、それを味わえるだけでも、ただすごい小説だ!とうなるしかないのである。
あ、あとつけ加えておくと、こういう読むのに時間がかかる大作を読むときなど、読んでて良いと思ったところに印を付けておいて、読み終わったあとにその部分を読み直すと、その小説がどんな小説だったのか、ということを簡単に見直せて良いと思います。
「我々が人生と呼んでいるこの錯綜した奇妙な事態のうちには、人がこの全宇宙を一つの巨大な冗談だと考える奇怪な瞬間、奇異な場面がある。しかし冗談の真意はそう考える本人にもおぼろ気にしか分からない。ただ、からかわれて傷ついているのは、他の誰でもなく自分であると確信してはいる。なのに生きることに脅えを感じるわけではない。まして、反抗的に生きて行くわけでもない。どんな出来事でも、どんな主義でも、どんな信条でも、どんな意見でも、どんな飲み込みにくいものでも、有形無形の差にかかわらず、どんなごつごつしたものでも、人は飲み込んでしまうのだ。まるでやたら強靱な胃袋をした駝鳥ではないか。駝鳥は銃弾でも火打ち石でも飲み込むという。そして、ささやかな苦労や心労、あるいは、不意に襲いかかってくる災厄の予感、生命と身体の損壊、そしてこれらすべてに加えて他ならぬ死そのものも、これらすべてが、かれにとっては、不可視にして正体不明のあの老道化師に、冗談半分で脇腹を小突かれたくらいにしか思えないのだ。気のいいひょうきんな仕草であいつが脇腹をちょんちょんと小突いてきたんだと考える。この機会で不安定な気分は、何か極度の苦難に直面しているときに限って襲ってくる。何事かに真剣に取り組んでいるさなかに訪れてくる。結果、かれにとって、いまのいままで重大なる意味をもっていた事柄が、途端に、すべては冗談でした、これもその一部なんです、と思えてくるのだ。これを、自由で気楽でにこやかなならず者の哲学とでも呼ぶなら、捕鯨の危険ほど、この哲学をのさばらせるものはないだろう。そしてこのおれもいま、この哲学を身に付けて、ピークオッドの全航海と、そして、その目的である大いなる白鯨につき合って行こうと考えたのだ」(上P536-537)