自分の考えを持つこと、集団に流されないこと、信念を貫くこと、そんな個や個人主義が大事だという主張は常に繰り返されていると言える。日本人の集団主義を否定し、欧米人のように自分の考えをはっきり述べる、他の人の考えに流されないような個人を作ることが大事だという。個人主義は上からの圧迫に抵抗する重要な機能であると同時に、集団や権威による支配に抵抗し自由を勝ち取るために個人主義が必要であるとされる。
しかし、歴史を振り返ってみると個人主義が逆に個を抑圧したことが繰り返されてきたという事実に気づく。古代の地中海周辺の都市国家においては、個人主義が発展しその中で科学や哲学が大いに発展した。このことには都市国家が持っていた個人主義的な価値観が大いに貢献したが、個人主義は最終的には個人を逆に圧迫することによって科学の発展を停止し社会を停滞へと導いていった。
古代ギリシャにおいては民主制の考えが発展したとされているが、その実は一部の市民による非市民の恣意的な支配へと堕落していくものに過ぎなかった。個人主義が重視された都市国家においては様々な思想が発展して来ていたが、民主制という最高の善を見つけたと考えたものたちは自分達の考えに歯向かうものたちを弾圧し支配していくようになっていった。さらに大きな問題は、民主制を一部の者だけに選挙権を与えることを優れたもの合理的なものとして解釈したために、旧来の伝統と権威によって多くのものに一定の権利を与えることを主張する考えや、より多くのものに権利を与えることを主張する民主制を支持する考えが弾圧されていった。つまり、一部のものが自分達だけに選挙権と権利を与える制度を最高の善と同じようなものであるという考えを持つことを許したために逆にその個人主義によってそれ以外の考えが抑圧されることとなった。
民主制のような一見正しいと思われるような概念であったとしてもそれを一部のものが解釈したものも同じように正しいとは限らない。また、そのような解釈による優越性を認めるならば、本来の思想から遠いものが一部の強いものが言ったというだけで尊重され、本来の思想が逆に弾圧されるということになる。このようなことは、現在の人権や平和、男女平等における恣意性において見られるように、結局は誰が正しいかということになってしまう。キリスト教においても聖職者達は一時自分達の勝手な解釈が絶対的に正しいことを守るために、信徒達に聖書を見ることを認めなかった。したがって、一部の者に解釈に関する絶対的な権利を認めるならば、結局はそれは純粋に恣意的な支配にならざるを得ないだろう。私達は、個人主義を名乗る、個に対する抑圧に警戒しなければならない。