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他民族中心主義

2009年04月07日 | 政治

池田信夫blogの他民族中心主義と言う表現に思わず笑ってしまった。確かに言いえて妙で一部の人たちの思想を見事に表している。

西ドイツが「戦後処理」を終えたあとの1951年、バイエルンでは判事・検事の94%、大蔵省職員の77%が元ナチ党員だった。新たに結成された西ドイツ外交団の43%が元SSで、17%が親衛隊かゲシュタポにつとめていた。アデナウアー首相の主任補佐官は、ユダヤ人の「最終解決策」をつくった責任者だった。公職追放された実業家も1950年代前半には「社会復帰」をとげ、ダイムラー=ベンツやクルップなどの経営者になった。

彼らが復権した理由は、日本と同じである。冷戦が始まり、経済の再建に彼らの力が必要だったからだ。こうした集団的な記憶喪失がなかったら、欧州の再建は不可能だっただろう、と本書は指摘する。戦争犯罪に手を貸したという点では、ほとんどすべてのドイツ人が戦争犯罪者であり、その一部だけを戦犯として処刑したニュルンベルク国際軍事裁判は、大部分のドイツ人を免罪する儀式だったのである。

ところがアジアでは、戦後60年以上たっても、不毛な「歴史論争」が蒸し返される。その違いは、欧州各国は互いに忘れることによる利益を共有していたが、中国と韓国は日本と利害を共有していないということだ。いまだに南京事件についての誇大な数字や慰安婦をめぐるデマゴギーを中韓の政府が流すのは、それが国内政治に利用でき、日本を攻撃しても失うものがないからだ。

他の考えを尊重することが、一部の他の意見を絶対視することによって特権となってしまう。これこそ日本において起こっていることだろう。多様性の下にそれ以外の国はまったく無視されるのに中国や朝鮮半島の意見が神聖化される。日本人内の議論なのに外部の、それも一部の集団が絶対的な権利を持つことを主張する。この構図は中国が少数民族自治区に絶対的な影響力を行使し、民族浄化すら行っている現状を想起させる。結局は、片務的な上下関係なのである。

多様性を主張する考えが、一部の他者を重視するあまり、歪な特権思想になった事例はたくさんある。ヨーロッパにおいては、過去の植民地支配を反省せず、旧植民地に影響力を保持しつつ、一部の移民労働者のの権利が多様性の下に絶対視され現在の社会不安の原因となった。また、日本においては働く女性の権利を過剰に保護したため、シングルマザーなどの最も恵まれておらず、男女差別の被害を受けている層が取り残されることになった。差別的な多様性ではなく、公平な多様性が必要ではないだろうか。

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