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田舎道

東電の町から各町を転々と・・やっと終の棲家を決めました

一時帰宅で・・・

2012-05-29 08:23:49 | 大震災と原発事故
一時帰宅していた浪江町の男性が自ら命を絶ちました。

行方不明と聞いた時から、どうかどこかの家の片隅でもいいから生きていてほしいと願ってましたが・・・



一緒に一時帰宅していた奥さんを残して逝くという。

どんなに苦しかったか、悲しかったか。


残されたご家族の事を思うとたまらないです。

隣町に住んでいた者として、とても悲しい出来事です。



未来が見えないんですよね。

数年先も、数ヶ月先も、そして明日も、見えなくなってしまったのでしょうね。

辛いです。






私も先が見えず、いらだつことも多くて、自暴自棄な気持ちになることもあります。

でもこの大震災で生き残れたのだから、一日一日を大事に生きようと、心を切り替えるようにしています。


息子達が訪ねて来れる家、私達二人が最後の時を過ごす家が見つかるまで・・・

なんとか元気でいたいと願っています。
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3巡目一時帰宅

2012-03-18 14:21:41 | 大震災と原発事故
先日、3巡目の一時帰宅をしてきました。

前回はぐるりと山越えしたため3時間以上かかりうんざりでしたが

今回は中継基地が隣町となり大幅に時間短縮になりました。


中継基地でトランシーバーや線量計をつけて防護服をもらい自宅に向かいました。




30分ほどで懐かしい国道に出ましたが・・・

人もいない、車さえもない、だ~れもいない・・・不思議な感覚でした。




しかし、自宅近くの国道では、防護服つけた数人が道路工事をしていました。

  ありがたいですね、ご苦労様です・・・本当にありがとうございます。




町内に入ると、倒れたままの家屋が一年前のままで・・・




そして五ヶ月ぶりに我が家に。
家の周りは・・・・見る影もないほどに荒れきってました。




我が家に入るのに、こんな格好で・・・情けないです。



台所は散らばり過ぎて片付けようがない。


今回は大事にしてた着物や洋服等を持ち帰りました。

洋服・・・よくもまぁこんなにあるもんですなぁと自分ながらため息・・・



時間があったので、足の踏み場もない場所に足の踏み場を作ってきました。

ガラスも割れて散らばっているので大変でした。

玄関に鉢植えが割れて土だらけになっていたのを外に掃きだし、一年ぶりに玄関を開けました。




白もくれんの蕾がたくさん出ていました。


枯れ草に混じってすいせんの蕾が大きくなってました。



汚れた空気のこの土地で、頑張って咲こうとしています。

この次来れるのはいつになるかわからない。

見てあげられなくて、ごめんね。。。


でもまたいつの日か、きっと帰るからね。


ちなみに、滞在3時間ほどで、5マイクロシーベルトでした。

前回7マイクロだったのでいくらかは下がったようですが、やはり高いですね。


中間貯蔵地とか仮の町構想だとか、まだ先は見えてきてませんが、それぞれの町で動きが出てきてるようです。
さて、どうなるものやら。。。


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あれから一年・・・

2012-03-11 10:09:04 | 大震災と原発事故
あの日から、一年が経ちました。

冷たい体育館の床にダンボールを広げ、毛布一枚敷き、そこに寝た事、忘れる事ができません。

それでも、家族、親族、誰一人欠けなかった事、これは一番幸せな事であります。

大地震災害に加え原子力事故により、わが双葉郡は今なお苦しめられております。




昨日あたりから東日本大震災の映像が流れています。

どんなに苦しかったことか。

どんなに冷たかったことか。

そして、残された方々、いまだ待ち続ける方々、胸が詰まります。

凄まじい映像を見て、涙を流す事しかできません。

心よりご冥福をお祈り申し上げます。






あちこちに電話しました。

仮設住まいの義母に。

「帰れる時あったら、倉庫にいい食器、いっぱいあるから皆と分けてなぁ~」と言うので
「それはお義母さんが見ないとわからないよ~」と言うと
「そうかぁ、私いないと場所わからないか・・・もう少し頑張るかぁ」と。

・・・そばにいてあげられなくてごめんなさい。暖かくなったら主人と行きますね。
・・・元気でいてくださいね。

義理弟へ
「お義母さんの事、そっちにばっかり負かせっきりでごめんね~」と言ったら。
「大丈夫です~仮設で介護のことは整ってるし、友達も訪ねて来るから、元気にしてます~」と。

・・・血圧の薬飲み始めたらしいね。いろんな事抱えてストレスたまってるよね。
・・・体、大事にしてね。遠くから応援することしかできない。ごめんね。


お義理姉さんへ。
「〇〇子さんばかりじゃないよぉ~私もあちこち治療中なのよぉ~」
「この先どうなるか、まったく見えないよね~」と。

・・・具合悪いのは私ばかりじゃなかったね。
・・・まだまだ先は見えない日々、お互いに元気でいましょうね。


長男家族へ。
「俺たちの事は大丈夫だ。自分達の事心配しろよ」と。
「大変時に何も助けてやれなくて、ごめんね」と言たっら
「それぞれだったんだから、そんな事思わなくていいよ」と。

・・・見知らぬ土地で嫁と娘を守ったね。頑張ったね。
・・・これからもまだまだ大変だけど、嫁ちゃんと仲良く、大切な娘を育てていってね。


次男へ
「俺は~元気だぁ~~。そっちこそ年なんだから気をつけなぁ~」
「ここは雪は降るし、朝は道路テッカテカでブレーキきかないし大変だよ~慣れたけどね~」
「住むならやっぱ浜通りだなぁ~」

・・・相変わらず、元気な息子です。
・・・脳天気に見えても、結構私達の事、心配してくれる優しいヤツなんです。
・・・そろそろ身を固めたら、 どうかな。。


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数値

2011-12-08 18:26:24 | 大震災と原発事故
主人の職場の放射能測定器を順番に借りることが出来ます。
先日、ようやく順番が回ってきました。


早速、測定してみました。


家の中、一階は0.2~0.3マイクロロシーベルト。

2階に上がるとちょっとあがって0.3~0.4マイクロ。


・・・え~~!寝てる所が高いとは・・・・なんかちょっとショック。


外に出て、家の周りを測定。

ブロック塀の近くの落ち葉のたまってる所、雨水の落ちる所は、0.5~0.7マイクロ。

・・・やっぱり、高いなぁ・・・


単純に計算してみると

0.4×24時間×365日=3504マイクロ  これは年間3ミリシーベルトと言うこと。

決して低い数値ではないです。

これでは、孫ちゃん、呼ぶにはちょっと難しいことです。



ちなみに、一時帰宅した時は、2時間で8マイクロシーベルト。

一時間当たり4マイクロとして計算すると、4×24×365=35040マイクロ

なんと、35ミリシーベルトにもなる。


・・・到底、今のままでは帰宅は不可能です。

わが町は、「長期居住困難」となるか「居住制限」となるのか。それとも。。。

いつ設定が決まるのか。まだまだ霧の中、先は見えてきません。

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一時帰宅2巡目

2011-10-22 21:56:13 | 大震災と原発事故
先日、一時帰宅2巡目の許可が出て(我が家に行くのに許可がないと行けないなんて、情けない・・)

久しぶりに我が家に行ってきました。


指定された中継基地まで6国(国道)をまっすぐ行けたら1時間半ほどで行けるのに、

わざわざ遠回りして高速道乗り継いで、なんと3時間近くかかってしまいました。


何のために許可が出てるのか!まったく!


一言二言、言ってやろうと思って場所に着いたのですが、東電の方々のスムーズな誘導で

あれよあれよと言う間に、防護服を着て、手袋して、トランシーバー持たされて、線量計持たされて、

『どうぞお気をつけて~』と、出発させられてしまった・・・



警戒区域に入る所では物々しくキッチリ止められ、一台一台、許可証と車ナンバーを確認されました。

・・・今日は、一時帰宅の日! 我が家に帰るんです!・・ 知ってるだろうに~。





国道の周りの草木が伸び放題になって、まるで山あいを走ってるような所もありました。

道も所々崩れている所やアップダウンも多く注意して走らないと危ないです。


町内に入ったら、7月の一時帰宅の時より、陥没などが更に大きくなりあちこちで通行止めになってました。

このままじゃ町が朽ち果ててしまうよ~・・・・



家の前の道路です。両脇の草が伸びて道に広がってました。





『わぁ・・・家が草木に覆われちゃうよ・・・』





草ぼうぼうの庭・・・・背高く伸びて・・・・

でもコスモスもいっぱい。咲いてくれてたんだね・・・・





柿、今年はいっぱい生ったね・・・




周りの田んぼは、セイタカアワダチソウで埋め尽くされてるし・・・








今回は時間はありましたが、帰りの事を考えると、あまりゆっくりもしていられませんでした。

ストーブ、冬物衣類など車に積めるだけ積んで帰りました。

手芸道具がいっぱい入ってるケースも積んできました。


我が家は、とても遠かった・・・・・

残ってるだけいいとするしかないけれど。

疲れました。

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あれから半年・・・

2011-09-11 21:34:00 | 大震災と原発事故
3月11日、あの大地震の後


『部屋グチャグチャだよ~でも怪我しなくて良かったね~』

『大変だけど明日から少しずつやっていけばいいよ~』


強い余震に震えながら、皆んなと話ながら体育館で過ごしたあの夜。

あれから半年が過ぎてしまいました.









季節は、春から、夏が過ぎ、秋になってしまいました。

いまだに、先が見えず不安な日々を過ごしています。



家族を亡くされた方々、家を流された方々、その方達のことを思ったら

離れ離れになってはいるけれど、家族も親戚も無事であったこと、

ありがたく幸せに思わなくてはなりません。

なのですが・・・





ここは借家だから。

いずれ移るんだから。

移る時困るから荷物増やさず、住み心地よくせず、あえて多少困った生活をしていました。




だけど。。。。。もう半年。

半年も過ぎて、どうせ住むなら、ちょっとだけ心地よくしてみてもいいかと。。。



今日は二階の自分達の部屋を片付けました。

支援物資のラックを取り出して、PC関係、主人の仕事関係など分けて

やりやすく片付けました。

ちょっと部屋らしくなりました。



一人くよくよ考えてもどうにもならない事。

国や県、町の復興状況を見守りながら待つしかないです。

まだまだ古里は遠いようです。







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除染中

2011-08-24 11:05:05 | 大震災と原発事故
なにやら騒々しいので外に出てみたら、家の前を大きな車がゆっくりと移動しております。




除染しているようです。

思わず、ご苦労様です!と頭を下げました。



ここは通学路なんだ。。。


これまで子供達の歩く姿を見た事がほとんどなかったので知らなかったです・・・


すぐ近くの保育園で園庭の表土を削っているのを数日前からみてましたが。


少しでも線量が下がるといいです。

子供達の元気な声が聞ける日がくればいいなと思ってます。
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帰れないのか・・・・

2011-08-22 11:36:52 | 大震災と原発事故
今朝の新聞の「警戒区域一部解除せず」のみだしにショックを受けた。

原発から3キロ圏内はかなり放射濃度が高く、長期間の居住は困難だと判断された。
我が家があるのは4キロ、同じ区内には3キロ圏内にはいる所もある。

でも、まだ除染も何もしないまま、困難と決められてはすごく不満である。
もっとしっかり調べて除染などして、それでも高い場合は・・・諦めるしかないかもしれないが。

我が家のある4キロ圏内、やはりすぐ近くまで高濃度に汚染されているということ。
3キロだから危険、4キロだから大丈夫と線引きされてはたまらないが。

このまま3キロまで国有地になったとして、すぐ近くに住み続けることなど・・・やはり無理だろうか。


以前から「絶対帰るもの! 自分達が頑張って建てた家だよ。皆いなくたって住むよ!」と私は言ってきた。

しかし主人は

『周り誰も帰って来ず、外に出る事も、庭も畑も出来ず、ただ家の中にじっとして居て死ぬの待つだけでいいのか』と。

『あの家に戻っても、孫を連れて来られないんだよ』とも。


そうなのだ。。。。

私達年齢になれば大丈夫かもしれないが、幼い子供達には危険な環境なのである。

そうなのだ、孫ちゃんに逢えなくなってしまうのだ。


あぁ~~~もう無理なのかな・・・・

あきらめるしかないのかな・・・

なんとかならないものなのかな・・・
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一時帰宅

2011-07-06 13:46:17 | 大震災と原発事故
週末、我が家に帰ってきました。



今住んでいる所から、国道をまっすぐ南下したら、45分ほどで自宅に着けるのに。

帰宅希望者の集合場所まで2時間、朝早く出発しなければなりませんでした。


『○○さ~ん、久しぶり~!元気だった~?今、どこにいるの~?』

会場に着くと、懐かしい顔、顔、顔がありました。

山形や埼玉、遠くは京都に住まわれている人も。



当日の帰宅者は200名はいただろうか、長~い説明、注意事項を聞き、防護服を着込み、

10時半過ぎから10台のバスに乗り自宅へと向かいました。

いつもの道路が使えず、隣町を経由しながらやっと家の近くにバスが停まりました。



何一つ変わっていない空、山々・・・なのに・・・



道路脇の土手の草が伸び放題となっており、自宅を見れば、これまた草ぼうぼうで・・・

庭か畑かもわかないほどに草が伸びていました。



ちょっ見、空き家のような感じさえ・・・・


家の中に入り、メモした紙を見ながら持ってゆく物を探しました。



棚から全部下に落ちて散乱してるので、そこを掻き分け掻き分け探しました。


帰宅者への注意事項として、冷蔵庫は開けるなという事でした。

これは正解です。  

ちらっと開けて見たら、ものすごい事になってました。  もう冷蔵庫は使えないです。。。


時間は(2時間)あっという間に過ぎ、帰る時間となってしまいました。



西側の紫陽花がまだ花を咲かせていました。

汚れた空気の中で、けなげにも今年も咲いてくれてたんだ。。。





迎えのバスに乗り込み、遠ざかる我が家を見ていたら、胸がいっぱいになりました。

家が流された人たちの事を思ったら、家があるだけでも幸せな事なのに。


『絶対、戻るよ』

『我が家だもの・・・』


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あの時

2011-06-27 22:06:55 | 大震災と原発事故


  3月11日

  午前中、お義母さんの検査があり病院に行き、結果異常なしでほっとして自宅に戻りました。

  お昼を食べ、夕食の買い物をと隣町にでかけました。

  買い物が済み車に戻ろうとした時、あの地震に遇いました。


  いまだかつて経験したことないものすごい揺れです。

  上へ横へと大きく揺すられました。

  自分の車まで辿りつけず、そこにあった車にしがみつきました。

  ものすごい横揺れ、縦ゆれにしがみついている車から振り落とされそうになり、思わず悲鳴をあげました。

  他のお客さん達も駐車場で悲鳴を上げ逃げまどい、これは大変な恐ろしい事が起こったと感じました。

  長い揺れがようやくおさまり、「家に帰らなくちゃ」とすぐに駐車場をでたのですが、
  
  もうすでに道路は大きく隆起したり陥没したりで通れなくなり渋滞が始まっていました。


  「・・うわうわうわ~~、何なの~!!」


  なんとしてでも家に帰らねばと、右折、左折、ユーターンを繰り返しながら、いつもの時間の3倍もかかり

  ながら辿りつきました。

  その間にも強い地震が何度もあり車が木の葉のように揺すられ恐怖で心臓がドキドキしてました。

  ラジオからは『津波がきます!沿岸から避難してください』放送が続いていました。

  もうすでに携帯は一切通じなくなっていました。


  ようやく自宅近くになると学校に避難する人達で混み合い始めていました。

  自宅のお勝手口から中に入って見たら、

  棚という棚から物が全部下に落ちていて、テレビ、ラック、本棚、タンスほとんどの物が倒れて、

  足の踏み場もない状態となってました。

  声も出ず、しばし呆然となりました。


  「あ!ぶーさん?!」 靴のまま家に上がり、ぶーさんを呼んだら奥の部屋からノコノコ出てきました。

  「怖かったね~ごめんね~」と無事を喜びましたが、強い地震が続いており家にいるのは危険のようなので

  ぶーさんにご飯いっぱいとお水いっぱいお皿に入れ、私だけ近くの小学校の体育館に行く事にしました。


  体育館では町内の人達でいっぱいになってました。
  大地震だった事がわかりましたが、地元町内にどの位の津波がきてるかなどわからずにいました。

  ご近所さん達と一緒になり『家の中のグチャグチャになったの、片付けるのたいへんだよね~』等と
  今考えると脳天気な事を言ってたものです。


  夜遅くになり、主人と長男が体育館に訪ねて来て、みんなの無事を確認しました。


  翌早朝、それぞれ帰ってゆきました。その後生活が一変することになるのです。


  突然『外に出ないで下さい。このまま避難することになります!』と、なにやら切羽詰った放送が。

  「へ?・・避難て?・・どこに?・・・」
  「何なの? 東電か?」 「東電、危ないらしい!」「危ないって?」


  みんな訳もわからず慌てふためくばかりで。。。

  なんかとても不穏な感じで・・・(一人で、怖いな・・ぶーさんは?・・どうしょう)と不安で不安で。

  そんな中、避難の大移動が始まったのです。



  お義母さん家族と離れてしまって・・・でもお隣さんと一緒になりしばらく過ごすことになりました。

  今も放射能値が高い、川俣の体育館に一週間ほど過ごしました。

  主人とも息子達ともやっと連絡がつき無事避難してることがわかりほっとしました。



  長男家族が避難所に訪ねて来てくれて『お母さん、一緒に東京に逃げよう』と嫁ちゃんは泣いてくれました。

  とてもありがたかったですが、主人や下の息子が県内にいるのに私だけ行くわけにはいかないです。

  いつかまた元気で逢おうね、絶対逢おうねと嫁ちゃんと手に手をとって泣きました。

  長男には「大変だけど、一家を守って頑張るんだよ」と手をしっかり握り泣き泣き見送りました。。
  

  避難所で一週間ほど過ぎたころ、埼玉アリーナに行く話となり、ますます一人遠くになってしまうと
  心細い気持ちになり、夜毛布をかぶり泣きました。


  ところがです。アリーナに行く当日、主人が偶然近くを通りかかり救助?してくれ埼玉に行かずにすみました。

  嬉しかったです。この時は本当に神様に感謝感謝でした。
  

  

  そのご、親戚に家に一ヶ月ほどお世話になり主人の社宅になんとか入れるというので今の場所にきました。

  主人が強行突入し、ぶーさんを救助してくれました。

  お義母さんが同居するという想定外な事も起きましたが。



  東電の収束もだいぶもたついている様子で時間はたっぷりかかるようです。
  その間にも、放射能問題が大きくなって日々の生活も敏感になってしまいます。


  帰れるのか、帰れないのか。。。
  原発4キロ県内に住む住民として、今、どうしたらいいかわかない状態です。
   

  主人と二人建てた大事な我が家です。

  綺麗に磨いて守ってきた大事な我が家です。

  気を植え花を植えて手入れしてきた大事な庭です。

  あきらめきれないです。

  まだまだあきらめていません。

  きっといつかの日か戻れると信じています。




  今週末、主人と一時帰宅します。

  我が家をしっかり見てきます。




  
  

  

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