岩手の野づら

『みちのくの山野草』から引っ越し

上京中の生活

2018-03-28 09:00:00 | 賢治と法華経
《『宮沢賢治と法華経について』(田口昭典著、でくのぼう出版)の表紙》

 では、ここでは〝◎上京中の生活〟の節よりである。
 まずは大正10年2月24日付政次郎宛書簡189を引いて、田口氏は、
『一応帰宅の仰度々の事実に心肝に銘ずる次第ではございますが御帰正の日こそは総ての私の小さな希望や仕事は投棄して何なりとも御命の儘にお仕へ致します。それ迄は帰郷致さないこと最初からの誓ひでございますからどうかこの段御諒察被下早く早く法華経日蓮聖人に御帰依遊ばされ一家同心にして如何にも仰せの様に世諦に於てなりとも為法に働く様相成るべく至心に祈り上げます。』
とこの手紙の中に記し、一家が改宗するまでは決して帰郷しないという固い決意を披瀝している。
           〈『宮沢賢治と法華経について』(田口昭典著、でくのぼう出版)84p〉
と述べ、賢治は当初、「一家が改宗するまでは決して帰郷しないという固い決意」であったということを教えてくれる。

 あるいは、金田一京助の次の追想(『四次元』一九五七年九月号外 宮沢賢治研究会)を引いて、
『賢治は、法華経の信者でその苦心の「国訳妙法蓮華経」の一本は私なども恵投に預かったが、それよりも、盛岡高等農林卒業後、上京して田中智学の法華経行者の一団に投じ、あるひ上野の山の花吹雪をよそに、清水堂下の大道で、大道説教をする一味に交り、その足で私の本郷森川の家を訪ねて見えた。中学では私の四番目の弟が同級で、今一人同じ花巻の名門の瀬川君と三人、腕を組んで撮った写真を見ていたから、顔は知っていたのだが、上野でよもやその中に居られようとは思いもかけず、訪ねてみえたのは、弟がその頃法科大学にいたから、それを訪ねて見えたかと思ったが、必ずしもそうではなかった。一、二語、私と啄木の話を交えたようだったが、外に大した用談もなし、また、私から、下宿はと聞かれて、しかとした答はなく、寝るくらいはどこにでも、といった風で、結局、田中智学先生を慕って上京し、あの大道説教団の中にいたということだったのには、私の顔が、定めしけげんな表情をしたことだったろうと恥ずかしい。 』
 賢治が街頭布教をしなかったのではないかという考えの人も居るが、賢治の卒業した盛岡中学の先輩であり、且つ自分の弟と同級であることを知って居た金田一京助の証言は、賢治が街頭に出て布教していたことを実証するもので疑う余地は無い。
               〈同92p〉
とも述べていた。たしかに、「街頭布教をしなかったのではないか」と言う人もあったやに私も記憶していたが、他ならぬあの京助がこのように言っていたというのであればそれは事実であったであろう。

 なお、この弟とは金田一他人のことであり、金田一兄弟(十一人兄弟で、金田一京助、平井直衛荒木田家寿等がいる)「中の大秀才で、我妻栄、岸信介と並んで鳩山門下の三羽烏といわれていたが惜しくも自殺して若死」したという人物である(『金田一京助先生の思い出の記』(金田一京助博士記念会、三省堂)30p~)。

 そして田口氏は、大正10年7月13日付関徳弥宛書簡195、
『近頃は飯を二回の日が多いやうです。あなたなんか好い境遇に生れました。親と一所に苦しんで行けますから。うちから金も大分貰ひましたよ。左様十五円に二十円に今月二十円来月二十円それからすりに十円とられましたよ。
図書館へ行っ見ると毎日百人位の人が「小説の作り方」或は「創作への道」といふやうな本を借りやうとしてゐます。なるほど書く丈けなら小説ぐらゐ雑作ないものはありませんからな。うまく行けば島田清次郎氏のやうに七万円位忽ちもうかる、天才の名はあがる。どうです。私がどんな顔をしてこの中で原稿を書いたり綴ぢたりしてゐるとお思ひですか。どんな顔もして居りません。
これからの宗教は芸術です。これからの芸術は宗教です。いくら字を並べても心にないものはてんで音の工合からちがふ。頭が痛くなる。同じ痛くなるにしても無用に痛くなる……(以下略)』
               〈同94p~〉
を引いて、
 書簡番号185で、『生活ならば月十二円なら何年でもやって見せる』と啖呵を切った賢治だったが、現実は厳しく、実家から毎月十五円~二十円の仕送りを受けていたことが分かる。
               〈同95p〉
と述べていて、賢治の心変わりがあったことを指摘している。そしてこのことは実は私も危惧していたところである。それは、賢治は熱しやすく冷めやすいという性向があって一つのことを長続きできず、だいたい7~8ヶ月経つとそれが萎えてしまいがちだからである。
 実際、周知のように、大正10年8月中旬~9月初旬
 「トシビョウキスグカヘレ」という電報に接するや、一月以来八ヶ月の東京生活を切り上げて、取るものも取り敢えず花巻に帰ったのであった。
               〈同102p〉
と田口氏が述べているように、今回もその「八ヶ月」で終わってしまったのである。

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