岩手の野づら

『みちのくの山野草』から引っ越し

鶯沢鉱山(11/5、鉱山跡)

2015-11-09 08:00:00 | 賢治と作品
 『湯口郷土誌』によれば、次がかつての
【鶯沢鉱山】

であるという。
 さてこの度、先輩のA氏からこの鉱山跡地へ連れて行ってもらうことになった。林道からその跡地への道に入るとやがて
《1 人工の構造物》(平成27年11月5日撮影)

《2 この向こうの山の斜面にその鉱山がかつてあったのだそうだ》(平成27年11月5日撮影)

《3 沢徒渉》(平成27年11月5日撮影)

かつてはここに橋があったという。沢沿いに道を進んでいったのだが途中で道は崩れていたので
《4 この沢》(平成27年11月5日撮影)

をとりあえず渉ることにした。
《5 硫黄のせいでだろうかやや白っぽい》(平成27年11月5日撮影)

そして
《6 このような斜面を急登することにした》(平成27年11月5日撮影)

ところ、
《7 途中こんな人工の構造物》(平成27年11月5日撮影)

《8 そしてロープもあった》(平成27年11月5日撮影)

《9 》(平成27年11月5日撮影)

《10 あれっ、(写真左下)レール? そして右手奥に鉱炉?》(平成27年11月5日撮影)

《11 どうやらトロッコ用のレールらしい》(平成27年11月5日撮影)

《12 やはり鉱炉》(平成27年11月5日撮影)

《13 》(平成27年11月5日撮影)

《14 》(平成27年11月5日撮影)

《15 》(平成27年11月5日撮影)

《16 》(平成27年11月5日撮影)

《17 》(平成27年11月5日撮影)

《18 》(平成27年11月5日撮影)

《19 》(平成27年11月5日撮影)

《20 》(平成27年11月5日撮影)

《21 》(平成27年11月5日撮影)

《22 》(平成27年11月5日撮影)

《23 》(平成27年11月5日撮影)

《24 》(平成27年11月5日撮影)

《25 ズリ山に登ってみると》(平成27年11月5日撮影)

《26 》(平成27年11月5日撮影)

《27 》(平成27年11月5日撮影)

《28 A氏によればここはトロッコ用レールが敷設されていたという》(平成27年11月5日撮影)

《29 》(平成27年11月5日撮影)

《30 》(平成27年11月5日撮影)

《31 でっかいダケカンバ》(平成27年11月5日撮影)

《32 》(平成27年11月5日撮影)

この鉱山は今から約半世紀前に閉山されたということだから、この大木のダケカンバは往時の鉱山の隆盛を目の当たりに見ていたのであろう。

 そして『岩手県鉱山誌』によれば、
【鶯沢鉱山坑内外関係図】

【鶯沢鉱山鉱区図】

              <共に『新岩手県鉱山誌』(高橋維一郎、南部松夫著、東北大学出版局)より>
【今の周辺地図】

              <『鉛』(二万五千分の一、国土地理院、平成15年更新、16年発行)より抜粋>
ということである。

 また、西鉛に「山祇神社」があるのだがそこの境内に次のような
《殉職之碑》(平成21年5月15日撮影)

《〃プレート》(平成21年5月15日撮影)

があり、
   鶯沢鉱山沿革の概要
 一、場所花巻市豊沢北向国有林内
 一、明治十九年六月鉛の住人藤井善吉路頭を発見(硫黄)
 一、大正五年三月東京港区当主先代小田良治代鉱業権者となる
   花巻駅西鉛間二十四粁を軌道施設
   西鉛鉱山間六粁索道を加設運輸
   元山分教場、駐在所を設置従業員 一、五〇〇名
   大正五年生産  七、五〇〇トン
   同六年〃〃〃  八、八〇〇トン
   同七年〃〃〃 一〇、六〇〇トン
 一、大正八年五月欧州大戦の余波により休山
 一、昭和十三年第二期計画着手
 一、昭和三十七年三月硫黄の自由化貿易のため採算相整わぬため閉山
  当時従業員六十六名
と記されていた。往時には1,500人もの従業員がいたし、分教場や駐在所もそこにあったとは驚きである。さぞかし鉱山は隆盛だったことであろう。

 後々、「平成27年9月19日は一度議会制民主主義が死んだ日だった」と歴史から裁きを受けるでしょう。

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